毎年、この時期になると、小学校のクラス会、両親の墓参りなどで、札幌に行っております。
昨年は、大地震で行けませんでした。札幌に行く予定の2日前に地震が起こったのです。
今まで札幌は災害もなく、こんな事が起こるなんて考えもしませんでしたが、今回が2年ぶりとなります。
札幌市立桑園小学校のクラス会、当時約60名、6年間、メンバーも先生も一緒でした。
卒業後も、先生が山に連れて行ってくださるなど、本当に仲の良いクラスで、クラス会は、今も続いております。
現在出席者は、10名前後ですが、毎年の恒例行事です。
今回も当時を懐かしみ、今をどう生きているかなど、楽しいひと時で、来年の再会を楽しみにしております。
兄の所にも顔を出し、家族の情報交換などをして、今回は少し、札幌の街を歩くことにしました。
まず我が母校、北大ですが、相変わらずのキャンパスです。
構内に小川が静かに流れ、クラーク博士の銅像は変わりありません。
そして懐かしい、学生会館のクラーク会館も変わりありません。
ポプラ並木ですが、台風で倒れ、再生のため長い間、入れないと聞いていましたが、見ることが出来ました。
しかし、昔の大木の、長く続く並木の面影は全くありませんでした。
そうですよね、木が10,20年で大きくなるわけがありません。100,200年後の後世のためにですね。
この農場は、クラーク博士の構想によってつくられ、北海道における大規模農場のモデル的役割を果たしております。
クラーク博士の退任の時に残したBoys,be ambitiousは、そのあとに、like this old boy、この私のように、という言葉が続きます。
マサチューセッツ農科大学長であったのですが、明治政府より北大の前身である札幌農学校の副学長として招かれたのです。
1876年のことですから、明治政府が海外から指導者を招く英断に驚きますが、米国に留学していた新島襄の推薦があったようです。
このクラーク博士と関連深いものに、現在の観光名所「時計台」があります。
クラーク博士は、南北戦争で、教え子を多数亡くした経験から演武場を構想し、建設され、生徒の兵式訓練の施設であったのです。
その後、時計塔を付設し、20世紀初期に札幌市に移管され、市民のシンボルとして親しまれました。
クラーク博士がやって来た時は、米国もわずか独立して100周年、日本も戊辰戦争が終わってまだ数年という時です。
クラーク博士は、このような時に、僅か10カ月足らずでしたが、大きな功績を残しました。
彼の教えの根底には、キリスト教精神が流れ、「紳士たれ」という、博士の言葉に集約されていると思います。
蛇足ですが、「日本三大がっかり名所」と呼ばれる観光スポットなるものがあり、この「札幌時計台」も入っているそうです。
わたしも今回、行きましたが、なかなか威風堂々たるもので、歴史の重みを感じました。
因みにあとの二つは、「高知のはりやま橋」と「沖縄の守礼門」だそうです。
それぞれの名所に歴史があり、このような言い方をするのは、無礼極まりない話で、残念です。
話を北大の散策に戻しますが、以外にも興味深いものがありました。
確か、理学部であった建物が、総合博物館となっていて、「考古学からみた北大キャンパスの5000年」という企画展示が行われていました。
北大のキャンパスの足元には、縄文時代中期(約5,000年前)以降の遺跡が眠っており、キャンパス内の遺跡から出土した、土器や石器などの遺物が展示されていたのです。
北海道は、弥生時代がありませんので、縄文時代が、続縄文時代、それに続く擦文時代と長いのです。
北大植物園にも行きたかったのですが、少し離れていて、札幌も暑く次の機会にと思います。学生時代、南極から奇跡的に生還したカラフト犬タローが、余生を過ごしていた記憶がある、思い出の場所です。
新千歳空港にて北海道らしい食事をとり、暑い東京に戻りました。
近年、札幌も、だんだん暑くなっていくようですが。
1年に1度は、北海道の空気を吸うことは、気持ちの良い清々しいものでした。ありがとうございました。