『天平の甍』と鑑真和上

 先10月に唐招提寺を巡って来ましたが、鑑真和上が、なぜ危険な航海を何度も試み、日本に来ようとしたか、その経緯を知りたくて井上靖氏の『天平の甍(いらか)』を読んでみました。

井上靖氏は、『西域物語』、『楼蘭』、『敦煌』などの西域の作品を数多く書いております。

天平の甍』は、遣唐使として大陸に渡り、高僧を招くという使命を受けた留学僧と鑑真との運命を描いた迫力と感動の物語でした。

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天平の甍』

 その大体のあらすじはこうです。

 朝廷で第9次遣唐使発遣が議せられたのは聖武天皇天平4年(732年)です。

興福寺の僧栄叡と大安寺の僧普照の二人が思いがけず、留学僧のとして渡唐することになりました。

栄叡(ようえい)は、大柄でいつも固い感じで一見すると40歳位に見えるが、まだ30歳をすぎたばかりです。普照(ふしょう)は、小柄で貧弱な体を持ち年齢も栄叡より2つ程若いです。

この二人で物語は進みますが、普照が主人公の書き方です。

 遣唐使船が出発するにあたり、二人の他に戒融、玄朗という二人の留学僧も加わりました。

 遣唐使船は四ヶ月をかけて中国大陸の蘇州に辿り着き、幾多の困難を越え洛陽についた二人は、玄昉や吉備真備そして阿倍仲麻呂など著名人と相次いで会います。この三人は遣唐使として717年に入唐していました。

 栄叡と普照が、鑑真の弟子道抗の紹介で揚州大明寺の鑑真に初めて会い、日本に戒律を正しく伝え教える人がいないので適当な伝戒の師の推薦を賜りたいと願いました。この時鑑真は55歳です。 

 鑑真は長屋王から千の袈裟を送られていたのを知っていて、「日本という国は仏法興隆に有縁の国である、誰か日本国に渡って戒法を伝える者はいないか」と弟子たちに聞きましたが、誰もいませんでした。

 そこで鑑真は、「たとえ渺漫たる滄海が隔てようと生命を惜しむべきであるまい。これは、仏教のためどうして命を惜しもうか。お前たちが行かないなら私が行くことにしよう」。こうして鑑真と17名の高弟が日本に渡ることが決まったのです。

 743年の第1回目渡航計画は、高麗僧如海の密告により失敗。鑑真56歳。当時、許可のない海外渡航は禁止されていました。

 同じ年の第2回目は、鑑真が八十貫の銭を費用に工面し渡航しましたが、難破して失敗に終わります。

744年の第3回目も密告され、栄叡が逮捕されます。  

第4回目も霊祐の密告により失敗。

748年の第5回目に渡航、60余人で出航しましたが14日間漂流して、辿り着いたのは南の海南島でした。鑑真61歳。

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東征伝絵巻 巻3第1段(南海へ押し流される鑑真一行)

 この島の大雲寺に仏殿を制作し、天宝8年(749年)を迎える4カ月過ごします。仏具、仏像、経典など日本への将来品を大雲寺に納めました。業行の膨大な写経の一部も。

 ここで栄叡が、ひどく体調を崩します。広州へ行って日本への船便を得ようとしましたが、虚しく亡くなります。享年47歳。

天平5年(733年)に入唐してから17年を経て、栄叡のひたむきな情熱が鑑真を動かしていたのです。

鑑真を日本に渡ることの主導的な役割を果たしたのが、行動人の栄叡です。普照は、鑑真を招くことに栄叡ほどの情熱も行動力も持たず、栄叡の熱意に引きずられていたような感じですが、結局、鑑真を伴って日本に帰ったのは普照でした。

 

この作品に登場する人物はユニークな人間が多いのです。

まず、戒融です。栄叡、普照とともに留学僧として遣唐使船に乗った人物です。長安から出奔して托鉢僧となり、放浪の旅を続けました。

普照に海路で天竺に渡り、帰途は玄奘三蔵の『大唐西域記』の道を辿って、唐に帰るつもりと云っています。

 そしてこの作品の最後に彼が登場し、渤海国を経て日本に帰って来たかもしれないことを暗示させています。

 同じく玄朗です。普照は、消息を八方に声をかけて捜します。6度目の航海の時に、普照の所に妻と二人の女児を連れて日本に帰りたいと現れます。「留学僧として唐土を踏んだが20年間何一つ喪に付けなかった」と。普照は手を尽くし乗船の許可を得るのですが、乗船の際姿を現わさなかったのです。唐土に着く前から弱音を吐き、意志薄弱な僧でしたが、結局、唐土に落ち着く結果となりました。

 そして、業行です。数十年にわたる在唐生活の間に、自分が幾ら勉強してもたいしたことが無いと悟り、一室に籠って沢山の経文の書写に明け暮れます。膨大な写経を日本に持って帰ることを生き甲斐としましたが、最後は運命のいたずらで、残念な結果となります。

