パルスオキシメーター(Pulse Oximeter)

 最近、コロナ感染者が、海外、国内共に急激に減少傾向にあります。あまり人出は変わっていない感じですので、温湿度など外的要因も関係しているのではないでしょうか。

このまま、ワクチンに引き継がれて収束となれば良いのですが、ワクチン接種のスケジュールはまだ定まっていないようです。

 感染者がピークの頃、肺疾患のため「血中酸素飽和度」を測るパルスオキシメーターがさかんに取り上げられていました。血中酸素飽和度とは、血液中の酸素の量の事でSpO2と略され、値は%で表示されます。

 血液中の酸素の濃度がfullで100%、正常値で99~96%、93%以下ですと酸素投与が必要と云われています。

 測定にはパルスオキシメーターというものを使いますが、購入することにしました。以前、数万円で買ったことがあるのですが、Amazonで調べてみると数千円から数万円まで千差万別なので、安価なものを購入しました。

 洗濯バサミのような小さいものを、人差し指に挟むだけで簡単に測定が出来ます。指先に光を当て、指内部の動脈に含まれる酸素の量を測定し数値化するものです。血圧測定よりも数秒で簡単に測定できです。

 1か月位かかるということで、忘れておりましたが、最近届きました。それが、中国から直接届いたのです。

以前、中国から怪しげな物が届く報道があったので、郵便が届いたとき、不気味でしたが、よく見ると「Oximeter」と書かれていましたので、買ったことを思い出しました。

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中国郵政から表

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裏 要追跡入力と書かれている。



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Oximeterの測定結果 

 %SpO2は血液中の酸素量です。SpO2 のSは、Saturation(飽和)、PはPulse(脈)、O2 は酸素を示しています。

PRはPulse Rate(脈拍)です。

 コロナの感染症は、軽症でも、突然急速に肺炎が進行し重症化する場合があります。こういう点で、感染した自宅療養者には必須と云えます。感染した自宅療養者には自治体から貸与されると報道されていましたが、東京都の感染者が2000人を超えた時などは、混乱したのではないでしょうか。

 このまま、感染せずにこのパルスオキシメーターが使われないことを願うばかりです。

                           おわり

玄奘三蔵の『大唐西域記』

  玄奘三蔵法師という人物に、以前から大変興味があったのですが、去年の秋、薬師寺の隣にある玄奘三蔵伽藍を拝見しました。

そして、玄奘は、なぜインドをめざしたのか、そのルート、膨大な旅費、サンスクリット語など言葉の問題、当時の各国の状況、そして地図、コンパスなど無い時代にルートをどのように知ったか、などなど疑問だらけです。

大唐西域記』について少し調べてみようかと思います。

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玄奘三蔵法師(東京国立博物館蔵 鎌倉時代重文)

 玄奘三蔵は、聖徳太子が摂政になった頃の602年に生まれました。早くに両親を亡くし11歳のときに、兄を頼って当時の都、洛陽の浄土寺で学び始め、13歳で正式な僧侶となります。

 ここで最初の疑問ですが、「玄奘はなぜインドをめざしたのか。」ということです。

当時の中国には、法常、僧弁という大小二乗を学び究めた二人の高僧がおり、玄奘も二僧に従って研究しました。しかし、二人の高僧を越え、中国中のあらゆる経典を学び尽くすと、中国での学問に限界を感じます。仏教の発祥の地インドへ行って、もっと詳しく学びたいと思うようになりインドへの旅を決意したのです。

 しかし、当時の中国は、隋から唐への代替わりの混乱の時代で出国の許可がおりません。止むを得ず、28歳のときに国の法を犯しインドへと密出国という苦難の旅へ出かけます。

 こうして627年に、玄奘長安から、以後17年におよぶ壮大な旅に出発したのです。日本では大化の改新の前の頃です。

以前、ブログに書きましたが、大谷探検隊シルクロード踏査、河口慧海チベット潜入したときから何と、遡ること千年もの前の時代です。

 それでは、玄奘三蔵の辿ったインドへの往復の旅のルートはどのようなものだったのでしょう。

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玄奘紀行略図

長安から出発し会洲、沙洲(敦煌)からタクラマカン砂漠の北、天山山脈の南路に入ります。現在の新疆ウイグル自治区伊州(クルム)そして高昌国(現在のトルファン)へと進みます。そしてカラシャール、クチャから当時の西突厥の方へ千泉、タシケントサマルカンドを経由しています。

