空海への疑問 続き2

帰国した空海に待ち受けていたものは何か、また最澄との葛藤、高野山の選定をどう成しえたかなどの、3回目の空海への疑問で、今回で完結です。

(3)空海最澄の日本に帰国後

空海は、太宰府で、朝廷の沙汰を待っているあいだ、『請来目録』を書きあげた。

それは、唐から持ち帰った密教に関する膨大な経典類、経論そして仏画、法具類の目録で、留学成果の報告書も兼ねている。

留学を切り上げて帰って(20年を2年足らずで)来た罪に問われかねない不安があったからだ。

その頃の天皇家、朝廷には問題があり、空海の差し出した請来目録どころではなかったのでようだ。桓武天皇の没後即位した平城天皇の醜聞と藤原一族の内部抗争、

そして平城天皇への謀反の警戒である。

それが、空海と関連するというあらぬ疑いがかかったので、なかなか朝廷からの沙汰が下りず太宰府に留まっていたのである。

 

一方、最澄は、入唐目的は、台州天台山で、天台宗の法門(仏の教え)を受ける事で、天台法華宗の基礎固めし終えたのである。

しかし帰りの遣唐使船の出航準備が整うまで、ついでに密教の付法を受けようと龍興寺に順暁を尋ね、通訳の僧を介して一ヵ月ほど密教を学んだ。

日本に伝来した密教(古密教・初期密教=雑密)がなんとなく不完全であると感じとっていたからである。

しかし自分が順暁から学んだ密教が傍流のもので、しかも一部分にすぎないことを知らなかった。

それでも帰国した最澄は新しい仏教思想である密教を身につけた者として厚遇され、評価は高まったのである。

桓武天皇は、最澄を「我が国に唐の天台宗と新しい仏教思想である密教を伝えた第一人者である」と称賛した。

しかし、最澄は、密教に対する自分の理解が不十分であることを認識していたため、空海の請来目録が気になり披見を朝廷に申し出て許され目を通した。

持ち帰った経典類のほとんどが、最澄の知らないものばかりであった。そして、最澄は、空海が尋常一様の留学僧ではない、並外れた才能の持ち主と直感する。

請来目録を書き写し、空海の入京しだい、新しい密教関係の書物を借り出して学び、自分の密教のつとめる腹積つもりであった。

この辺は、最澄が、順暁から学んだ密教が傍流のもので、しかも一部分にすぎないことを悟り、次の手を考える俊敏さはさすがである。

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最澄像 一乗寺所蔵

 

(4)最澄との葛藤

新帝の嵯峨天皇が誕生して、ようやく空海が入京を許可された。帰国から3年経っている。空海平安京の西北の高雄山寺に行き移り住んだ。

ここから空海最澄のやり取りが始まる。

最澄は、伝法のためと称して多くの密教経典を空海から借り出しては書き写すようになる。最澄の借用要求には、再三空海は、「密教というのは、書物から学ぶものではなく、面授によって学ぶのが正しい」と返書するのだが言い訳して会わない。

その後も最澄密教経典の筆写に励むだけで、面授を受けに出向いてくる気配を見せなかった。

そんな最澄に対して空海は足掛け7年におよぶ交渉も崩壊したと判断し、訣別するのである。

空海は、809年高雄山寺に移り住んでから823平安京の東寺を預かるまでの14年間を高雄山寺(後の神護寺)で暮らす。

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現在の神護寺


 この間に、恵果から伝授された新しい密教の教えを一つの体系のなかに論理化するという困難な作業を続け、二つを一つに統合し、それを空海は、「真言密教」とよぶ。

 

そして嵯峨天皇平城上皇との「薬子の変」が収まった後、空海は、嵯峨天皇に接近し、「真言密教」を完成させ、真言密教こそ正統な密教であることを広く世に知らせ、同時に最澄密教が中途半端なものであることを示す、いい折りだと気づく。

一連の政変で混乱した国家を鎮めるための修法を、高雄山寺で行いたいとの請願書をだす。

そして、高雄山寺において空海は、護摩木の放つ火など華麗、神秘な修法で圧倒し、嵯峨天皇の厚い信頼を得、全国に真言密教を知らしめることになる。

空海のこのあたりの行動力はさすがであり、機を見るに敏で応変の人といえる。

 

