奈良の地名ですが、平易な読み方が出来ない所が多数あります。
しかも古代史と深く関わっていることが伺えるのです。
ここで三つの地名について考えてみます。
我が、奈良大学の住所からして、奈良市山陵町ですが、この町名の山陵町が「みささぎ」町と読むのです。
「さんりょう」町としか読めませんが。
しかしこの山陵町には、さすがに奈良です。
天皇陵などの大規模な古墳がいくつもあります。
最大の古墳が神功(じんぐう)皇后陵です。
現在の令和の天皇で126代ですが、14代天皇の仲哀(ちゅうあい)天皇の皇后です。
神功皇后については、記紀(古事記と日本書紀)に書かれていますが、伝説上の人物で色々物語があります。
『女龍王神功皇后』という黒岩重吾の小説にもなっており、天皇の死後、朝鮮半島に三韓征伐を行ったとされるという不思議な人物です。
夫の仲哀天皇もヤマトタケルノミコトの次男とのことですから、多分に神話上の話となります。
もっとも初代神武天皇から十数代の初期天皇については、神話と関連があり、実在するかどうかは定かではありません。
そして、近鉄奈良線の平城駅を挟んだ神功皇后陵の反対側に孝謙天皇陵もあります。
孝謙天皇は、聖武天皇の娘であり、一度退位して、再び称徳天皇として復位しています。
東大寺大仏を造立した聖武天皇の父にならい、仏教を礎とした政治を推進したと考えられます。
あまりイメージの良くない怪僧道鏡のパートナーとして知られますが、自らの血筋に強烈な自負をもっていたと思えます。
次に斑鳩です。
古代史が得意な方には、簡単ですが、「いかるが」です。
法隆寺を中心とした地域で、聖徳太子と関連が深い地域です。斑鳩宮は、現在の奈良県生駒郡斑鳩町にあった宮殿です。
この宮に隣接して建立されていたのが法隆寺で、旧名が斑鳩寺です。
そして聖徳太子は、斑鳩宮の西方に斑鳩伽藍群として法隆寺をはじめ、中宮寺、法輪寺、法起寺が建立しました。
そして太秦です。奈良ではなく京都にありますが、聖徳太子と関連が深いのです。
「うずまさ」と読みます。
太秦は、かつて人気のあった時代劇の映画撮影所でも有名ですが、京都最古の寺院である「広隆寺」があります。
渡来人系の氏族である秦氏の氏寺であり、平安京遷都以前から存在していました。
秦氏は、6世紀に朝鮮半島を経由しての倭国へ渡来した集団で、秦の始皇帝の子孫とも云われています。
族長的人物である秦河勝は、富裕な商人でもあり朝廷の財政に関わっていたといわれ、その財力により平安京の造成、伊勢神宮の創建などに関与していたと考えられます。
この人物は、聖徳太子から半跏思惟像を賜わって、太秦の広隆寺を造営したといい、謎の多い人物です。
広隆寺には、「宝冠弥勒」と云われる半跏思惟像を蔵することで知られます。
また、やや小型の「宝髻(ほうけい)弥勒」(泣き弥勒)と称される半跏像もありますが、ともに国宝に指定されています。
特に、宝冠弥勒像は、中宮寺の弥勒菩薩像とともに大型の半跏思惟像として有名です。あの何とも形容しがたい優しさや、微かな古拙の微笑(アルクイックスマイル)を浮かべています。
山陵、斑鳩、太秦と見てきましたが、まだまだ難解な読み方が多数あります。
橿原(かしはら)、當麻寺(たいまでら)、平城山(ならやま)、畝傍山(うねびやま)、京終(きょうばて)などなどです。
しかもそれは、古代史を知らずして理解できない、重みを感じるものなのです。