河口慧海のチベット探検

以前から、河口慧海(かわぐちえかい)のチベット探検について興味があったのですが、一ヵ月ほど前に、東奥日報社の記事で「河口慧海チベット潜入路を確定」という記事が載っておりました。

河口慧海という人物は、仏教学者にして探検家であり、サンスクリット梵語)の原典とチベット語訳の仏典入手を決意して、日本人として初めてヒマラヤ越えをして、当時鎖国チベットへの入国を果たした人物です。

 

f:id:kumacare:20191008071205j:plain

1897年(明治30年)、日本を離れる直前の河口慧海(32歳)。

仏典の原典を求めて、ヒンドゥークシ山脈を越えてインドに至った玄奘三蔵法師)と、共通する大変な人物なのです。

明治時代に鎖国状態のチベットへ、日本人として初めて潜入した僧侶河口慧海は、ネパールからヒマラヤ山脈を越えたと云う潜入ルートは、謎に包まれてきました。密入国のためか、慧海は越境の詳しいルートを明らかにしていないためです。

 

その記事は、登山家で作家の根深誠氏が現地調査で越境ルートを突き止めたというものでした。

従来三つのルートのうち、クン・ラ峠越えが、考えられていました。

しかし、慧海はヒマラヤの移動にヤクを使っていたことが知られており、そのルートは当時、家畜が通れない道と分かり、ヤクが通れる道はマンゲン・ラ峠のルートだけで、慧海の越境ルートとして確実になったというものです。

ルートを実際に何度も踏査して確かめた根深誠氏の行動にも凄いものを感じます。

 

河口慧海チベット探検についてあらためて、『西蔵(チベット)旅行記』をみてみます。

 

河口慧海は、『西蔵旅行記』により、チベット入国の動機(1回)から始まって、ヒマラヤ越えの旅行からチベット入国までの様子、チベット法王との謁見、そしてチベット宗教の将来、外交、滞在したネパールについても風俗、外交など155回に分かれて克明に記しています。

 

尚、『西蔵旅行記』は新聞社に連載されたものを纏めたもので、現在は、青空文庫著作権が消滅した作品をオンライン公開)などで誰でも閲覧することが出来ます。

 

当時のチベットは、覇権を狙うイギリスやロシアから、自国を守るため外国人の立ち入りを遮断しており、入国が発覚すれば死罪の恐れもある危険な旅であったのです。

第一回の日記で、チベット探検の動機として、「何にしてもその原書に依って見なければこの経文のいずれが真実でいずれが偽りであるかは分らない。これは原書を得るに限る」とあります。

平易にして読み易い仏教の経文を社会に供給したいという思いが、発端のようで、三蔵法師と一緒です。

原書に近いと云われるチベットの経典を得るため、チベットを目指してインドへ旅立ったのが明治30年(1897)です。

まず慧海が向かったのは、チベットの中心都市ラサへの玄関口、インドのダージリンでした。

ここで慧海は、1年4カ月滞在したのですが、その目的は、チベット語を習得するためでした。

ダージリンチベット語の学者サラット・チャンドラ・ダースを尋ねて、チベット語を習うとともに、チベット人の家に寄宿してチベット語を習得したのです。

このように慧海は、計画を周到に立て、強い意志で実行に移したのです。

その計画の緻密さは、チベットに入るルートにもよく考えられています。

主要な街道はチベット人の監視が厳しく監視しているため、警備の薄い遠回りのルートを選択しました。

f:id:kumacare:20191008072004j:plain

ダージリンからラサへの概略図

ダージリンからネパールのカトマンズに入り、中部のポカラを通り、西の地方ドルポから国境線を越えるという、大回りしてラサに入るというルートです。

 

だがそこには、ヒマラヤ山脈越えという壁が待ち構えていたのです。

日記では、「発熱劇しくして心臓の鼓動大に」「呼吸の息、急にして殆ど絶息せんほどに来るし」「暴風の為に山下に吹き落されんとす」などと記されており、死と隣り合わせであった事がうかがえるのです。

慧海は、たった一人で磁石を頼りに5000mの峠を越えてチベット入国を果たしました。

日本を出国してから4年、遂にラサに到着した慧海は、鎖国チベット密入国したわけで、身を守るためチベット人を装ったのです。

そして、慧海は、ラサの北にあるセラ寺に学僧として入り、様々な経典に目を通し、修行に明け暮れる毎日を過ごしました。

 

さらに慧海は、ラサに入って4カ月たったころ、思いもかけない名誉に、よくします。

チベット仏教の頂点に立つダライ・ラマ13世が面会を申し込んできたのです。一般の人はもちろんのこと政府の高官でさえ会うことも出来ない方です。

なぜ会うことが出来たのか。それは、日記に、たびたび記されている「施薬」の文字です。

慧海は、漢方薬を取り寄せてどんどん病人に与えたのですが、それが不思議なくらいよく効いたのです。

慧海は医者として名声を博し、民衆から大変な人気を博すようになります。そのことがダライ・ラマ13世の耳の入り、謁見することが出来たのです。

侍従医の推薦にも、仏道修行することが、自分の本分であると断っています。

その後、慧海は、日本に帰国するのですが、大正3年(1914)に2度目のチベット入りを果たします。そして様々な文物を日本に持ち帰ることに成功するのです。

その一部が大正大学に保管されています。版木で作られたチベット語大蔵経で、慧海がチベット入りを目指した、きっかけとなった経典です。

大正大学には、このような慧海が将来した経典が、300点以上保管されております。また、慧海は、還俗してから大正大学教授にもなっています。

仏の教えを広く人々に伝えたいという、その信念を貫き通した慧海の途方もない旅であったのです。

現在のような詳細な情報も地図もなく、またヒマラヤ越えの装備もなく、目的を果たした慧海の旅は、旅そのものが修行との感覚ではなかったのか、と思うのです。

 

f:id:kumacare:20191008072422j:plain

慧海の歩いたルート(赤線)

f:id:kumacare:20191008072518j:plain

河口慧海(37歳)

1902年(明治35年)11月、ダージリンにてチベットのラマ姿をした、チベット脱出後の河口慧海です。

そして慧海の足跡を記念して、ネパールの各所に記念館などがあることに驚きます。

 

カトマンズの「ボダナート」には河口慧海の訪問記念碑があり、ポカラからチベットにつづくジョムソン街道の宿場町「マルファ」には、「河口慧海記念館」が、そしてポカラの「国際山岳博物館」にも河口慧海の資料が展示されているそうです。

 

如何に、慧海が、ネパールの訪れていた町々に影響を及ぼしていたことが分かります。

カトマンズのボダナートやポカラには、鍼灸ボランティアで何度も訪れていたのですが、慧海の記念館があることを知らなかったのは、迂闊でした。

f:id:kumacare:20191008072837j:plain

カトマンズの巨大なストゥーパ ボダナート

f:id:kumacare:20191008073034j:plain

ボダナートの河口慧海顕彰碑

f:id:kumacare:20191008073111j:plain

ポカラの国際山岳博物館の河口慧海コーナー

そして、マルファでは、河口慧海が滞在したアダム・ナリン宅 を河口慧海記念館としています。

 

尚、仏教界では、同じ時期に中央アジア探検により、シルクロードから貴重な仏教史料をもたらした、浄土真宗西本願寺大谷光瑞という人物もおります。二人はインドで実際に会っております。大谷光瑞についてはまたの機会でと思います。