それぞれの一生が、小説になるような生き方であったと思います。

 5度目の渡航に失敗した鑑真、普照はどうなったのでしょうか。

鑑真は63歳となって視力が急速に衰えていきます。普照は、「自分は一刻も早くここを去り、鑑真を官の庇護のもとに置かねばならない。」と思いました。

鑑真和上に、日本に帰るため船便を待ちたい、これ以上流離艱苦の生活を強いるべきではないと信じます、と別れを告げたのです。

 和上は、ひとまず揚州に帰り、再挙を図る以外仕方ないと云います。このとき普照は、40半ば、鑑真の弟子の思託は27歳でした。そして鑑真は失明します。

 鑑真の弟子、祥彦(しょうげん)は、「和上は栄叡の死後、渡日のことには一語も語られない。まだ日本へ渡ろうとしているのかどうか、その心の内部は我々には窺い知ることはできない。和上がなお日本へ渡ろうとするなら、悦んでお供する。」と云っていましたが他界してしまいます。

普照は、海南島の大雲寺に置いてきた業行の写経を、再び作成しようと書写に明け暮れ、業行の約束を果たそうとします。

 そうこうするうちに、20年ぶりに天平勝宝4年(752年)に第10次の遣唐使船が、秋に長安に来たのです。遣唐大使に藤原清河、遣唐副使の大伴古麿が任ぜられています。また、再び吉備真備藤原仲麻呂の謀略で副使として一行に加わっています。

 普照は、遣唐使船が遅くとも来年中には帰国するだろうと思いました。そこで、最も今までの鑑真との経緯を理解してくれた副使の大伴古麿に、鑑真を帰りの遣唐使船で連れ帰るよう懇願しました。大伴古麿は、理解を示し玄宗皇帝の許しも得ました。

 大使、副使3人が、鑑真に渡航の意思を尋ねたところ、鑑真は、「今度こそ日本国の船で本願を果たしたい。」との意思を伝えました。

玄宗皇帝から帰国の許しを得た阿倍仲麻呂も同行します。

 普照、鑑真、弟子の思託他14人の僧侶、同行者10人です。将来する仏像や経典類は想像を絶する膨大な量です。このとき鑑真は66歳です。

  そして遣唐使船は4船に分乗、鑑真と弟子14人は大使と阿倍仲麻呂の第1船、普照、業行は副使古麿の第2船です。

しかし、使節団の幹部から意見が出て鑑真らは下船、それを古麿が独断で第2船へと救ったのです。普照、業行は第2船の人数が多くなり、真備と一緒の第3船となり、15日夜半に4船出航します。

 この船割りが運命を決めることになったとは誰が予想したでしょうか。

天の原ふりさけ見れば春日なる
     三笠の山にいでし月かも

阿倍仲麻呂が歌ったのはこの夜のことでした。

普照、業行の乗った第3船(真備が副使として同乗)がいち早く六日目で阿古奈波(沖縄)に着きました。

第1,2船も翌日島に着き、唐語を解する者として普照は第2船に、業行は第1船に移りました。

 第2船は翌7日に益救島(屋久島)に寄港、それから暴風雨に見舞われ、20日薩摩国阿多郡秋妻屋浦(薩摩半島西南部の漁村)へ着いたのです。

そして筑紫太宰府に帰朝したことを正式に秦せられたのが正月11日のことです。

2月に普照は、鑑真の一行とともに難波に到着、河内の国で藤原仲麻呂が出迎えています。そして奈良の都に入ります。

 普照たちの第2船に少し遅れて、真備の第3船も薩摩の国に漂着しましたが、大使清河、阿倍仲麻呂の第1船そして第4船の消息は全く不明でした。

 この時の奈良の都は、玄昉、真備、行基藤原広嗣藤原仲麻呂がしのぎを削っていたのです。

真備、仲麻呂のこの辺りの争いは、幣ブログにて。

吉備真備(きびのまきび)の生涯

https://kumacare.hatenablog.com/entry/2020/01/29/154411

 鑑真、普照らは、伝燈大法師位を贈られます。そして、東大寺盧舎那仏の前に戒壇を立て、聖武天皇は壇に登り、鑑真および普照、法進、思託らを師証として菩薩戒を受けます。

太后孝謙天皇も登壇受戒、ついで僧四百三十余人が授戒し、これ以後三師七証による正式な受戒を経た者でなければ、政府公認の僧となることが出来なくなりました。

 その後に第4船の薩摩国に到着したとの連絡が入りました。第1船は、沖縄から出航直後に座礁し、その後暴風雨に遭い、南方へ漂流し、何と安南(現在のベトナム中部)に漂着します。

現地民の襲撃に遭い殆どが客死する中、清河と仲麻呂らは755年に長安に帰還し、その後は唐に仕えます。

しかし清河と仲麻呂の二人とも2度と故国に帰ることは無かったのです。生存者の中に業行はいませんでした。

鑑真が予定通り第1船に乗船していた場合、普照と業行が入れ替わっていなければと考えると、運命のいたずらと云うには、余りにも残酷すぎます。

 

 この清河、阿倍仲麻呂の生存の報が日本に伝わるのは安史の乱などで混乱し、4年の歳月がかかりました。阿倍仲麻呂長安に戻ったころ、奈良では、東大寺大仏院の西に戒壇院が落成しています。

