(続)東京国立博物館特別展「出雲と大和」

本題の特別展「出雲と大和」です。

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パンフレット

まず「巨大本殿出雲大社」というテーマで、巨大な本殿遺構が展示されてありました。

古事記』によりますが、出雲神殿は、国譲り神話によって誕生したのです。

天空を治める天照大神が、大国主大神に、出雲の地を返すよう求めました。大国主大神は、要求を認める代わりに1つの条件を出したのです。それが「天空にそびえる神殿を造って欲しい。」という事です。

具体的には「宮殿の柱を太く立て、立派な千木を差し上げてほしい」と言ったという事です。それこそが出雲大社です。

 

現在の御本殿の高さは、8丈(24メートル)で、「大社造」と呼ばれる日本最古の神社建築様式ですが、はるか昔は48mの高層神殿だったと想定されています。

その神殿を支えていた柱が、平成12年(2000年)出土したのですが、日本の考古学史上、突出した発見であったと云われています。

金輪御造営差図(かなわのぞうえいさしず)には、出雲大社の平面図が描かれていますが、これが出土されるまで本当に高層神殿があったのか、その真偽が問われていたのです。

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金輪御造営差図 鎌倉~室町時代・13~16世紀 島根・千家家蔵

この平面図には、3本の木が金具で固定され、合計9本の柱として使われていた様子が描かれています。

出土されるまでは、ある伝承でその大きさを伝えていました。

平安時代中期に編纂された児童向けの学習教養書『口遊』(くちずさみ)によりますと、平安時代の高層建築のベスト3を表記しております。第3位が京都平安京、第2位が奈良大仏殿そして第1位が出雲神殿なのです。

『口遊』の文中の雲太が出雲神殿、和二が奈良大仏殿、京三が京都平安京です。

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平安時代中期に編纂された児童向けの学習教養書『口遊』

3兄弟に例え、一番高い建物「出大社」

二番目は758年に建立した奈良大仏殿「大地方」

三番目は京都平安京大極殿「平安郎としています。

因みに奈良大仏殿は45mですから、それより高いことを伝えています。

48mには異論を唱える専門家もおりますが、高さ48mの神殿が古代にそびえていたかと思うと、当時の建築の技術力に驚かされます。

 今回の特別展に、中心の「心御柱」3本1組と「宇豆柱」3本1組が展示されておりました。

平成12年に、境内の地下1.3メートルから大型の本殿遺構が見つかりましたが、杉の大材3本を束ねてひとつの柱としたもので、本殿を構成する9ヶ所のうち3ヶ所で発掘が確認されました。そのうち中心に位置するのが「心御柱」、正面中央に位置するのが「宇豆柱」となっています。

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出土した宇豆柱。3本を金輪で束ねていたと考えられる。




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中心に位置するのが「心御柱」、正面中央に位置するのが「宇豆柱」となっています。

 

出土された後、柱材の科学分析調査などから、この柱は、鎌倉時代前半の宝治2年(1248年)に造営された本殿を支えていた柱である可能性が極めて高くなったという事です。

また、「出雲 古代祭祀の源流」のテーマでは、多数の銅鐸、銅剣、銅矛が展示されておりました。

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銅鐸 島根県雲南市 加茂岩倉遺跡出土 弥生時代・前2~前1世紀 文化庁蔵(島根県立古代出雲歴史博物館保管)

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銅鐸、銅剣、銅矛 島根県出雲市 荒神谷遺跡出土 弥生時代・前2~前1世紀 文化庁蔵(島根県立古代出雲歴史博物館保管)

この多数の展示を見て、青銅祭具の二つの文化圏、「銅鐸文化圏」と「銅剣銅矛文化圏」が交わる地域に出雲が入っていることを思い出しました。この二つの文化圏を大きく世に広めたのが、和辻哲郎氏です。

 

そして「大和 王権誕生の地」というテーマでは、大量出土された埴輪、三角縁神獣鏡などが展示されておりました。

 その中で、「七支刀」が目をひきました。

七支刀(しちしとう)は、奈良県天理市石上神宮に伝来した古代の鉄剣です。全長は74.8センチメートルで、6本の枝刃を持つ特異な形をしています。

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七支刀 古墳時代・4世紀 奈良・石上神宮

七支刀は、百済から倭王に「7つの枝(さや)をもつ刀」が献上された、という『日本書紀』の記述を裏付けるものです。『日本書紀』には七枝刀(ななつさやのたち)との記述があり、4世紀頃、倭に対し百済朝貢した際に献上されたものとされています。

剣身に金象嵌(ぞうがん)の銘文が表裏60余字記されており、実用的な武器としてではなく祭祀的な象徴として用いられたと考えられています。

当時の中国との関係を記す現存の文字史料の一つであり、好太王碑とともに4世紀の倭に関する貴重な資料です。

銘文の内容は、「百済王が倭王に贈った」との解釈が定説とされ、当時の背景に、高句麗の圧迫を受けていた百済が、倭との同盟を求め、贈られたとされています。

 

そして、「仏と政(まつりごと)」というテーマで多数の仏像たちが展示されておりました。

その中で、珍しい石仏の「浮彫伝薬師三尊像(うきぼりでんやくしさんぞんぞう)」がありました。

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浮彫伝薬師三尊像 飛鳥~奈良時代・7~8世紀 奈良・石位寺蔵

角に丸味のある三角形の砂岩に半肉彫りされた三尊仏で、我が国で残存する石仏の中では、最古級かつ最優美な石仏です。中心の薬師像は珍しい椅像です。

三輪山(みわやま)の麓に伝わった石仏で、遣唐使の時代、中国から伝わった造形をもとに造られたという事です。奈良時代以前の石仏は大変珍しく、風化せずにここまで残ったのは奇跡としか言いようがありません。

有名な大分県の摩崖仏、臼杵石仏は平安時代後期から鎌倉時代にかけて彫刻されたと言われています。

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大日如来像(臼杵石仏)

日本にこのような大きな石仏は珍しいと思いますが、石の国韓国では摩崖仏として多数見受けられます。

同じ時期の制作で、日本に影響を与えた百済系の石像が、百済の都の扶余(ぷよ)の近くにあります。実際に見てきましたが、瑞山(ソサン)の三尊摩崖仏で七世紀前半の制作です。

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崖の陰のせいか像容がよく残っています。

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韓国摩崖仏

中央に如来立像、左に半跏思惟像、右に菩薩立像が配置して、百済の微笑と云われ、見事な作品です。

 

最後に、法隆寺金堂壁画の複製陶板の展示がありました。複製技術も相当進歩しているようです。

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法隆寺金堂壁画の複製陶板(第一号壁)

 

以上、盛り沢山の展示の特別展「出雲と大和」のほんの一部の紹介でした。