 それから中央アジアを通過し、現在のアフガニスタンパキスタン、さらにチベットからインドを巡って、各地の王や僧侶と共に学び、膨大な経典や仏像を持ち帰ったのです。

 復路のシルクロードのルートは、往路の天山南路と異なり、中国の西の端タシクルガンから民族の十字路カシュガル、そしてタクラカン砂漠の北側の「西域南道」を通り、ニヤ、敦煌から長安に戻っています。

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玄奘紀行詳細図

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玄奘出発の頃の中央アジア

 玄奘三蔵の目的は、出来る限りたくさんの原典を持ち帰って翻訳しようとしたのです。17年を費やしてインドから唐の都長安に戻った時に、携えていたのは、675部という大量の経典でした。

そして、玄奘は持ち帰った経巻の訳業を皇帝の太宗に願い出たのですが、これには理由があります。国家事業として行えば、支配者が仏教徒であるなしに関わらず公式なものとなります。

 また、とても国で行わなければならないほど膨大の量で、訳経には膨大な紙をはじめとする文房具、場所と人員などの費用がかかります。これを成し遂げるためには政府の絶大な援助が必要だったのです。

 玄奘の帰国後、高句麗遠征中の時の支配者、太宗皇帝は、玄奘と会い、この僧侶の冷静さと現地経験と情報量に驚きます。これをもってすれば、周辺諸国とのこれからの外交に使えると思ったのに違いありません。

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唐太宗李世民台北国立故宮博物院所蔵)

 こうして、訳経の事業を許可するに当たって西域の詳細な報告書を提出するよう命じ、編纂された報告書が『大唐西域記』なのです。

実際には、玄奘三蔵がインド周辺の見聞を口述し、弟子の弁機がそれを筆録したものです。646年に成立し全12巻のものです。

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大唐西域記

 この『大唐西域記』の内容は多岐にわたります。中央アジアとインドの全域をカバーし各地を国別に列挙し、その領域、気象、風俗、言語、文字、貨幣、支配者、仏教、(寺院、遺跡、伝説)そのほかの宗教などを順次記録しています。

 「西域(さいいき)」とは、インドを含め中央アジアから西アジア、ローマを含めることもありますが、中国の人たちから見て、西方にある国々を呼んだ総称です。

 中国の当時の状況はどうだったのでしょう。

626年に即位した唐朝の第2代皇帝太宗は、まず天山山脈の北側の草原地帯にいた西突厥と親和な関係を結びつつ、脅威であった東突厥を平定しました。

そして、強力な統一国家を形成していたチベット王国(吐蕃)とも親和関係を結び、タリム盆地の北東、トルファン盆地の漢人の高昌国を640年に滅ぼしています。唐がさらに西へ勢力を伸ばし、中央アジアへ進出する足掛かりをつくっていたのです。

 玄奘三蔵は、インド行きの途中、滅亡以前の高昌国で歓待されています。高昌国王「麹文泰」(きくぶんたい)は仏教を厚く信じておりました。

 麹文泰は、玄奘が高昌に留まって自分の先生になるよう要請しましたが、玄奘が受けるはずもありません。決意の固いことを知った麹文泰は、インドからの帰り道に立ち寄って3年留まることを約束させました。

 そして玄奘の出発に際して、衣類、旅費黄金100両他、世話をする人4人、人足25人、馬30頭などの旅装を整えます。更に通過するクチャなど24国の王宛てに手紙と綾絹などの贈り物を持たせ玄奘のために、全面的援助を依頼しています。

 このように、インドへの旅の成功は、高昌国王が多大な貢献をしています。

 最初に、旅費などはどうしていたかと云うのが疑問でしたが、この高昌国のような好待遇の国もあれば、行く先々で仏教を信仰している国もあり、仏の教えを説教したお礼やお布施などに、たよっていたと思われます。

 高昌国については、玄奘がインドから帰るときは、前述した通り太宗によって滅びていました。シルクロードには、三つのル-トがあります。天山山脈を挟んで、天山北路、天山南路、そしてタクラマカン砂漠の北側の西域南道です。

 玄奘は、往きは、高昌国のある天山南路を通ったのですが、なぜか帰りは西域南道を通っています。あれ程帰りは立ち寄ると約束したのですが。

玄奘は、高昌国が唐に滅ぼされていたのを知っていたのでしょうか、あるいは一刻も早く長安に帰り、経典の翻訳をしたかったのでしょうか。当時のこれらの地域の情報は、シルクロードの往来が頻繁のため、予想以上に広まっていたと考えられます。