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戒壇

 戒壇院は、戒壇堂・講堂・僧坊・廻廊などを備えていましたが、江戸時代までに3度火災で焼失、戒壇堂と千手堂だけが復興されました。

 そして天平勝宝7年(755年)、鑑真は西京の新田部親王の旧地を賜り、天皇より「唐招提寺」の勅額を賜って山門に懸けました。

最後に、小説『天平の甍』の題名の由来が語られます。

 天平宝字2年渤海国に送った使小野国田守が帰朝して先ほどの清河、仲麻呂ともに唐朝に仕えているという報をもたらすと共に、一個の甍を普照のために持って帰国したのです。

あて名は日本の僧普照となっており、それが唐から渤海を経て日本へ送られてきたのですが、それを託した人物がいかなる者か判りません。

甍は鴟尾(しび)であり、普照は送り主や理由は分からなかったのですが、唐様の鴟尾は、唐招提寺に使われたのです。

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唐招提寺金堂

 鑑真が寂したのは、唐招提寺ができてから4年目の天平宝字7年の5月でした。鑑真は結跏趺坐して寂しました。享年76歳。

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弟子の忍基の鑑真の彫像(脱活乾漆像) 

 主人公の普照の没年は不明です。

 鑑真の仏法を守る、仏の教えを広めたいという純粋な一念から、弟子が行かないのならわたしが行くと、凡人には理解できない、何度も失敗しても、目が見えなくなっても、日本に行くことを止めなかったのではないかと、わたしはこの『天平の甍』を読んで強く感じるのです。

 6回目となる鑑真と普照の出発する際のやりとりは、涙なしには読めないほど感動しました。

 玄宗皇帝が道教を重んじ、それで鑑真は日本への渡航を決意した、あるいは、聖武天皇の権威を強化するため、則天武后が菩薩戒を受けて皇帝の正当性を主張したように、これに倣って菩薩戒(君主が権威をまとう重要な戒律)を受けたかったなど、どうでもよい理由ではないかと思わせるほど、深く心に余韻が残る作品でした。

 因みに、宝亀10年(779年)、淡海三船天智天皇の玄孫)により鑑真の伝記『唐大和上東征伝』が記され、鑑真の事績を知る貴重な史料となっています。

これは、鑑真とともに来日し、最後まで鑑真の秘書として付き添った思託から聞いて著したものです。

長くなりましたが、終わりとします。有難うございました。

半世紀前の出来事

 先日、スマホでネットのニュースを見ていたら、「死者3名福岡大ワンゲル部」の記事が目にとまりました。文春オンラインの記事です。福岡大ワンゲル部といえば、もしかしたらと思って開いたのですが、思った通りでした。

 それは、50年程も前のヒグマの襲撃事件です。なぜ今になってこのような記事が出るか不思議でしたが、わたしにとっては今でもはっきりと覚えている事件です。

 今、全国でクマの襲撃がニュ-スになっていますが(殆ど本州のツキノワグマ)、それは、「死者3名福岡大ワンゲル部ヒグマ襲撃50年後の初告白」と題したものでした。

1970年に北海道日高山系で3人がヒグマの牙に斃れた、なぜ惨劇は起きたのかというもので、史上最悪のヒグマによる獣害事件として知られる「福岡大学ワンダーフォーゲル部事件」の顛末でした。

 悲劇の舞台となったのは、北海道の日高山系で山の名は、「カムイエクウチカウシ山」です。我々は当時カムエク、カムエクと呼んでいました。

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日高山脈の位置

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カムイエクウチカウシ山

名称はアイヌ語の「熊(神)の転げ落ちる山」に由来します。

 福岡大学ワンダーフォーゲル部の学生5人が、1970年7月に日高山系を縦走の25日、カムイエクウチカウシ山(標高1,979m)の九ノ沢カールでテントを張ったところ、ヒグマが現れました。

 音を立てるなどして、追い払いましたが、その夜も再びヒグマが現れ、また次の日の早朝も現れ、テントを破り倒しました。5人のうちの2人が救助を呼ぶため下山を開始し、その途中で北海学園大学のグループや鳥取大学のグループに会ったので救助要請の伝言をし、2人は他の3人を助けるため戻ったのだそうです。

 そしてその日の昼に、5人合流したのですが、その夕方に再びヒグマが現れ、ここから悲劇が始まります。次々と襲われ、結局3人が犠牲となり、逃れた2人が下山し救助隊が派遣されたのです。

 3人の遺体は確認され、ヒグマは八の沢カール周辺でハンター10人の一斉射撃により射殺されました。

 確かに、このように複数の人間が命を落とす被害の事件は、聞いたことがありません。しかもこのヒグマの執拗な攻撃心です。2日間にわたって逃げる学生たちを執拗につきまとい、この惨劇をもたらしました。

 そもそも当時、日高山系でヒグマが人を襲うということは、地元山岳会のメンバーは、まず考えられなかったと証言しています。

わたしは当時学生で、その事件の何日か前に、3人のパーティで日高山系に入っておりました。

 ルートは、道も無いので札内川沢登りから稜線に入り、カムエクからエサオマントッタベツ岳、戸蔦別岳そして幌尻岳(2052m)への1週間くらいの予定で縦走を計画したのかと思います。

そして我々の事件は、幌尻岳で起きました。

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幌尻岳(標高2,052m) 

