東アジアの女帝

東アジアにおいて、女帝と呼ばれる皇帝は、どのような人がいたのでしょう。

中国では、則天武后朝鮮半島では、善徳女王、日本では持統天皇孝謙天皇などがおり、いずれも興味深いのですが、則天武后について少し調べてみます。

国史上唯一の女帝ということで、よく中国ドラマにも取り上げられ、武則天と云われることが多いようです。

f:id:kumacare:20200510072941j:plain

則天武后 中国では、彼女が皇帝として即位した事実を重視して「武則天」と呼ぶことが一般的です。

則天武后は、1400年前の7世紀唐の時代の女性ですが、その生涯は悪評にまみれています。

ライバルを陥れ、皇后の座を手に入れ権力を独占、自ら皇帝にまで昇りつめるという、評価はおおむね否定的です。

しかし最近の遺跡発掘などの調査により違う見方もあるようです。

637年14歳の時に、中国史上の名君の一人と云われる唐の第2代皇帝太宗(李世民)の後宮に入り、才人(妃嬪の最下層の地位、正五品)という側室の一人となります。

f:id:kumacare:20200510073129j:plain

唐太宗李世民台北国立故宮博物院所蔵)

太宗の崩御後、その息子の高宗の后妃となります。

30人以上の妃がいましたが、門閥の厳しい中、遂に嬪から皇后となったのです。655年32歳のときでした。

物語では正室の王皇后から皇后の座を奪うため、我が子(女児)を殺し、王皇后が毒殺したと訴えたのです。高宗は王皇后を廃して、則天武后を皇后とした、となっていますが真偽はどうでしょうか。

f:id:kumacare:20200510073213j:plain

高宗肖像画

その後、則天武后は、病弱な高宗に代わって「垂簾聴政」を行い、実権を握っていったのです。

高宗の亡くなった後は、息子の第4代皇帝中宗、そして第5代皇帝睿宗をたてます。

そして自ら皇帝になるため着々と準備を整えていったのです。

当時の中国は、もちろん男系の社会であり、それを打破するため仏教に求めました。

洛陽郊外に龍門石窟があります。仏教彫刻史上、雲岡石窟の後を受けた龍門石窟の造営が始まったのですが、北魏の時代からで唐の時代で全盛期を迎えます。

絶頂期の石窟が、675年に完成した「奉先寺洞」ですが、高宗の発願により、則天武后が相当額を寄進しています。

f:id:kumacare:20200510073344j:plain

雲崗石窟



f:id:kumacare:20200510073547j:plain
f:id:kumacare:20200510073607j:plain
龍門石窟「奉先寺洞」の盧舎那仏 雲岡石窟の粗い砂岩質と比較して、硬い緻密な橄欖岩質です。


そして、寵愛した怪僧薛懐義(せつかいぎ)らに仏教の経典「大雲経」に付会した文章を作らせ、「太后弥勒仏の下生なり,まさに唐に代わって帝位につくべし」と宣伝させたのです。

その時代の唐では、儒教道教、仏教の三大宗教がありました。

女性の地位の面では、儒教は男尊女卑の色合いが強く、ブッダは万人の平等を解かれていますから、仏教を選んだのだと思います。

また、龍門でキリスト教の遺跡が発見され、キリスト教をも許していたと思われます。

そしてキリスト教の壁画に見られるフレスコ画を取り入れている壁画も描かれています。

これも西方との交流で学んだのですが、外国の全く異なった文化でも排除せず、広い心で受け入れていたことが伺えます。

半世紀後にシルクロードから外国人がやってくる時代が訪れるのですが、則天武后は、既にこの時代に国際化の扉を開いていたことになります。

 

そして690年、ついに則天武后67歳の時に、自ら聖神と称して帝位に就きました。国号も唐から「周」と改め、さらに都を長安から洛陽に移します。

遷都は、10万世帯もの人々を無理やり移住させ洛陽に住まわせたようです。

なぜ長安を凌ぐ自分の都を作ることにこだわったのでしょうか。

南北と東西の中心は、本来的には洛陽で、平野部に繋がっていて物資の輸送に都合が良く、洛陽の優位性がうかがえます。

太宗は、突厥、西北の遊牧民など対外政策重視したことから、則天武后は、内政重視に転換したと思われます。

そして『旧唐書』(くとうじょ)、『新唐書』(しんとうじょ)、『資治通鑑』(しじつがん)などあらゆる歴史書に、則天武后の最も近くにいた女官で、側近中の側近である上官婉児(じょうかんえんじ)という女性がおります。

f:id:kumacare:20200510074148j:plain
f:id:kumacare:20200510074213j:plain
旧唐書』    『資治通鑑

2013年、西安空港の建設中に見つかった婉児の墓から発掘された俑に、彼女が政務に携わる際には男装していたことがわかっています。更に単独で埋葬されていることから「後宮の女性」としてではなく「高級官僚」として扱われていたことがうかがえます。

f:id:kumacare:20200510074307p:plain

上官婉児 (『百美新詠』)

このように、則天武后の時代は、信仰も芸術も自由に花開いていたのです。

女性も高級官僚に登用されるという、官僚の登用方針も男女区別なくしており、現代を先取りした女性も同等の権利を主張していたと思われます。

 

晩年の則天武后は、病床に臥せがちとなり、則天大聖皇帝の尊称を奉り引退しました。これにより中宗は復位し、国号も唐に戻ることになりましたが、705年に81歳で死去するまで、まさに波瀾万丈の生涯であったといえます。

 

しかしその後、唐の絶頂期と評価されている玄宗皇帝は、則天武后の墓室を建設間もなく破壊したようです。

女性が権力を握る事に反感をもって、自身の男性王族としての正当性を主張したかったのかもしれません。

ただ税制改革、節度使制の導入など玄宗の下で行ったのは、則天武后に見出された姚崇、宋璟の両宰相です。

その玄宗皇帝も、後半は楊貴妃に溺れ、安史の乱によって失脚、晩年は軟禁状態で余生を送りました。

ローマの歴史家クルチュウス=ルーフスの言葉「歴史は繰り返す」ということのようです。

 

中国三大悪女は、唐の則天武后、漢代の呂后、清代の西太后だそうですが、わりと近代の西太后についても調べてみたいと思います。光緒帝を毒殺したと云われていますが本当でしょうか。

f:id:kumacare:20200510074830j:plain

慈禧太后 晚年の真影

他に朝鮮半島新羅の善徳女王、真徳女王、そして日本では2度も天皇になった聖武天皇の娘、孝謙天皇が興味深いです。

f:id:kumacare:20200510074902j:plain

孝謙天皇

                         以上