三大大仏

日本の新型コロナの感染は、爆発的でないにせよ継続的に拡大方向に広がっていると感じます。

当初より、それぞれが、気をつけているのだと思いますが、感染力が強まっているような気さえし、米国も日本も医学、科学は、意外に脆いものだと感じます。

一刻も早く終息することを願います。

文化的なものは全て中止で、東京国立博物館も例外ではありません。

本来ならば、とっくに始まっている筈の、特別展「法隆寺金堂壁画と百済観音」は、しばらくの間、中断させていただきますとのことでしたが、一向に収束の兆しがみえず、とうとう中止の「お知らせ」となってしまいました。

https://horyujikondo2020.jp/index.html

また、聖徳太子が創建して1400年の四天王寺大阪市)が、初めてお堂や五重塔など全て閉鎖されました。

 

ここで、迫力ある日本の三大大仏を考えて気持ちだけでもすっきりしたいものです。

三大大仏とは、奈良大仏、鎌倉大仏とすぐ浮かぶのですが、もう一つの大仏については、直ぐには思い当たりません。

 

三大大仏の一つは、もちろん奈良大仏です。

先日のブログで、奈良大仏について疫病である天然痘流行が、当時の天皇聖武天皇による奈良大仏造営の発願のきっかけの一つとしましたが、本来の目的は、鎮護国家の思想にあります。

仏教には、国家を守護、安定させる力があるとする思想で、仏法によって国家の安泰を念願とすることです。

国家は、仏教を統制し、その統制の範囲内で仏教を保護育成します。

そして当時、疫病あるいは飢饉と重なったこともあり、仏教の力によって国王、国家を災害や外敵から守るということで、奈良の大仏は造営されたのです。

f:id:kumacare:20200412144857j:plain

奈良大仏(盧舎那仏


そして、もう一つの大仏は、鎌倉大仏です。

鎌倉大仏の建立目的は、一体何だったのでしょうか。これがあまり明確ではないのです。

それは、奈良大仏が勅命によって造営されたという明確な史料が多く残っているのに比べて、鎌倉大仏には、明確な史料があまりないのです。

ただ、鎌倉時代の歴史書吾妻鏡』には、真偽は不明ですが、奈良大仏を見た源頼朝が「鎌倉にも大仏が欲しい」と切望し、僧浄光が、民衆から資金を集めて建立されたと記載されています。

f:id:kumacare:20200412145030j:plain

絹本着色伝源頼朝像(神護寺蔵)

鎌倉時代の歴史の流れを振り返ってみます。

鎌倉幕府の初代将軍源頼朝は、鶴岡八幡宮を中心に町づくりを進めましたが、勢力範囲は東日本だけで、新興勢力に過ぎなかったのです。

京都を中心とする西日本は、朝廷が政治を行っていました。その中心人物が、後白河法皇です。第77代天皇を退いて出家しても、院政を行った最高実力者です。

f:id:kumacare:20200412145110j:plain

『天子摂関御影』より後白河院

頼朝は、この後白河法皇とお互いに協力し合うように、うまく立ち回ったのです。

後白河法皇は、仏教を厚く信仰し、1185年の奈良大仏の再建の開眼供養には、法皇自ら開眼を行っています。

頼朝の死後も三代将軍実朝が、朝廷の最高実力者である後鳥羽上皇と密な関係にあり、鎌倉幕府と朝廷は、争うことなく共存していたのです。

このように、鎌倉大仏造立の経緯は、初代将軍頼朝と三代将軍実朝が、朝廷と良好な関係を築き、政治と、朝廷と密接な仏教が、お互いに手を組んだからです。

そして、鎌倉幕府は、政治、軍事、神仏帰依の三位一体での発展を望んだため、大仏を鎌倉幕府の象徴として建立したのではないかと考えられるのです。

鎌倉幕府は、仏教の象徴を奈良の大仏に代わり、鎌倉の地に誕生させ、日本を治める権威を、鎌倉大仏にかけたと見られます。

つまり、鎌倉大仏建立の目的は、京都の朝廷に代わって天下を治めるという意思表示の「象徴」にしたかったというのが真相のようです。

 

しかし歴史は非情なもので、その後、実朝の子供がいなかったため、跡継ぎをめぐって争いが続きます。

実朝が甥の公暁により暗殺され、源頼茂の謀反から、朝廷と幕府の対立が決定的になり、承久の乱(1221年)が起こります。

f:id:kumacare:20200412145310j:plain

源頼朝家系図

その結果、武力に優る鎌倉幕府が勝利し、後鳥羽上皇流罪隠岐島へと追放されます。

この後、京都に六波羅探題がおかれ、武士によって朝廷が監視され、皇位継承者の決定も幕府が持つこととなります。

そして四代将軍に藤原頼経を迎え、鎌倉幕府は天下を手中にしたのです。

 

藤原頼経のときに、鎌倉大仏は、完成したと思われますが、発願から完成まで、途中木造から銅造に代わったなど10年以上はかかったと思われますが、その製作の経緯はどうだったのか、知りたいところです。

f:id:kumacare:20200412145446j:plain

高徳院銅造阿弥陀如来坐像 鎌倉大仏 中国宋風の極端な猫背の体型
f:id:kumacare:20200412145556j:plain
f:id:kumacare:20200412145611j:plain
鎌倉大仏の顔 鎌倉大仏の手前は大仏殿の柱を支えた礎石

 

鎌倉大仏が少し長くなりましたが、三大大仏のうち、残る1尊はというと奈良、鎌倉が抜きんでていて、すぐに浮かぶ大仏がでてこないのです。

 

豊臣秀吉が、1586年に奈良大仏に倣(なら)って、高さ19mの大仏の建立をしましたが、1596年に起きた慶長伏見地震により、開眼前に大仏は倒壊しました。

f:id:kumacare:20200412150107j:plain
f:id:kumacare:20200412150125j:plain
方広寺    大仏殿跡緑地(方広寺

方広寺は、豊臣秀吉が発願した大仏を安置するための寺として創建され、京都市東山区にある天台宗の寺院です。

 

またその後、秀頼が、奈良大仏を凌ぐ木造大仏を1612年に完成させましたが、これも1798年の雷による火災で灰燼に帰しました。

もし、これがどちらかでも残っていれば立派に三大大仏に入ることでしょう。

 

他に高岡大仏、岐阜大仏、福岡大仏、牛久大仏東京大仏など大きな大仏が多数ありますが、歴史、知名度、目的などにより、何れも適当ではありません。

従って、二大大仏として留めておくことが、穏当と思われますので、このへんで終わりとします。