以前、アイアンロードについて記述しましたが、ペイパーロード「紙の道」はどうなっているのでしょうか。
紙は、古代中国で生まれ、世界中に広がっていたと漠然と思っていましたが、紙の道もまたシルクロードが深く関わっています。
紙が発明されたのは、『後漢書』や『東観漢記』といった史書によると中国後漢時代です。宦官の蔡倫(さいりん)が105年に発明したと云われています。
湖南省の蔡倫は、樹皮、幣布(ぼろ布)、魚網を用いて紙を作る事を考案したのです。
しかし、前漢時代の紙が、新疆の「さまよえる湖」ロプノールに近い漢代の烽火(のろし)台跡から見つかり、同時に出土した木簡から紀元前49年と分かり、蔡倫の紙の発明より154年も前ということになります。
さらに、紀元前2世紀の前漢文帝、景帝の頃の古墳から紙片が出土したと云われています。
要は、紀元前の時代から、紙を作ろうとする試みがなされていましたが、蔡倫が、製紙法を改良、実用的な紙の製造普及に貢献したという事かと思います。
因みに紙の発明は、中国の四大発明(紙、羅針盤、火薬、活字印刷)の一つです。
そして、シルクロード沿いの砂漠地帯から有機物である紙の残片は、遺物として多く発掘されております。
紙の道は、中国に端を発し、東は朝鮮半島や日本に、そして西は砂漠地帯を通るユーラシア大陸のシルクロード沿いに伝播してきたことが分かります。
中国から東方への製紙法の伝播は、スムーズだったといえます。紙自体は、仏教の伝播とともに各地に広がります。
製紙法は、その完成後、速やかに中国全土に広がり、4世紀には朝鮮半島へ、そして610年に高句麗僧、曇微(どんちょう)が墨とともに日本に伝えたと『日本書紀』巻第二十二推古紀に記述があります。
日本最古の紙は、702年に製造されたもので、現在は奈良県の正倉院に保管されています。飛鳥時代大宝2年(702)の戸籍で、御野国半布里戸籍(みのこくんはにゅうりこせき)といって、美濃紙に書かれている物です。
飛鳥時代の美濃紙に書かれた戸籍が現存していることに驚きました。
紙が伝わった当初は、写経材料として使われていたため、日本の紙は、より完成度が高まっていったと考えられています。
そして西方への紙の伝搬です。
751年にタラス河畔(現在のキルギス領)の戦役で、中央アジアの覇権を巡って、唐とアッバース朝イスラム帝国が戦います。この戦いで、唐軍の捕虜の中に紙すき職人がいたとされます。その製紙技術によってイスラム帝国は、シルクロードの要衝サマルカンドに製紙工場を建設し、紙の西進が始まります。 これによって、中国の製紙法がイスラム圏から順次ヨーロッパ方面に伝播していったのです。
ヨ-ロッパ諸国の伝搬の年代を見ていくと、驚くほど遅く思えます。スペインは、12世紀、イタリア13世紀、フランス、ドイツで14世紀、イギリスに至っては15世紀です。
なぜ紀元前のギリシア、ローマ帝国から発展し、16世紀の植民地支配の時代を築けたのでしょうか。
西方の紙の歴史では、パピスル製の紙が、ギリシア・ローマ時代を経て、中世ヨーロッパまで使われ、ローマ時代以降は羊皮紙(パーチメント)も広く使われていたようです。
中国から製紙法が伝わり、紙の原料となる物が少なかったため、麻や綿で作られたボロ布を使った製紙法が発達します。
それだけでは需要に追いつけず、もっと広範囲な植物繊維が用いられるようになります。
15世紀に、グーテンベルクにより実用化された活版印刷術が普及すると紙の需要が一層増大します。
そして17世紀にオランダで、紙の原料の繊維をあまり鋭利でない鉄の刃ですりつぶす方法が発明され、紙の大量生産が実現したのです。
ヨーロッパに製紙法が入って来たのは12世紀と遅かったのですが、そこから宗教改革、ルネッサンス、産業革命と発展していったエポックとなるものは、15世紀のグーテンベルクの活版印刷の発明だったのではと思います。
それでは、紙のない時代に、人々は文字をどのように残し、後世に伝えていったのでしょうか。
身近で手に入りやすい材料に書き残したのですが、古代エジプトで使われていたことで有名なパピルス、前述の主にヨーロッパで使われていた羊皮紙(パーチメント)、主にメソポタミアで使われていました粘土板、そして中国、朝鮮半島、日本で書写材料として使われていた木簡、竹簡があります。
以上