 日高山脈の主峰で、日本百名山に選定されています。七つ沼カールは有名で、そこは絶景の地です。カールとは、氷河の侵食によるスプーンでえぐったような地形です。

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 日高地方の地図 

 カムエク、エサオマントッタベツ岳、幌尻岳が連なっております。

夕方に七つ沼カールに着いたのですが、その時尾根にヒグマがいる事を確認しています。

カールから尾根のヒグマはよく見えたのですが、まあ距離もあるし大丈夫と気にもせず、テントを張り設営しました。

 その晩の献立は、クリームシチューでしたが、明日は下山ということで気が緩んだのか、持ってきたジンを飲み寝たのです。

まだクリームシチューが残っていたコッフェルやインスタントラーメンなどが入ったザックなどをテントの外に出していました。

 そして朝早く、何か物音がするので目を覚ますと、直ぐにヒグマがテントの周りにいることを感じました。怖くてテントの外は見られません。

それからどのくらい時間が経ったのでしょうか、じっとしてヒグマが立ち去ってくれるのを待ちました。

 1,2時間位かと思いますが、埒が明かないのでテントの中で音を出したりしていました。そのうち静かになったのでテントから出ると、ヒグマはいなかったのです。

外へ出したザックは無残にも破られインスタントラーメンなどは食べられていました。

 そしてクリームシチューが残っていたコッフェルも遠くに持ちされて、綺麗に食べられていました。

もし食料がなかったらテントの中に入って来たかもしれません。

 こうして難を逃れ急いで下山したのです。途中でやぶ蚊に悩まされてテントで1泊したのですが下山のルートは、はっきりと覚えておりません。

また、下山途中に地元のパーティに出会ったのですが、ヒグマに遭ったことを告げたところ、直ちに下山しました。さすがに地元の人はヒグマの怖さをよく知っていると感心した事を記憶しています。

 そして、札幌に帰って一週間くらい経ったのでしょうか。北海道新聞に載っている記事を見て、驚きと恐怖を覚えました。「福岡大学ワンゲル部ヒグマ事件 3人死亡」というニュースは衝撃的でした。日髙山系のどこの場所か明確には分かりませんが、幌尻岳近辺であることは分かりました。

 今回の記事で、50年前の事件の場所などの詳細が初めて分かりました。我々の襲われたのは幌尻岳の七つ沼カール、福岡大ワンゲル部は、カムエクの九ノ沢カールです。

 幌尻岳とカムエクは、エサオマントッタベツ岳を挟んでいますので、同じヒグマかどうか分かりません。ヒグマは、行動範囲が広く尾根づたいに行けば、そんなに遠くないとも言えます。

そして、そのヒグマが射殺されて剥製になっていることが分かりました。

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福岡大学ワンダゲル部襲撃事件のヒグマの剥製

 まだ成獣ではなく推定3歳の雌で、あまり大きくありません。「日高山脈山岳センター」に展示されています。

 

 とにかく、学生の頃は山によく行っていましたが、忘れられない山行でした。往きの札内川沢登りも地下足袋に、滑るのでワラジを履くというスタイルで、稜線にでるまで高巻きなど苦労したことを覚えています。

北海道では老年期の山が多く、難易度の高い山は、日高山系くらいです。(冬山は別です。)

大学の山岳部などは、思ったほど多く日高山系に入っていたのだと思います。そして飲食の残り物を置いて行き、それを目当てに味をしめたヒグマが狙っていたのがこの事件だったのではないでしょうか。

 いずれにせよ、当時の我々のパーティは、運が良かったのだと思います。半世紀経った今しみじみ分かりました。

                              おわり

 

 

 

 

 

観音信仰の長谷寺

 奈良大学の博物館実習とともに行った寺院巡りの紀行も、最後となりましたが、今回は長谷寺です。

長谷寺は、奈良県桜井市初瀬(はせ)の里にあります。地名は初瀬、寺の名前は長谷のようです。

 創建は、朱鳥元年(686年)、道明上人が天武天皇の病気平癒ために「銅板法華説相図」を初瀬山の西の丘(現在、本長谷寺と呼ばれている場所)に安置したことにはじまります。

 のちに神亀4年(727年)、徳道上人が聖武天皇の勅願によって、東の丘(現在の本堂の地)に本尊十一面観音像を祀って開山したと云われています。

真言宗豊山派の総本山として、西国三十三所第八番札所で檀信徒は二百万人、四季を通じて「花の御寺」として多くの人の信仰を集めています。

 かねてから、長谷寺の大観音像をお参りしたいと思っていましたが、この時期は、秋の特別拝観で絶好の機会ということで念願が叶いました。

京都駅に特別拝観の看板がありました。

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特別拝観の看板

 近鉄大阪線長谷寺駅から徒歩で20分程かかります。駅を降りるとかなり下って参道を行き、仁王門をめざします。

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長谷駅からかなり下ります。

参道には、旅館や土産物店が並び、草餅、吉野葛、三輪ソーメンなどが並んでいます。

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参道の店

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仁王門 長谷寺の総門です。

 仁王門を通ると登廊(のぼりろう)が本堂まで、上登廊・中登廊・下登廊と3廊に分かれていて長く続きます。

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登廊(のぼりろう) 入口の仁王門から本堂までは399段あります。