 わたしは、この玄奘の往復のルートで、帰りのタシクルガンからカシュガルのルートを経験しております。北京からウルムチそしてカシュガルまで飛行機で行き、そこからタシクルガンまでのバスの旅をしたのです。

このあいだに、ブロン湖、カラクリ湖と絶景の湖があり、玄奘もこれを見たかと思うと感無量の気持ちがします。

 長くなりましたので、インドのナーランダーへの旅は後日、新らためてさせて戴きます。

最後に参考図書です。

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参考図書

                          おわり

お灸の話し「棒灸(ぼうきゅう)」

 東洋医学は、鍼(はり)、灸、漢方そして養生と云われています。治療にも欠かせないのがお灸ですが、一般的に熱いというイメージがあります。

お灸にも種類は色々あり、熱いイメージの灸は、皮膚に直接モグサ(よもぎが原料)を置いて施灸するからです。生体に強い刺激を与えて、それに伴って生じる生体反応を治療に利用するものです。これを透熱灸(とうねつきゅう)と云い、米粒を縦に割ったくらいの大きさのモグサです。

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透熱灸 火は線香で点けます。

 しかし、実際にはそれほど熱いものではなく、疾患によっては、全く熱さを感じないものです。

 また、直接皮膚につけず気持ち良い温熱刺激を与えて、効果的な生体反応を期待するものも多くあります。知熱灸(ちねつきゅう)、隔物灸(かくぶつきゅう)、棒灸などです。

 テレビの宣伝で見かける「せんねん灸」もこのうちの1種です。

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せんねん灸

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知熱灸 大きなモグサに火を点け、皮膚に近づきそうになると取り除きます。

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隔物灸 モグサの下に生姜、塩などをおきます。

 灸頭鍼(きゅうとうしん)は、ハリの頭にモグサを球状に付け点火することで、ハリの効果と灸の温熱刺激を同時に生体に与えるものです。

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灸頭鍼

 前置きが長くなりましたが本題は「棒灸」です。棒灸は、モグサを和紙などで棒状に巻き、先端から燃焼させて使用するものです。

本来は、火のついた棒灸を患部の皮膚に少し距離をおいて輻射熱で暖めるような使い方をします。

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棒灸

 わたしは腰痛などの患者に棒灸をよく使用しているのですが、その方法は、患部をタオルで覆い、そこに直接棒灸を少し付けます。暖まったタオルを棒灸手袋で、深く熱が患部に届くように押し付けます。それを連続的に繰り返して患部全体が暖まるまで行います。

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棒灸治療

 その棒灸は、以前ネパールで製作していたのですが、現在は自分で作っています。

以外に簡単で、必要なものは、和紙、モグサがあれば作れます。和紙を筒状にして中にモグサを詰めるのです。

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和紙 なるべく薄い和紙が良いです。

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モグサ 安い上質のモグサでない方が、温度が高くなり最適です。

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製作した棒灸 

 治療に適当な棒灸の寸法は、直径が3.5cm~4.0cm、長さが15cm程度です。

 

 治療はハリと併用しますが、棒灸の効果は絶大です。腰痛は施術し易く最適ですが、膝痛、肩こりにもよく効きます。また体のどの部分でも治療することが出来、例えば眼精疲労にも目の部分(眼輪筋)に当てて使う事ができます。

 膝痛の患者が杖を忘れて帰ったり、腰痛の患者が、腰から足先まで経絡上(膀胱経)に暖かさが伝わるなど驚くことが起きます。これが東洋医学の不思議なのかと思います。

 コロナ禍の今、自分の免疫力、自然治癒力を高めることが一番です。睡眠、食事、平常体温を高めることなどが基本ですが、効果的な経穴(ツボ:例えば合谷、大陵、足三里、三陰交、関元など)に毎日お灸をすることが有効かと思います。

                       おわり

奈良大学博物館学芸員資格コース 1月の試験終了

 本日までに、1月の特別科目試験を3科目受け終了しました。博物館経営論、博物館概論、生涯学習概論の3科目です。

コロナ禍で、以前から始まっている特別科目試験ということですが、自宅で持ち込み有りという試験です。

 わたしは、前に2回そして今回受けましたが、何となくやる気が今一つです。解答も予め準備して書き写せばいいのですが、問題が分かってからと思うと準備がそれなりになってしまいます。やはり緊張感が全然違うのです。

 現在コロナ禍のため、テレワークが定番となっていますが、通勤の無い会社員の方も仕事、生活のリズムが狂うのではと思います。大学生もまだ対面講義が少ないと聞きますが、本当に残念です。

