吉備真備(きびのまきび)の生涯

前々回に遣唐使吉備真備が書いたと思われる中国の墓誌から、日本国の名称の変遷について書きましたが、吉備真備本人の数奇な生涯にふれてみようと思います。

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吉備真備像(倉敷市真備支所) 岡山県倉敷市真備町出身

吉備真備は、20代前半に遣唐留学生となり、長き18年間、唐で学んだのです。

留学生の真備は、唐では、多くを学びその秀才ぶりには目を見張るものがあったと云います。

平安初期の歴史書である『続日本紀』によると、「真備は経書史書を研究し、また多くの学芸に広く及んだ。わが本朝の学生で、唐国で名をあげた者は真備大臣と朝衡(阿部仲麻呂)の二人だけである。」とあります。

そして、帰朝後、聖武天皇から孝謙淳仁、称徳、光仁天皇の五代の天皇におよそ40年仕え、72歳で右大臣となり職を辞したのが77歳のときです。81歳で生涯を終えております。

まさに現代の高齢社会を写すような生き方、超人、長生きしたから活躍できたのです。

吉備真備に関わる出来事を、段階的に年代順に追ってみます。

養老元年(717年)に遣唐留学生として阿倍仲麻呂、玄昉らと共に入唐し、仲麻呂は唐に残り高級官僚となりましたが、天平7年(735年)に玄昉と同船で、多くの典籍を携えて帰朝し、献上します。

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阿倍仲麻呂百人一首より)

阿倍仲麻呂は、唐で科挙に合格し、玄宗皇帝に仕え、高官に登りましたが、日本へ帰国せずに唐で客死しました。

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玄昉 奈良時代前期の法相宗の僧

持ち帰った物には経書、暦などの他、楽器、音楽書そして強力な弓、矢など多岐にわたっています。強力な「複合弓」と呼ばれるものや、実学的なもの、中国の最新の統治技術でした。

帰朝後は、聖武天皇光明皇后や権力者の橘諸兄(たちばなのもろえ)のブレーンとして玄昉と共に重用されます。

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橘諸兄・『前賢故実』より

橘諸兄の母は、橘三千代で、光明子光明皇后)は異父妹にあたります。

また真備は、阿倍内親王(後の孝謙天皇)の教育係にもなっています。

 

しかし、異例の出世を妬み、天平12年(740年)に、藤原広嗣藤原不比等の孫)が、真備と玄昉を除かんとして反乱を起こしましたが失敗し、処刑されます。(藤原広嗣の乱

その後、真備は、天平18年(746年)には吉備朝臣の姓を賜与されます。

ところが、聖武天皇が退位し、平城京を離れ、天平15年(743年)に孝謙天皇が即位して以降、藤原仲麻呂が実権を握ります。ここから真備の苦難の道が始まります。

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藤原仲麻呂

玄昉は、仲麻呂により天平17年(745年)に筑紫観世音寺に移され、翌年に没します。

 真備も天平勝宝2年(750年)に筑前守、次いで肥前守に左遷されます。真備が56歳のときです。

さらに天平勝宝3年(751年)には、遣唐副使に任命され、翌年に、再び危険な航海を経て入唐するのです。

同地では阿倍仲麻呂と再会し、その翌年の天平勝宝6年(754年)に帰国の途に就きます。

そして、鑑真と同じく屋久島へ漂着しましたが、無事に帰朝するのです。真備が60歳のときです。真備が2度の入唐で、無事に帰還できたことは、かなり運が強い人物と云えます。鑑真は、航海6度目で、やっと日本に来ることが出来たのです。

 

そして仲麻呂は、さらに真備に太宰府行きを命ずるのです。日本との関係が悪化していた朝鮮半島新羅の防衛計画の責任者とします。

これで真備の左遷は、天平勝宝2年(750年)から4年間で実に筑前国肥前国、唐、太宰府と4回にわたります。

しかし、今度は仲麻呂が苦境に立たされるのです。

後ろ盾の光明皇太后崩御されます。これで一気に求心力が失われ、対新羅の計画も中止となります。

天平宝字8年(764年)に孝謙太上天皇が、真備を「造東大寺長官」に任命し、平城京へ戻ります。真備が70歳のときです。

真備が復権し、立場を脅かされた仲麻呂は、遂に朝廷に反旗を翻し、「藤原仲麻呂の乱」を起こすのです。

吉備真備は、孝謙軍の作戦参謀として仲麻呂軍と対峙します。そこで使用したのが唐からの飛距離200m以上の威力を持つ複合弓だったのです。

仲麻呂は、これを見て色を失ったとあります。(押勝見之失色 続日本紀より 押勝とは藤原仲麻呂

遂に天平宝字8年(764年)仲麻呂は、琵琶湖の勝野の鬼江に追い詰められ、そこで妻子などと共に殺害されます。二人の因縁に決着がつきました。

これを見ても真備は、武器の作り方、大きな軍勢の動かし方など幅広い知識があり、書物で学んだだけではない、実践派の知識人であることが分かります。

 

吉備真備は、72歳で右大臣まで昇進し、計5代の天皇に仕えました。そして、宝亀6年(775年)81歳にて大往生をとげるのです。

因みに、遣唐使の時に、中国から囲碁を初めて持ち込んだということで、子供囲碁大会に吉備真備杯なるものがあります。

孝謙天皇は、淳仁天皇に譲位して、孝謙太上天皇となっていたのですが、淳仁天皇を、淡路島に送ります。そこで淳仁天皇は亡くなります。

孝謙太上天皇は、復位して称徳天皇となったのです。

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孝謙天皇称徳天皇

女帝が、2度も天皇となるのは極めて異例のことであると思います。

 

そして藤原仲麻呂です。悪役としてたびたび歴史上に登場します。「藤原仲麻呂の乱」についても仲麻呂は謀反人です。しかし『続日本紀』は、国家の正史で、勝者の歴史ですので、孝謙の正統性を強調する書き方となっています。

仲麻呂は、律令官僚制国家を目指し、仏教信仰に厚い人物です。また外交にも意欲的で、新羅に対峙するため渤海使節の派遣など、緊密に交流しました。

真備を太宰府に任命したのも、適材適所の人事と云えなくもないのです。

この人物についてはもっと知りたいと思っておりますが、最近よくテレビに登場する、明智光秀のように評価が分かれるところです。

天皇家、藤原家の登場人物の家系図です。

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以上、吉備真備の生涯は、時の権力者に翻弄されましたが、自分の信念を貫き通した立派な生涯であったと思います。