(5)高野山の場所をどのようにして選定したか。三鈷杵伝説

空海は、弟子の養成に必要な根本道場の建立を決意して、さらに、紀伊国の高野の山地を与えて戴きたいとの請願書を嵯峨天皇に出した。

若いころから高野の山地を登っていたふしがある。

紀の川の南にある高野の山地は、八つの峰に囲まれ、山上は広々として平らである。

熊野にも吉野にも近く、旧都(平城宮)からも新都(平安京)からも程よい遠さである。生活に必要な水にも困らなく、禅定を修行する根本道場の建立には絶好の土地であった。

程なく高野の山地を空海に与えるという公文書が国司にくだった。

817年、いよいよ高野山の開創に着手する。開創に従事した中に最澄の最も期待していた弟子である泰範がいる。

 

空海の構想した伽藍配置を平らな山上に実現するには、資材の確保、従事者、食料の確保など莫大な造営資金が必要だった。

しかし官寺ではなく私寺であるため寄進に頼るほかなかった。有力な近隣の豪族に援助を依頼しまた勧進を何度も行った。

そして目をつけたのが高野の山地周辺の辰砂(水銀の原料)や鉛丹(酸化鉛)である。合金や赤色の顔料に使われ、経済的価値が高く貴重であった。

空海は、仏教僧の学問である五明(医学、薬学、工学など)を修めていて水銀や朱を作り出し、財源にしたと考えられる。いずれにせよ根本道場が建立され金剛峯寺名付けた。

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高野山の総本堂金堂   根本大塔 根本道場のシンボル

ここで三鈷杵(さんこしょ)伝説について

空海は師から授かった密教法具の三鈷杵を取り出すと、「密教を広めるのにふさわしい地に導きますように」との願いを込めて東の空に投げた。三鈷杵は流星のごとく飛んで行った。

それから10年後の816年(弘仁7年)、空海高野山「三鈷の松」にこの三鈷杵がかかっているのを発見したという。

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三鈷杵を投げる空海  松の木にかかった三鈷杵を見つめる空海の図

彼は三鈷杵が導いたこの地に真言密教の道場を開いたという話である。

空海が投げたとされる三鈷杵は実在のもので、(重要文化財・飛行三鈷杵)現在は高野山の至宝として厳重に保管されている。

 

空海は、その後、官職に任ぜられ、伝燈大法師位まで授かり、最澄を越えていた。

また官職のころ、日照りや洪水に苦しんでいた故郷である讃岐国に溜め池、満濃池の改修工事にとりかかったこともある。

アーチ型堤防など最新の工法を駆使して完成させた。レオナルドダビンチのように万能な天才であったことが伺われる。

そして東寺である。

東寺を嵯峨天皇から賜ったが、わたしは、東寺を完成させた後に高野山を創設したと思っていたが、年代的に同時進行的にことが行われていることに驚いた。

 

東寺を空海に給預するという勅命がくだったのは823年のことである。嵯峨天皇は、空海に東寺を預けて整備させ、平安京に迎えやすいと考えたのだ。

東寺は西寺とともに、平安京に遷都した2年後、国家を鎮護する寺として建立された。

空海は、高野山の開創が進んでないため、東寺を真言密教の根本道場にし、真言密教真言宗として独立しようとした。

密教は、どの宗派より経費がかかった。その教えを諸仏教や曼荼羅で表し、修法に金属の法具類を必要とする。

そこで東寺の管理者になって、官費で東寺を真言密教の根本道場にすることが出来ると考えたのである。

まず堂塔を整え、密教の宇宙観を表している絵図、曼荼羅に注目し、立体曼荼羅を考案した。

これは五仏、五大菩薩五大明王、六天、合わせて21尊の仏像を造り、新しい講堂に立体的に展開するものであった。

こうして空海は、官費で東寺を真言密教の根本道場にすることが出来たのである。

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東寺講堂    講堂の立体曼荼羅

そして826五重塔の造営に着手する。完成は空海没後の883年である。以後空海の考える通り、日本の仏教全体が、真言密教化する方向へ進んでいく。

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東寺全体南大門から

 

831年に、高野山金剛峯寺の金堂と諸仏が完成する。

空海はついに東寺を去り高野山に隠棲する。空海59歳のときである。

そして数々の行事をこなし、東寺などを弟子に任せ、静かに息をひきとる。

空海阿闍梨、入滅である。享年62歳。

 

讃岐の片田舎から日本の仏教界に君臨した華麗なる一生である。

 

参考文献:空海の生涯、日本仏像史、Wikipediaなど