 登廊の途中に高浜虚子の句碑や『源氏物語』の玉鬘を主人公にした能「玉鬘(たまかずら)」に登場する二本杉など見所がたくさんあります。

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高浜虚子の句碑

 花の寺 末寺一念 三千寺 

高浜虚子長谷寺を詠んだ句で、真言宗豊山派の総本山の長谷寺が三千の末寺があることを示しています。境内には多数の句碑、歌碑があります。

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伝説の二本杉

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 そして、御本尊の十一面観世音菩薩立像を祀る本堂に着きます。ここは、初瀬山断崖絶壁に建てられている本堂です。

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本堂入口

 本尊を安置する正堂、相の間、礼堂から成ります巨大な建築物で、前面は京都の清水寺本堂と同じ懸造(かけづくり)になっています。

 入るときに、結縁の五色線を左手首につけて戴けます。観音さまとのご縁を結んで戴いた証の五色線をお守りとして、大切にするということのようです。わたしは、ネパールのルンビニ(釈迦の生誕の地)でチベット僧から手首に付けてもらったことがありますが、格段に立派なものです。

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結縁の五色線 

 これをほどいて「あげまき結び」(魔除け、護身の意味も込められている)のストラップのような結び方がインスタグラムの動画で公開されています。

 

 正堂に入り直ぐ右の、本尊の安置されている所に行くと、狭い部屋になっておりそこに巨大な観音様が安置されております。奈良の大仏さんを見るような感じで圧倒されます。

御足を触らせていただくのですが、観音様を見上げるような形になり、左手に持つ巨大な宝瓶が落ちて来ないかと怖くなります。10メートルを超える、それ程巨大な観音さまです。

本像は通常の十一面観音像と異なっていて、右手には念珠とともに、地蔵菩薩の持つような錫杖を持ち、方形の磐石の上に立つ姿です。これは独特の形式で、長谷寺式十一面観音と呼んでいます。

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御本尊の十一面観世音菩薩立像 絵葉書より

 特別拝観だけ観音様を拝めるのでは無く、普段は2階(おそらく相の間)から上半身だけ拝めるような造りとなっています。本堂全体の構造は複雑です。

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 長谷寺は何度も火災に遭っていますが、本尊も何度も焼失し、そのたびに再興されています。現在の本尊は、室町時代1538年に東大寺仏師の実清良覚の手で造られたものです。

本堂の前が舞台造りになっていて、天気にも恵まれここからの眺望は最高です。

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舞台からの眺望。

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本堂の舞台から五重塔を見る。

 本堂から御影堂、五重塔の方へ向かいますが、境内は起伏に富んでおります。

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弘法大師御影堂 昭和59年に総檜で建立。

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弘法大師が安置されています。

 五重塔へ行く前に本長谷寺があります。冒頭で書きましたが、686年に天武天皇のために道明上人が、この場所に三重塔(現在は、五重塔の直ぐ南側に礎石だけが残っています)を建立し、「銅板法華説相図」を安置した場所です。

長谷寺の起源となった場所であるため「本長谷寺」と呼ばれています。

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長谷寺

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三重塔跡

 すぐそばに晴天に朱塗りの五重塔が映えます。 昭和29年に戦後初めて建てられた五重塔です。

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五重塔

 そこから納骨堂、陀羅尼堂そして本坊へと向かいます。

本坊は、根本道場の大講堂や書院、護摩堂、回廊などがあります総檜造りの大殿堂です。

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本坊

 大講堂に長谷寺の草創について描かれた「長谷寺縁起絵巻」が開帳されておりました。

菅原道真長谷寺縁起を執筆する場面から始まり、本尊十一面観音の造立にまつわる物語が三十三枚の絵で表現された超長編の絵巻です。

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長谷寺縁起絵巻」 この絵巻も特別に開帳されたと思います。

 参道から霊験あらたかな本尊十一面観音、そして緑で囲まれた起伏ある境内とコロナ禍が無ければ、たくさんの参拝者がいただろうと想像します。堪能させていただき有難うございました。

まだまだ書き足りないことがありますがこの辺で終わりとします。これで今年の奈良の寺院巡りも終わりとなりました。

 

最後に御朱印と記念の土産品です。

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御朱印

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本尊十一面観音様の数珠根付けのストラップ

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三盆で作られた干菓子

                                おわり

薬師寺と玄奘三蔵

 初秋の奈良行での寺院巡りも終盤となりましたが、今回は薬師寺です。

天武天皇が、皇后の病気平癒を願って天武9年(680年)に発願しましたが、完成する間に亡くなり(686年)、逆に病気が治った皇后の持統天皇によって本尊開眼(697年)、更に文武天皇の御代に寺の造営がほぼ完成しました。(698年)

 この創建薬師寺は、藤原京でしたが平城京への遷都(710年)とともに、薬師寺は飛鳥から平城京の現在の西ノ京町に移転したのです。

 薬師寺は、興福寺と並んで法相宗(ほっそうしゅう)の大本山です。法相宗は「唯識」という思想を研究する学派で、開祖は玄奘三蔵です。玄奘三蔵は、成立して間もない唐王朝の時代629年に長安を出発しました。