 とは云え、最近の注目はワクチンへの期待ですが、少し不安ですが効果を上げているようなので、接種により収まるのでしょうか。

 

 ともあれ、わたしにとって、今年度もこれで一つの区切りがついたので、終了ということです。

今回の試験は、我ながらあまり良い出来ではなかったと感じていますが、及第にはなるかと楽観的に考えています。

 あとは、博物館実習(二)と科目は博物館展示論、博物館教育論、博物館情報・メディア論の3科目となります。

 コロナの収束が見通せませんが、博物館巡りもしないと進まないので、今後も急がずゆっくり進めようと思います。

 

短いので追記

 また、庭にやって来るトリたちの様子です。エサ、水があるからか頻繁にやってきます。可愛くて癒されます、

どのトリも見事な保護色で、よく見ないと分かりません。

赤い実が好きなのが、ヒヨドリメジロです。

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万両の実を食べるヒヨドリ

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千両の実を食べるメジロ

冬鳥のツグミもよく来ます。

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ツグミ

ついでに柴犬チロリです。

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後ろ向きに寝て居ます。太り気味なチロリ。

 

 寒波もたびたびやってきますので、体調管理に気を付けて今冬を乗り越えましょう。

                               おわり

谷保天満宮 参拝

 初詣と云うには遅すぎる感じですが、年の初めのけじめとして、蜜を避けて平日に行って参りました。

 東京都国立市谷保駅のすぐ近くの神社です。東日本最古の天満宮で、「亀戸天神社」「湯島天満宮」と合わせて関東三大天神と呼ばれています。

また、交通安全祈願発祥の地としても知られています。戴いた「谷保天満宮御縁起」によりますと、由緒は、「昌秦四年(901年)右大臣菅原道真公筑紫太宰府に左降の折、第三子道武公は武蔵国多磨郡分倍庄栗原郷(現国立市谷保)に配流せられた。

 延喜三年(903年)父君薨去の報に、道武公は思慕の情から父君の尊容を刻み鎮座したのが起こりである。」とあります。

 南武線谷保駅というところは、近くなのですが初めて降りました。

谷保の地名は、元々は「やぼ」と読まれていましたが、南武鉄道が駅を作る際に「やぼ」が「野暮」に聞こえるのを嫌ったといわれて、「やほ」が定着したようです。谷保天満宮の読み方は、「やぼてんまんぐう」というようです。

 駅から2,3分のところの甲州街道沿いにあります。

天満宮の社号碑があり、ここから参道で一の鳥居へと進みます。

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谷保天満宮の入口 

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一の鳥居と阿吽の狛犬

 手水舎の柄杓は、コロナ対策のため置いておらず、水がちょろちょろ流れています。

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手水舎 ハトが水を飲みにきています。

 そして、二の鳥居を通り、急な石段を下ります。多くの神社は上った所に社殿があるようですが、ここは下ったところに社務所、拝殿などの社殿があります。

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二の鳥居から石段を下ります。

石段を降りると、社殿の前に神牛像が二体あります。

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石造の神牛像

 

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拝殿前の神牛像(撫で牛) この牛は迫力ありますね。

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社務所・宝物殿

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拝殿

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拝殿前の狛犬です。

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楽殿 

 宝物殿、神楽殿は、コロナ禍のせいか閉まっていましたが、何があるのでしょう。
ニワトリが、放し飼いをしており、社殿のあちこちに我が物顔で闊歩しています。

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また、社殿の裏側に厳島神社があり、廻りに弁天池が囲っているようです。

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厳島神社

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弁天池

 参道途中にもいくつか合祀殿みたいのがあります。看板が無いので由緒などは分かりません。

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合祀殿


また筆塚、 慰霊碑もあります。

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筆塚

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慰霊碑

 そして梅園があり、早くも白梅が咲いておりました。

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白梅

 コロナ禍でなければ、学問の神、菅原道真公が御祭神の天満宮です。受験シーズンの今、多くの方が参拝に訪れているところでしたが、参拝者も少なくゆっくり見ることができた初詣でした。

 最後に御朱印です。華やかな感じです。

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                   おわり

ブラタモリと天橋立

 コロナ禍の中で、大学入学共通テストが、本日終わりましたが、受験された方はご苦労様でした。

 実は、昨日の共通テストの「地理B」で日本三景の一つにも数えられる絶景「天橋立」に関する問題が出題されていたのですが、「ブラタモリ」が的中と、ネットで話題になっておりました。

