「天平と令和重なる思い」として、先日新聞紙上に、奈良大学上野誠教授が登場していました。
昨年夏に「神話伝承論」のスクーリングを受講しましたが、先生の巧みな講義を思い起こされます。
そのときのスクーリングの様子です。
「神話伝承論」
https://kumacare.hatenablog.com/entry/2019/08/25/092337
この新聞記事は、今こそ読みたい「万葉集」として、インタビュー形式で書かれております。
万葉集の「初春の令月にして、気淑(よ)く、風和(やわら)ぎ」を典拠にした令和の2年目、新型コロナウイルスが感染拡大し、和(なご)やかならざるご時世となりました、で始まります。
元号は、新時代への祈りがあり、令嬢の令のように美しく、寛容の心で人々が和やかに暮らすのが令和の心、今こそ求められる精神です、と述べられています。
元号の典拠が万葉集になったのは、時代の必然と思われ、出典の万葉集の巻5「梅花宴序」が書かれたのは、天平2年、令和2年と重なります。
この天平期は、天下太平どころか、今と同じ疫病の時代です。
権力者である藤原4兄弟も疫病で死に、農民も貧窮、それは大変な時代であったからです。
そこで時の聖武天皇が平安を祈って建立したのが大仏で、万葉集もこの時代に形成されたのです。
そして、万葉集の疫病の記述は、
「壱岐島に至りて、雪連宅満の忽(たちま)ちに鬼病に遭ひて死去(みまか)りし」
とある巻15の鬼病はおそらく天然痘で、宅満は、難波を出航、新羅にたどり着く前、疫病に倒れ、「世の中は常かくのみ」世の中はいつもこんなもんさ、と言葉を残して死んでいったとあります。
雪連宅満(ゆきのむらじ やかまろ)とは、新羅へ行く遣新羅使の一員で、台風を乗り越え、太宰府に着きます。
ここで疫病にかかり、壱岐についた時、すでに病が重くなり、懐かしい故郷を見て息をひきとるのです。
天然痘は、大陸から壱岐、対馬を経由して太宰府、平城京の貴族の間で猖獗(しょうけつ)をきわめ、やがて感染は農民にも広がります。
それが作付面積の減少、飢餓にも発展、犠牲は甚大となったのです。
コロナ禍では、人の命と同時に、暮らしをいかに守るかが問われていますが、その構造は1300年前と変わっていないようです。
上野先生が、元号の典拠が万葉集になったのは、時代の必然と述べるのは、このようなことからだと思います。
また自粛が叫ばれますが、孤心を歌う万葉の名歌も紹介しております。
「うらうらに照れる春日にひばり上がり心悲しもひとりし思へば」
(一人いると悲しい。でも悲しいからこそ、ひばりが空に上がり、さえずる声が胸に響く。)
これを万葉集の編纂者、大伴家持が詠んだのは、大仏開眼供養の翌年753年です。
そして、万葉集が、疫病の惨状が詠まなかったのは、万葉集が歌で綴られたアルバム集成だからと述べています。
万葉の時代は、カメラはありませんから、刹那刹那に変わり、消えゆく心情を歌にとどめ、生命の息吹を残したのです、だから惨状を詠まれなかったのでしょうとのこと。
今も昔も困難な時代に言祝ぎ(ことほぎ:言葉を使って祝うこと)の気持ちは切実で、言祝ぎで大切なのは日本語の美しさです。ガミガミいがみ合うような日本語では、いい世の中にはなりません、とも述べています。
「磯城島(しきしま)の大和の国は言霊の助くる国ぞま幸(さき)くありこそ」
という柿本人麻呂歌集集にあるように、言葉の魂に国が助けられるには、いい言葉を使わねば。
法律も言葉、人を生かすも殺すも言葉なのですから、と結んでいます。
さすが万葉学者ですね。なるほどその通りだと思います。
昨年の平城宮の朱雀門の前で、万葉集ならぬ万葉宗の教祖よろしく朗々と、元明天皇のごとく詔を読み上げたことを思い出します。そのときのブログは以下です。
平城宮跡の見学(神話伝承論の続き)
https://kumacare.hatenablog.com/entry/2019/08/30/092246
おわり
追記
わたしの拙文をお褒めいただいた「奈良大学通信まよい鹿」の瓊花さん、ありがとうございます。
あなたのブログも拝見しております。かねがね才気あふれる短く、小気味よい面白い文章だなと思っておりました。生まれも育ちも住まいも奈良という訳で、わたしにとって難解な不明な語句がどんどん出てきますね。歴史などの分野にかなり詳しいかなと思います。特に西域関係は、わたしも好きな分野です。