古代から大陸の窓口「対馬」

対馬は、古代から日本の歴史の節目にたびたび登場してくる島で、少し注目したいと思います。この島は、九州の北方の玄界灘にあり、長崎県に属する島ですが、本当に大陸、朝鮮半島とは近いのです。

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対馬の位置

地図を見れば分かる通り、釜山へは50km程度、福岡より朝鮮半島に断然近い島です。

この島は、大陸からの文化、経済の窓口といった面ばかりでなく、外交、防衛の窓口としても重要な役割を果たしてきました。

 

最初は、弥生時代に遡ると思われます。稲作が始まって防御上、環濠集落が作られるようになりますが、これも大陸、朝鮮半島からもたらされます。

国慶尚南道の蔚山(ウルサン)の剣丹里(コムタンリ)遺跡などにも環濠集落が発掘されています。蔚山は、釜山に近い。倭国にくるとなれば必ず対馬を経由して九州に入ります。

そして、鉄、須恵器もそうです。古代朝鮮の南端、伽耶国と関係が深いと思われますが、これも対馬を経由して九州に入ったことに相違ありません。

このように見ていくと、対馬は、古くから大陸との交流があり、歴史的には朝鮮半島倭国を結ぶ交通の要衝であったと思われます。

古代の書物の中にも、対馬について書かれています。

古事記』では、イザナギイザナミの建国神話の世界ですが、「津島」、そして『日本書紀』では、「対馬洲」「対馬島」の表記で登場します。

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写真国産み(「天瓊を以て滄海を探るの図」、小林永濯)

淡路、四国、隠岐、九州、壱岐対馬佐渡、本州の順で国産みがなされ、日本の国を大八島(八州)と呼ぶことになります。

魏志倭人伝』(正確には『三国志』魏書・東夷伝倭人条)では、「対馬国」は邪馬台国に服属した一国として書かれていますが、邪馬台国九州説支持者の、一根拠として説明されています。

それは、朝鮮半島にあった、古代中国魏の帯方郡から邪馬台国に至る道程が、七か所の中継地点ごとに、進行方向と距離が書かれています。この中にも「対馬国(つまこく、あるいは、つしまのくに)」として登場するのです。

倭人伝の「今、使訳を通ずるところ三十国」のうちの一国とあります。

また「始度一海千余里 至対馬国」(はじめて一つ海を渡る。一千余里ある。対馬国に至る。)と書かれています。

 

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魏の帯方郡の位置

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魏志倭人伝による邪馬台国への道程

そして、日本と大陸との戦いの歴史にも、たびたび登場します。

記紀(『古事記』と『日本書紀』)に、神功皇后14仲哀天皇の皇后)の新羅など「三韓征伐」伝承が書かれていますが、具体的に対馬の地名が登場します。

西暦200年の話ですので、多分に伝説的な出来事ですが。

600年からの推古天皇における遣隋使も、また630年よりはじまる初期の遣唐使もすべて航海は、対馬を航路の寄港地としていました。

 

白村江の戦で(663年日本・百済の連合軍対唐・新羅連合軍との戦い)で大敗した倭国は、以後、唐・新羅の侵攻に備え、対馬には防人が置かれます。

667年(天智6年)には、浅茅湾南岸に山城金田城を築いて国境要塞とします。

ここで余談ですが、このときの金田城が、日本「最強の城」に選定されたようです。(わたしは、失念しました。)

9月に放映されたNHK総合『あなたも絶対行きたくなる!日本「最強の城」スペシャル』という番組です。

全国からエントリーされた強豪の城を押さえて金田城が、見事「最強の城」に選出されたようです。解説は城と云えば、城郭考古学者の奈良大学千田嘉博教授です。

世の中、何と、お城好きが多いことか、驚きました。

この防人が守った金田城が、巨大な岩山である「城山」の地形を利用した天然の要塞のようですが、まさに飛鳥時代天智天皇の時代に造られたのです。

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古代山城・金田城跡

話を戦の歴史に戻して、1274文永の役と、1281弘安の役2度に渡った「元寇」のときです。この時にも元軍と高麗軍を最初に迎え撃ったのが対馬ですが、壊滅的な惨状でした。

特に、最初の「文永の役」の対馬の惨状について、日蓮宗の宗祖・日蓮は当時の伝聞を『日蓮聖人註画讃』により伝えています。

この文書は、文永の役の翌々年に書かれたもので、これによると「元軍は上陸後、宗資国以下の対馬勢を破って、島内の民衆を殺戮、あるいは捕虜とし、捕虜とした女性の「手ヲトヲシテ」つまり手の平に穴を穿ち、これを貫き通して船壁に並べ立てた」、とあります。船のへりに立たせることで盾にしようとしたのです。

2度目の「弘安の役」についても、『八幡愚童記』正応本に同じような、悲惨なことが記されています。

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文永の役における鳥飼潟の戦い。

元軍に突撃する竹崎季長と応戦、敗走する元兵。(『蒙古襲来絵詞』前巻・絵7・第23紙)

 

そして、秀吉の朝鮮出兵においても、対馬藩は、大きな役割を果たしております。

文禄・慶長の役で、中継基地となり、藩主宗義智以下5,000人が、最先鋒部隊にあたる小西行長の一番隊に配属され、先陣となって、朝鮮軍や明軍と戦ったのです。

 

このように、地理的な事情、最も大陸に近い島ゆえに、朝鮮半島との戦いでしばしば「前線基地」としてあつかわれた、大変な過去の悲しい歴史があったのです。

 

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対馬初代藩主宗義智

対馬は、その後の経過を経て、1990年代頃から、日韓交流の拠点となり、イベントの開催等さまざまな活動を行って、韓国からの観光客で賑わっています。しかし、近年の仏像盗難事件、そして最近の政治の日韓対立により、韓国との種々の交流がストップしているのは、残念でなりません。

 

話は変わって、何といっても対馬で有名なのは、「ツシマヤマネコ」です。

日本国内に分布するネコ類は、イエネコを除いて、対馬ツシマヤマネコと、西表島イリオモテヤマネコ2つのみです。

対馬ツシマヤマネコは「絶滅危惧種」「国内希少野生動植物種」に指定されていますが、現在では100頭位と云われています。

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対馬を象徴する野生動物ツシマヤマネコ

以上対馬は、ツシマヤマネコをはじめとする希少な動植物、金田城、小茂田浜(元寇の最初に上陸した場所)、宗家10万石の菩提寺の万松院など、見どころ多数の歴史と自然の島ですが、一度は訪れてみたいものです。