 ブラタモリは興味ある題材の時見るのですが、たまたま見ておりました。天橋立の景色のよく観光案内に載っている写真の絵は、交通のアクセスの良い、南側の展望台から撮ったもののようです。

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「南側から見た天橋立

 昔は、国分寺、舟屋が北側にあって賑わっていたようで、なぜ南に移ったのか、その秘密を探るのが番組の主旨でした。 

 南側の展望台には、「股のぞき台」というのが用意されていて、そこから天橋立を見ると、天空を舞う龍に見えるというものです。タモリも覗いておりましたがクラクラすると盛んに云っていました。

 共通テストの問題ですが、天橋立を4地点から撮影した写真のうち、北側から撮ったものを選ぶ問題が出たのです。

1週間前の放送に登場した「北側から見た天橋立」の景色の写真が、まさに的中する形となりました。北側と南側と見る景色はだいぶ違います。

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「北側から見た天橋立

 こんな問題出るのですね。これは、地元の受験生にとってはラッキーでしたが、他の人は迷いますね。ブラタモリは、受験生など若い人はあまり見ていないのではと思いますがどうでしょうか。

 また、雪舟が描いた「天橋立図」も紹介しておりましたが、砂州が現在より短いようです。

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国宝「天橋立図」 京都国立博物館所蔵

今でも砂の堆積や浸食が進んでおり天橋立砂州も変形しているようです。

 

 タモリさんは、案内者の質問にいつも的確に答えているのには感心させられます。特に、地形、地質に詳しく歴史にも詳しそうです。

それにしても問題の作成者は、先週のブラタモリを見ていたら、きっと驚いたのではないでしょうか。あまりにもタイミングが良すぎますから。

                           おわり

真冬の野鳥たち

 今年になってから、寒波がいくつも到来して厳寒の冬となりました。野鳥たちは、餌と水を求めて庭に多数やって来ております。

 最もよく庭に現れるのが「メジロ」と「シジュウカラ」です。でもこの種類は小さく、すばしこく、直ぐに気配を感じ逃げてしまい、なかなか写真を撮れません。

 しかし今冬は、あまりにも餌が無いのか、喉が渇いたのかしょっちゅう来て撮ることが出来ました。

まずメジロです。このトリはよく夫婦でやって来ます。

全体が黄緑で目の周りが白い、お馴染みの小さく可愛いトリです。

 メダカの水槽に水を飲みにやって来ました。

メジロの夫婦です。この日は寒さが厳しくメダカの水槽は凍っています。

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凍った水面にいるメジロと相方のメジロ

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あれ水、凍っているよ。水飲めないよ。

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本当だ。今朝は寒いからね。

てな、ことを云っているみたいです。

 

 そして、同じ位の大きさの素早いシジュウカラも頻繁にやってきます。このトリは夫婦だけでなく集団でやって来ることが多いのですが、直ぐ飛び去ります。

でも、これも上手く撮れました。

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白黒くっきりのシジュウカラ

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夫婦のシジュウカラ

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水を飲みにやって来るシジュウカラ

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水を飲む夫婦のシジュウカラ

 シジュウカラは、鳴き声で会話していることが知られています。

 また、来た時の滞在時間が、最も長いのが「キジバト」です。見ているのが分かっていると思うのですが、あまり逃げなく、マイペースです。

地上で何か食べ、長い時間水を飲みます。このトリも夫婦でやって来て仲が良さそうです。

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水甕に乗って水を飲みます。

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夫婦で仲良く水を飲みます。

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地上でも一緒に餌を捜します。

 冬鳥の「ジョウビタキ」もその後、相変わらず来ております。日本から離れるのは3月頃でしょうか。

庭に来るのはメスばかりでオスは見当たりません。

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水甕に止まる可愛いジョウビタキ

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水を飲みに水槽へ

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飛び去ったあと、水槽の縁に、種子を吐き出しフンを残しています。

 そして、珍しいトリですが、「ツグミ」が、やって来ました。シベリア方面から来る冬鳥ですが、メジロなどと比べて大きくヒヨドリと同じ位の大きさです。

冬になるとよく地上にいるのが見受けられますが、たまたま洗濯の物干しスタンドに留まっていました。

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スタンドに留まるツグミ カーテン越しで不明瞭ですが。

 

 コロナがますます勢いを増す中、この寒い冬も可愛らしく、一生懸命、逞しく生きている野鳥たちに癒されます。

                     おわり