陸路でシルクロードから中央アジアの旅を続け、ヒンドゥークシュ山脈を越えてインドに入ります。ナーランダ大学で唯識を学び、巡礼や仏教研究を行って16年後の645年に経典や仏像、仏舎利などを持って長安に帰還しております。

 唯識とは、全ての事象は、識すなわち人間のこころの働きから生じる思想という、こう聞いても非常に難解なものだと想像できます。

 その後、弟子である慈恩大師により、「法相宗」として大成しました。そして飛鳥時代に道昭という日本人の僧が、中国に留学して玄奘の門下生となり、日本に初めて法相宗を伝えています。

玄奘自身は、明確に特定の宗派を立ち上げたわけではないのですが、彼の教えた唯識思想ともたらした経典は、日中の仏教界に大きな影響を与えたのです。

 現在、薬師寺の北に境内から道一つ隔てた所に、玄奘三蔵伽藍があります。

 

逆になりますが、西ノ京駅に近い北の門の興樂門から入りました。

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薬師寺の寺号標

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門の前に世界遺産の記念碑 唐招提寺のものと同じ形です。

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興樂門

 そして、食堂、大講堂を過ぎ金堂に向かいます。

薬師寺も幾多の災害に遭い、特に享禄元年(1528年)の兵火では、創建当時の伽藍をしのばせるものは焼け落ち、焼け残った東塔だけでした。

 そこで、1960年代以降、高田好胤管主が中心となって「写経勧進」により白鳳伽藍復興事業が進められ1976年に金堂が再建されたのです。それから西塔を初め白鳳伽藍の復興を実現させます。

 このように、日本では寺院や仏像などを造営、修復するために個人から寄付を求める勧進の例があるのです。

薬師寺の「写経勧進」は、全国の人たちから「般若心経」を写経してもらい、書き写されたお経は薬師寺に納められます。そのときに、志としてお金を寄付するというものです。

 自分が寄付したお金で金堂などが復興し、リターンとして写経により自分の信仰、信心というものが形となってこのお寺に残るという、まさに現在のクラウドファンディングかと思います。

 

 薬師寺白鳳伽藍は、金堂を初めとして東塔の意匠で全て統一されており、金堂も裳階(もこし)をつけた美しい堂で龍宮造りと呼ばれています。

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金堂

 堂内は、本尊の薬師如来坐像を中央に、脇侍に日光菩薩立像と月光菩薩立像の薬師三尊像が祀られています。日本の仏像彫刻の最高傑作のひとつです。

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本尊の薬師如来坐像

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日光菩薩立像

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月光菩薩立像

 そして金堂を挟むように東塔と西塔が立っております。東塔は、唯一創建当時より現存しますが、現在10年計画で解体修理が行われています。

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西塔(さいとう)

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東塔と金堂

 西塔の内陣には、文化勲章受章者の中村晋也氏による釈迦八相像のうち果相の四相(成道・転法輪・涅槃・分舎利)が祀られています。

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回廊にある説明 涅槃

 1981年に再興された西塔は、東塔と同じ三重塔ですが、各層に裳階という小さな屋根がつけられていて六重のように見え、美しい姿をしております。

 南門から少し入ったところに中門があります。中門も写経勧進1984年に復興しており、仁王像もまだ色彩豊かです。

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阿形(あぎょう)仁王像

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吽形(うんぎょう)仁王像

 また、戻って興樂門を出て、「玄奘三蔵院伽藍」に行きます。薬師寺では玄奘三蔵の遺徳を後世に伝えるべく、1991年に「玄奘三蔵院伽藍」を建立しました。

玄奘塔に祀られている玄奘三蔵像は、右手に筆、左手にインドのお経を持っており、経典の翻訳の姿を表していますが、思ったほど厳しい表情と大柄な体格の様です。

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玄奘

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玄奘塔の玄奘三蔵

 玄奘塔の正面の扁額に「不東」の二文字があります。この言葉は、玄奘三蔵の、経典を手に入れるまでは東(中国)へは帰らないという決意を表す言葉です。

玄奘三蔵は、帰国後、経典の翻訳を進めるかたわらインドの旅を『大唐西域記』という本にまとめました。後にそれを元に書かれたのが、日本でも親しみ深い中国の「四大奇書」のひとつ『西遊記』です。

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不東の説明書き

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不東の御朱印

 そして、大唐西域壁画殿です。平山郁夫画伯が約20年かけて描かれた7場面、13壁面の超大作であり、圧巻のシルクロードの世界です。息をのむような迫力と玄奘三蔵平山郁夫画伯、高田好胤師の息吹がそこにありました。

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大唐西域壁画

 玄奘三蔵院伽藍の礼門を後にします。東塔の大修理が終わったら再度来てみたいと思います。有難うございました。

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礼門

                                 おわり

鑑真和上の唐招提寺

 9、10月の奈良行で寺院巡りを続けましたが、今回は鑑真和上の唐招提寺です。近鉄橿原線西ノ京駅からすぐに薬師寺唐招提寺という奈良を代表する大伽藍の寺があります。

 再度の訪問ですが、先に唐招提寺を巡りました。いつも思うのですが、寺院を巡って後から行けなかった所とか見逃した所が必ずありますね、2度3度と見て初めて納得します。

 唐招提寺(とうしょうだいじ )は、何といっても鑑真和上(がんじんわじょう)のお寺です。鑑真は、日本から唐に渡った僧・栄叡、普照らから戒律を日本へ伝えるよう懇請されます。鑑真は招きに応じ、航海6度目で、やっと日本に来ることが出来たのです。 

