運慶と快慶

日本のコロナ感染もやっと収束を迎えようとしております。まだまだ第2波,3波が怖いですが経済立て直しで、東京都も来週どこかで休業緩和に踏み切るようです。

我が家の、小学生二人との生活はどうなるでしょうか。

 

さて、今回は仏像の話に戻って、仏師として最も有名な、運慶と快慶の生き方を辿ってみます。

運慶と快慶は、平安時代末期から江戸時代の一派である慶派に属し活動した仏師です。慶派は南都(奈良)に拠点を置いた奈良仏師の系統です。

運慶と快慶とも天才仏師と云われますが、慶派率いる康慶の弟子です。しかし運慶の父親は康慶なので、二人の間には盟友であり、ライバルでもあるので微妙な関係だったのかと思います。

二人とも、生年を含め生い立ちがはっきり分かっておりません。ただ運慶の息子湛慶の年齢などから推察して、運慶は1150年代生まれ、快慶は、それより10歳程度年下かと思われます。

また運慶、快慶の肖像画などはありませんが、唯一運慶の坐像と思われるのが残っています。

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運慶の肖像とされる僧形像(六波羅蜜寺

運慶の現存する最古作は、1176年に完成した奈良・円成寺大日如来です。

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円成寺大日如来

若々しい面相と体躯には、新時代の気風と青年運慶の想念が伝わってくるようです。銘に「大仏師康慶実弟子運慶」とあります。この「実弟子」は「実子である弟子」の意と解釈されています。

その後運慶は、焼討にあった興福寺の修復を行い、また奈良仏師の正系である成朝に変わり、幕府関係の造像を担当しました。

運慶は、源頼朝の岳父北条時政が建てた静岡・願成就院の諸像を造ります。

阿弥陀如来像は、造形が清新で、平安末期の奈良仏師の作品の延長上にありますが、重量感あふれる雄大な体軀、そして奔放に乱れてうねる衣文の趣は、平安後期の作品とは隔絶したものです。

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静岡・願成就院阿弥陀如来

不動明王童子像、毘沙門天立像も平安後期の像にはみられない、腰高で運動感を強調した姿で、極めて新鮮な、しかも統一された新様式であり、ここに鎌倉時代彫刻が確かに成立しているのです。

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不動明王童子

そして、運慶、快慶二人の共同制作は、鎌倉幕府の国家プロジェクトとして行なわれた金剛力士像の修復です。

東大寺大仏殿に行くとき南大門から入りますが、そこには金剛力士像(仁王像)がおります。

南大門の左に開口の阿形(あぎょう)像、右に口を結んだ吽形(うんぎょう)像が向かい合う形で安置されています。(この安置方法は、通常の配置とは逆です。)

治承・寿永の乱において、平家の南都(奈良)焼討により東大寺興福寺が火災となり仏像など大きな被害に遭いました。

その奈良の復興に、東大寺南大門の仁王像の復興を任され、運慶、快慶の代表作となったのです。

1203年、運慶が率いる総勢20人以上の仏師が、仁王像の制作に取り掛かります。全体を取り仕切る総監督が運慶で、その補佐が快慶でした。

運慶と快慶が阿吽の呼吸で大作に挑んだのです。

高さ8m、重さ7tという巨大なものです。その造像技法が、平成の修復で判明しました。

多数のパーツから造られており、2体合わせて6102個ものパーツに分かれ、工房の仏師を総動員して分業で造られていることが分かりました。

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南大門金剛力士像(阿形像)

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南大門金剛力士像(吽形像)

運慶が、あらたな権力者である鎌倉幕府に近づき、平和を求めて成し遂げた執念の傑作です。

しかし激動の時代を生きていた二人は、その後決別するのです。

快慶は、鎌倉幕府に接近した運慶とたもとを分かち、全く異なる道を歩んでいったのです。

武士の世界になっても、飢饉や伝染病に苦しむ庶民の暮らしは変わらなかったので、快慶は、武士ではなく庶民に寄り添う道を選んだのです。

救いを願う庶民に寄り添い、持ち運びの出来る小ぶりな三尺前後の阿弥陀如来像を数多く作りました。

快慶の作品は、在銘の現存作も多いのですが、作風は安阿弥(あんなみ)様とよばれています。

運慶と違った繊細な美しさ、整った理知的な感じの作が多く、宋風の影響も受けています。京都市遣迎院阿弥陀如来立像、兵庫県浄土寺阿弥陀三尊立像、東大寺の僧形八幡(そうぎょうはちまん)神像、はその代表作です。

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京都市遣迎院 阿弥陀如来立像

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兵庫県浄土寺 阿弥陀三尊立像 左右脇侍は観音菩薩像・勢至菩薩

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東大寺の僧形八幡神像 像内の銘により1201年開眼

そして、運慶の晩年の作風が変わってきました。

最近の鑑定技術で、運慶作の可能性が高い興福寺中金堂の四天王立像、あるいは北円堂の無著菩薩立像、世親菩薩立像の写実的な表現の中に、憂いを漂わせていることが分かります。

晩年、世のいく末を案じていたかもしれません。

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無著菩薩立像

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世親菩薩立像

運慶は、死の直前に息子の湛慶(たんけい)を快慶に託しました。湛慶は、その後快慶からも技を学び、慶派仏師の名声が受け継がれていきました。

京都三十三間堂の国宝風神・雷神像は、運慶ゆずりの荒々しい作風であり、一方、三十三間堂の中央に祀られている本尊千手観音像は、快慶を思わせる優美な作風です。

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三十三間堂本尊千手観音像
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三十三間堂の国宝風神・雷神像

このように運慶と快慶のもつ技と心が、確かに受け継がれていったのです。

                              以上