遣唐使・吉備真備の墓誌と日本国

昨年末の新聞報道に、吉備真備(きびのまきび)が書いたと思われる墓誌が中国で発見された、との報道がありました。

その墓誌の分析によると、末尾に「日本国朝臣(あそん)備書」と書かれていたのです。

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吉備真備の筆跡とみられる墓誌の拓本の一部分(深圳望野博物館所蔵・共同)

墓誌とは、死者の簡単な伝記が書かれたもので、唐王朝で中級官僚だった開元22(734)年に死去した李訓(りくん)の墓誌です。

 その末尾に「日本国朝臣備書」とあり、その文章を書いたのが「備」と呼ばれる人物、つまり吉備真備と読み取れるのです。

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吉備真備

吉備真備(きびのまきび)は、奈良時代の高級官僚で知られていますが、20代前半の717年に、阿倍仲麻呂らと一緒に唐に留学した時のようです。

吉備真備は帰国後、再び唐に渡っております。

 

だいぶ前に、中国の西安市内から発見された墓誌の報道がありました。遣唐使留学生の井真成(日本名は不明)が、開元22年に死去したとき、「尚衣奉御」の官職を追贈されたと記されております。

「考古学的に、中国で発見された最初の日本人の墓誌で、現存の石刻資料のなかで日本の国号を「日本」と記述した最古の例である。」とあります。

留学生として同行し、阿倍仲麻呂のように唐朝官吏に抜擢されたのですが、若くして客死したと考えられます。

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井真成墓誌(複製)

左は蓋部、右は身部。藤井寺市生涯学習センター(アイセルシュラホール)展示。

 墓誌の訓読文で、「姓は井、字は眞成、國號は日本。・・・」とあることから、国号を日本と云っていた事が分かります。

井真成が734年34歳のときに病気で死去し、死後皇帝から高位を賜っていたことが分かり、吉備真備遣唐使で行った時代とほぼ重なります。

二人は生まれた年も4歳しか違わず、20代前半で同じ船に乗った留学生遣唐使だったのではないかと思われます。

この2件の墓誌から明らかになったことは、「日本国」と書かれていたことで、少なくとも吉備真備井真成遣唐使として行った8世紀前半では、既に日本国と呼ばれていたことが分かります。

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遣唐使船 奈良平城宮跡に復元

古代からの日本の名称が「ヤマト」「倭」「日本」などと呼ばれております。それでは、日本の呼び名が、どの様に変遷したか、記紀(『古事記』と『日本書紀』)そして中国の歴史書から探ってみます。

古事記』は712年、『日本書紀』は720年と、ほぼ同時期にできた2大歴史書で、日本の神話と歴史を書き記したものです。

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真福寺収蔵の『古事記』(国宝。信瑜の弟子の賢瑜による写本)

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日本書紀平安時代の写本)

日本では、大和政権が統一以降に自国を「ヤマト」と称していたようですが、古くから中国や朝鮮は日本を「倭」と呼んできました。

古事記』ではヤマトを「倭」とのみ示し、「日本」と書かれることはありません。

一方、『日本書紀』では逆に、ヤマトの大部分を「日本」と記しています。

「倭」と「日本」の関係について、『日本書紀』によれば、「ヤマト」の勢力が中心に倭を統一した古代の日本では、漢字の流入と共に「倭」を借字として「ヤマト」と読むようになり、やがて、その「ヤマト」に当てる漢字を「倭」から「日本」に変更し、当初はこれを「ヤマト」と読んだとしています。

 

中国の歴史書の『前漢書』『三国志』『後漢書』『宋書』『隋書』や、朝鮮半島高句麗の広開土大王の碑文も、すべて倭、倭国倭人、などと記しています。

 

そして中国においては、『旧唐書』の「東夷伝」に初めて日本の名称が登場し、「日本国は倭国の別種なり。其の国、日の辺に在るを以ての故に、日本を以て名と為す」「或いは曰く、倭国自ら其の名の雅ならざるを悪(にく)み、改めて日本と為す」のように、倭の名称を日本に変えた理由を説明しています。

また、『新唐書』においては「国日出ずる所に近し、以に名をなす」とあり、隋書の「日出処天子」と共通しています。

 

以上のことから、「日本」という国号の表記が定着した時期は、7世紀後半から8世紀初頭までの間と考えられます。

この頃の東アジアは、618年に成立した唐が勢力を拡大し、周辺諸国に強い影響を及ぼしていました。

そして663年の白村江の戦いでの唐・新羅連合軍に大敗した倭国は、唐との対等関係を目指し、律令国家に変革していく必要性が生じました。

これらの情勢を契機として、668年に天智天皇が日本で最初の律令である近江朝廷之令(近江令)を制定し、さらに672年の壬申の乱を経て強い権力を握った天武天皇は、天皇を中心とする体制の構築を更に進めたのです。

701年(大宝元年)に大宝律令を制定し、国号「日本」は、誕生したと考えられます。

中国の歴史書からみても、『旧唐書』から『新唐書』のときに「倭」が「日本」へと変わっていったのが明らかです。

7世紀に、女帝則天武后(今は武則天と呼ばれているのが一般的)の時代に、朝廷の使いの遣唐使が、倭から日本への国号変更を申し出て、それを則天武后が承認した、ということかと思います。

 

始めに戻り、吉備真備のことですが、最近大雨の被害に遭った真備町の出身で、地方豪族の家から高級官僚を務め、波乱に満ちた一生を終えています。

初めて遣唐使として唐に渡ったのは、21歳のときで、官僚になってからも再び遣唐使として唐に渡っています。

 

吉備真備について詳しく書くつもりでしたが、長くなりましたので次の機会と致します。