この辺の物語を書いた『天平の甍(いらか)』は、井上靖歴史小説であり映画化もされています。

 西ノ京駅から10分ほどで南大門に着きます。

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南大門 さすがに立派な門です。

 南大門から入ると直ぐに金堂があります。奈良時代建立の金堂としては現存唯一のもので、修理が重ねられて来ました。誰しもが、眼前に迫る金堂の荘厳な偉容に圧倒されます。豊かな量感と簡素な美しさを兼ね備えた天平様式です。

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金堂へ行く前に世界遺産の記念碑があります。

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金堂

 内陣には、中央に本尊の像高3mにおよぶ盧舎那仏(るしゃなぶつ)坐像、右に薬師如来立像、そして左に十一面千手観世音菩薩立像が居並び厳粛な空間を生み出しています。

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全体像

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盧舎那仏(脱活乾漆像) 絵葉書より

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薬師如来立像(木心乾漆像) 絵葉書より

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十一面千手観世音菩薩立像(木心乾漆像)絵葉書より

 吹き放しとなった堂正面には8本の太い円柱が並び、この建物の見所となっています。

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金堂 正面吹き放し部

 金堂の右に、宝蔵とともに並んで建つ経蔵があります。高床式の校倉様式で経蔵のほうが一回り小さいのですが、唐招提寺で最も古い建造物で日本最古の校倉です。

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経蔵

 そして、最も行きたかった鑑真和上御廟に向かいます。途中の苔庭が素晴らしく静寂を醸し出しております。

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苔庭

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鑑真和上御廟

 奈良の寺院の多数の伽藍は、長い期間をかけて修理が行われていますが、ここ唐招提寺も御影堂の大修理が行われています。天平時代の代表的な乾漆像の鑑真和上坐像が安置されています。

 この像は、トーハクでも公開されましたが、中国に里帰りして揚州(鑑真の故郷)と北京で公開されたこともあります。

 そして、開山堂に鑑真和上の身代わり像があります。1年の内6月5~7の三日間しか開扉しない国宝の和上像に代わって、2013年に制作されたものです。この像は、奈良時代の脱活乾漆技法を忠実に踏襲したものです。

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開山堂

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模造の和上像がみえます。

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鑑真和上像 絵葉書より


 奈良を「酷愛」する(極端に愛する)と言ったのは會津八一(1881~1956)です。美術史家で、書家、歌人の顔を持つ八一は、奈良の歌を数多く詠みました。

自筆の文字を刻んだ歌碑は、わたしが見ただけでも、春日大社、猿沢の池、東大寺興福寺、新薬師寺といたるところにあります。

唐招提寺の境内にもありました。

おほてらの まろきはしらの つきかげを

つちにふみつつ ものをこそおもへ    會津八一

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會津八一 歌碑

 

 鑑真は、日本の戒律制度を整備し、唐招提寺を創建、晩年をここで過ごしました。日本への渡海を企図したのが743年です。

 5度目の日本への渡航で、海南島に漂着、そして失明、それでも日本への渡航を諦めなかったのは何故なのでしょうか。所詮凡人は、偉人のこころを推し量れません。

 754年に6回目の航海で屋久島に着きました。それから日本に10年程過ごしましたが、5年を東大寺で、残りの5年を唐招提寺で過され、天皇をはじめとする多くの人々に戒律を授けられました。

 唐の高僧であり、日本の仏教会に多大な貢献をし、763年に死去、享年76歳、波乱の生涯を閉じました。

最後に、唐招提寺御朱印です。

 

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                              おわり

対照的な西大寺と秋篠寺(続き)

 西大寺から15分程度の所に秋篠寺がありますが、親切にも標識がありました。

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歴史の道

 創建については、光仁天皇の発願によって、奈良時代法相宗興福寺の僧・善珠大徳の創建とされます。地元の豪族秋篠氏の氏寺とも云われていますが、その正確な創建の時期や由緒については明らかではありません。

 五木寛之の百寺巡礼の第一巻の奈良編に登場し、この中で、「市井にひっそりとある宝石のような寺」と表現していますが、訪れる人もあまりいない本当に静かなお寺です。

 南門から入りましたが、大和西大寺駅からの路線バス停は東門から直ぐにあります。

南門のすぐ左側に八所御霊神社があります。秋篠寺の鎮守社としての役割を果たして来た歴史を持っているようです。

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八所御霊神社

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南門

 南門から受付を通り本堂まで行くのですが、その間はしばらく雑木林が続き、その木々の下には一面に敷きつめられた苔の緑が見事でした。また雨の日でしたので、水を含み鮮やかです。これが静寂な秋篠寺の緑の深さの魅力であると思います。

