秀吉のニュース

最近、秀吉のニュースが相次いでありました。

先月21日は、大阪市教育委員会による豊臣秀吉の木製坐像が発見されたとの発表でした。

大阪市旭区に所在する大宮神社で、江戸時代の制作とみられる秀吉像です。頭部の冠を欠失した状態で像高が80cmを超えるという、等身の大きな像で、全国的にも非常に貴重な発見です。

秀吉は没後「豊国大明神」の神号を贈られ、京都の豊国神社に神として祀られました。

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大宮神社豊臣秀吉坐像

額の三条の皺(しわ)、長くこめかみに及ぶ眉、彫出された三日月形の目などとともに、特徴のある容貌で、頭上の冠は失われています。

右手には笏(しゃく)などの持物をとっていたと考えられます。

 

そして、先月12日に、秀吉の最後の城と呼ばれる幻の「京都新城」が出土されたのです。

秀吉が死去する前年1597年に築いた「京都新城」の遺構とされる石垣と堀の跡が、京都御苑の一角で発掘したと京都市埋蔵文化財研究所が発表しました。

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京都新城発掘現場周辺地図

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京都新城の石垣

安土桃山時代の工法で、自然石を直線状に積み上げる「野面(のづら)積み」が採用されています。

新城に関する史料はほとんどなく、どのような建物だったかを示す物証もなかったため、専門家は極めて貴重な発見だとしています。

また、堀跡から豊臣家の家紋で、武家権威の象徴の桐紋の金箔瓦が見つかっており、聚楽第に匹敵するほどの豪華さだったと見られるという。

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金箔瓦

聚楽第は、秀吉の後継者として関白に就任した甥の秀次に譲渡されましたが、秀次が謀反の疑いで自害した1595年に破壊されました。

そして、秀吉が新たな後継者となる愛息の秀頼のために、聚楽第に匹敵する規模の新城を設けた可能性が想定できるという。

いわば秀頼政権のための「新・聚楽第」と思われます。

関ヶ原の戦い(1600年)の直前、京都新城は門や石垣が壊され、その後の仙洞御所の造営で姿を消したとみられています。

 

金箔瓦といえば、2年程前に駿府城で金箔瓦が出土されたとの報道がありました。

見つかったのは、金箔で装飾された瓦(金箔瓦)330点で、1590年に、豊臣秀吉が、子飼いの部下の中村一氏(かずうじ)という武将に築かせた城です。

当時、この城の天守台の上には、金箔瓦を使用した豪華絢爛な天守が建っていたと考えられるということでした。

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出土した金箔瓦の軒丸瓦

駿府城といえば家康と思っていましたが、最初は今川、武田、家康と移り、秀吉による家康の関東移封により豊臣系の中村一氏が入城、そして最後は隠居した家康の城と移っています。

 

それにしても、秀吉は本当に金が好きなのですね。

秀吉の黄金アイテムは、色々あります。金のヒョウタン、黄金の茶室、絢爛豪華な聚楽第大坂城などなど。

そして現存する金貨で、世界最大を誇るのが、豊臣秀吉が造らせた天正大判です。

当時の日本は、世界最大級の金産出国であったことで、秀吉の居城である大坂城は、金銀で溢れていたといわれています。

秀吉はその金を使い、彫金家として有名であった後藤四郎兵衛家に金貨を造らせたのですが、それが天正大判なのです。

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天正菱大判 造幣博物館蔵

秀吉は、自らの勢力を誇示したいがために、「太閤の金くばり」と云われていますが、1589年に聚楽第で、この天正大判4700枚をはじめ、金、銀をばら撒きます。

秀吉は国内安定、豊臣政権確立のため、戦略的に黄金を駆使したとも云われています。

日本の天下統一を果たした秀吉は、中国大明帝国の征服を目指し、遠征軍を立ち上げ朝鮮出兵したのです。

こうした文禄・慶長の役により手痛い敗北を喫し、豊臣家の財力も失われていったと思われます。

 

秀吉の死後、豊臣家は大坂夏の陣で家康によって滅ぼされてしまいますが、このとき、大坂城の焼け跡から、金子二万四千枚がみつかったといわれ、これらを含む莫大な金銀は、結局は家康のものとなるのです。

朝鮮出兵、京都大仏などで散財してもまだまだ豊臣家の財力はあったのですね。

 

秀吉に関することが、現在でも次々と報道されることにさすが太閤と思わせます。

                            おわり