弘法大師空海への疑問

仏教美術史を学んでいると、日本の仏教に貢献したキーマンが何人か存在する。

例えば、聖徳太子空海、そして鑑真などであるが、空海についてはよくテレビ番組にも取り上げられ、いろいろと疑問が湧き,興味を覚える。

生い立ちのこと、遣唐使になぜ選ばれたか、わずか2年で帰国したが、どうして密教を会得して経典を授けられたか、また中国語、サンスクリット語はどのように覚えたかなど疑問は尽きない。

空海の生涯』由良弥生著、その他資料から見えてきたことを自分の備忘録としても考え、明らかにしたいと思う。

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空海の肖像

(1)幼少期からの空海密教を志し遣唐使となるまでどのように過ごしたか。

 空海の幼少期の名前を真魚(まお)と云い、地方官の家系の父と学者の家系の母との間に讃岐国で生まれた。

15歳で奈良の平城京にのぼり、大学受験までの三年間、中央の官吏で儒学者でもある叔父から、論語など漢籍を学んだ。

このへんは現代と変わらず、大学受験があり、受験戦争もあったのだ。大学があったのにも驚くが。ここでいう大学はまさに官吏養成の最高機関で、都に一つしかない。

漢籍とは漢文で書かれた中国の書物で、年号「令和」が、漢籍か国書かの議論があったが、その漢籍である。

真魚空海)は、難関を突破し見事合格する。中央の官吏として、高位高官の道が開かれたのだ。

そこで儒教、仏教、道教そして漢音、漢字の書法などを学ぶのである。

このように大学で学んでいたときに、漢語(中国語)は理解していたようである。

 讃岐の片田舎出身とはいえ、家族環境が中央に出る機会、大学で学ぶ機会に恵まれていた ようである。

 

しかし当時、政治の実権を握っているのは、藤原一族で、大学を卒業して中央の官吏になったとしても、その下で働くだけだと考えると、大学に充たされなかったのである。

 

そして、仏教に関心を抱き、奈良の寺を巡り始める。「虚空蔵求聞持法」という経典の存在を知り、山林で修行し、高級官吏となる道を捨てたのである。

24歳で三教指帰(さんごうしいき)』を著し、大学から去り、出家宣言する。

 

空海は、大学在学中、教育内容に満足できず、医学書や仏書など初めて見る中国の書籍にひかれ、自力で理解していた。

しかし、本人の頭脳明晰さ、理解力、探求心がそれに満足せず、仏教の道に進んだことが分かる。

そして、同じ仏教でもさまざまな教えがあるが、究極の教えというものがないか、考えるのである。

遂に、仏教の中でも究極の教えと出会い、それに向かう運命が決定される。

それが、大日経という密教の経典である。大日経は古代インドを起源とする密教の経典である。サンスクリット語梵語)で書かれたものが漢語(中国語)に訳された。

 

空海は、その漢訳本の写しを手に入れたが、翻訳本のもつ限界と写経のさいの誤字、脱字があり、文意の不明点なところや疑問点が多くあった。

 

日本で初めての密教僧になるには、サンスクリット語を習い覚え、そのうえで大日経を知り尽くした密教僧から、直に実践的修行方法を教えてもらう必要がある。このように空海は感じ、かくなるうえは、唐に渡る以外に方法はないと考えたと思われる。

 

以上が幼少期から密教を志すまでの経過をみてきた。

 

そしていよいよ遣唐使として唐に渡ることになる。

当時の遣唐使についてであるが、飛鳥から平安時代の日本から唐へ派遣されていた使節団であり、20回程度派遣されており、1回何百人もの大船団である。

 

8世紀に阿倍仲麻呂吉備真備・僧玄昉などが渡っており、阿倍仲麻呂のように帰国せず中国の高官になった人物もいる。

ただ、航海技術が進んでいなかったため、毎回命がけの出航であった。2回目の遣唐使では生き残ったのは241人中たった5人であったという。

 

唐は偉大な異国で、この時代、文明は唐にしかない。その唐に渡って学ぶ者には、二種類あった。還学生(げんがくしょう)と留学生(るがくしょう)である。

還学生は、~2年の短期滞在であり、留学生は長期滞在で、少なくとも20年は日本に帰って来ることが出来ない。むろん両者とも官許が必要だった。

 

この時、空海と比較される最澄は、仏教界に確固たる地位を築いており、官許がおり、入唐が決まったが、熱意はあるが無名の空海は官許がおりなかった。

 

長くなるので今回はここまでで。無名の空海遣唐使にどのようにして入唐できたかなどの経緯は次回とします。