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苔庭

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本堂

 本尊は、薬師三尊像で薬師如来坐像、両脇侍に日光菩薩月光菩薩立像が安置し、この左右に十二神将像が六体ずつ守るように配置されております。

また地蔵菩薩立像、帝釈天立像、伎芸天立像なども安置されております。

 特に、伎芸天(ぎげいてん)は知名度が高い仏像として広く知られており、仏教守護の天部のひとつで、大自在天ヒンズー教のシバ神の異名)の髪際から化生した天女と云われます。容姿端正で器楽の技芸が群を抜いていたため、信仰を集めてきたものです。現存する古像の作例は、中国で多く見られますが日本では秋篠寺の一体のみとされて大変貴重な存在となっています。

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伎芸天像

薄暗い空間の中で立つ優美な像で、頭部は奈良時代、胴体などは鎌倉時代のものとなっているようですが、継ぎ足した痕跡など確認できないほど調和した美しさを感じさせます。

 

 本堂の近くに2基の「役行者(えんのぎょうじゃ)石像」が祀られています。室町時代と江戸時代に造られた2基ですが、少し気づかれにくい存在ではあります。

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役行者石像

 本堂しか開放していないそうで、雨でもあり早々に東門より帰りました。東門は、南門と同じような造形をしております。この近くのバス停から大和西大寺駅に戻りましたが、この辺の一帯はとにかく道が狭く、車がすれ違うも大変です。昔からの家並みが続いて区画整理が進まないのかと思います。

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秋篠寺東門

 残念ながら御朱印はありません。毎年6月6日に秘仏大元帥明王立像」の特別開扉がありますが、そのときの公開日に秋篠寺で唯一「御朱印」が授与されるということです。このときは、大勢の参拝者が訪れることで知られています。

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大元帥明王

 また、先日秋篠宮さまが皇嗣となられる「立皇嗣の礼」が挙行されましたが、皇室「秋篠宮家」の宮号は、この秋篠寺のある「秋篠」の地に由来するものです。宮家創設時、秋篠寺に観光客が大挙して訪れたということです。

 

普段は本当に質素で、静かな寺院という印象を受けましたが、伎芸天、大元帥明王とユニークな仏像と苔庭が際立ちます。有難うございました。

                            おわり

対照的な寺院 西大寺と秋篠寺

 先日の奈良行の西大寺(さいだいじ)と秋篠寺(あきしのでら)を訪ねたときの紀行です。

しとしと雨が降る中でしたが、まず近鉄大和西大寺駅に直ぐの西大寺を訪ねました。この寺は、奈良時代聖武天皇の娘の称徳天皇鎮護国家の勅願によって創建された寺です。

当時は、文字通り東の東大寺に対する西の大寺で27万坪の大伽藍だったようです。しかしその後、荒廃、再建を経験し現在は1万坪で、真言律宗の総本山ということです。

東門から入りますと、すぐ右手に四王堂(観音堂)があります。

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東門

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四王堂

 西大寺創建の端緒となった称徳天皇誓願の四天王像をまつる仏堂ですが、現在の堂舎は江戸時代の再建です。

四天王像も後世の再造ですが、その足下の邪鬼が奈良時代創建当初の姿を伝えています。

本像は、平安時代後期の作の長谷寺式十一面観音立像です。右手に錫杖を左手に蓮華の花瓶を持ち、蓮華座ではなく岩座に立つという独特の像です。

 

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本像十一面観音立像

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四天王像踏鬼(増長天邪鬼)絵葉書より

 

 そして、少し参道を歩くと本堂で、本尊は釈迦如来立像ですが、文殊菩薩五尊像など見応えのある仏像が並びます。

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本堂

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本尊 釈迦如来立像 絵葉書より

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文殊菩薩騎獅像及四侍者像 絵葉書より

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善財童子象(文殊五尊像の内)絵葉書より

 本堂の向かい側には、東塔跡があります。創建時には東西両塔があったようですが、焼失し、また再建されたのですが、それも1502年に焼亡したと伝えられています。今は東塔跡が残っております。

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東塔跡 東塔跡より本堂を臨む。


 また愛染堂には、本尊の愛染明王坐像、そして興正菩薩叡尊坐像があります。

荒廃した西大寺鎌倉時代半ばに再興したのが、興正菩薩叡尊上人です。西大寺叡尊上人の廃れかけていた戒律の復興によって中世寺院として再生したのです。

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愛染明王坐像 絵葉書より

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興正菩薩叡尊坐像 絵葉書より

 菩薩80歳の寿齢の時の肖像で、弟子たちが仏師善春に造らせました。

 

 西大寺は、この雨の中も参拝者が多く活気のある寺院のように感じます。行事も毎月のようにあり、特に大茶盛式(おおちゃもりしき)が報道でよく話題となります。

興正菩薩が、西大寺復興のお礼に八幡神社に献茶した余服を民衆に振る舞ったことに由来する茶儀だそうです。

年間3回やっているようですが、今年の秋の大茶盛式は、残念ながらコロナのため中止でした。

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大茶盛式 巨大な茶碗を抱えてお茶を回し飲みするユニークな姿。

さいごに、釈迦如来愛染明王御朱印です。

 

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 この活気のある西大寺と対照的な寺院が、静寂の秋篠寺です。秋篠寺については、後ほどとさせていただきます。ありがとうございました。

 

                             おわり