9、10月の奈良行で寺院巡りを続けましたが、今回は鑑真和上の唐招提寺です。近鉄橿原線の西ノ京駅からすぐに薬師寺と唐招提寺という奈良を代表する大伽藍の寺があります。
再度の訪問ですが、先に唐招提寺を巡りました。いつも思うのですが、寺院を巡って後から行けなかった所とか見逃した所が必ずありますね、2度3度と見て初めて納得します。
唐招提寺(とうしょうだいじ )は、何といっても鑑真和上(がんじんわじょう)のお寺です。鑑真は、日本から唐に渡った僧・栄叡、普照らから戒律を日本へ伝えるよう懇請されます。鑑真は招きに応じ、航海6度目で、やっと日本に来ることが出来たのです。
この辺の物語を書いた『天平の甍(いらか)』は、井上靖の歴史小説であり映画化もされています。
西ノ京駅から10分ほどで南大門に着きます。
南大門から入ると直ぐに金堂があります。奈良時代建立の金堂としては現存唯一のもので、修理が重ねられて来ました。誰しもが、眼前に迫る金堂の荘厳な偉容に圧倒されます。豊かな量感と簡素な美しさを兼ね備えた天平様式です。
内陣には、中央に本尊の像高3mにおよぶ盧舎那仏(るしゃなぶつ)坐像、右に薬師如来立像、そして左に十一面千手観世音菩薩立像が居並び厳粛な空間を生み出しています。
吹き放しとなった堂正面には8本の太い円柱が並び、この建物の見所となっています。
金堂の右に、宝蔵とともに並んで建つ経蔵があります。高床式の校倉様式で経蔵のほうが一回り小さいのですが、唐招提寺で最も古い建造物で日本最古の校倉です。
そして、最も行きたかった鑑真和上御廟に向かいます。途中の苔庭が素晴らしく静寂を醸し出しております。
奈良の寺院の多数の伽藍は、長い期間をかけて修理が行われていますが、ここ唐招提寺も御影堂の大修理が行われています。天平時代の代表的な乾漆像の鑑真和上坐像が安置されています。
この像は、トーハクでも公開されましたが、中国に里帰りして揚州(鑑真の故郷)と北京で公開されたこともあります。
そして、開山堂に鑑真和上の身代わり像があります。1年の内6月5~7の三日間しか開扉しない国宝の和上像に代わって、2013年に制作されたものです。この像は、奈良時代の脱活乾漆技法を忠実に踏襲したものです。
奈良を「酷愛」する(極端に愛する)と言ったのは會津八一(1881~1956)です。美術史家で、書家、歌人の顔を持つ八一は、奈良の歌を数多く詠みました。
自筆の文字を刻んだ歌碑は、わたしが見ただけでも、春日大社、猿沢の池、東大寺、興福寺、新薬師寺といたるところにあります。
唐招提寺の境内にもありました。
おほてらの まろきはしらの つきかげを
つちにふみつつ ものをこそおもへ 會津八一
鑑真は、日本の戒律制度を整備し、唐招提寺を創建、晩年をここで過ごしました。日本への渡海を企図したのが743年です。
5度目の日本への渡航で、海南島に漂着、そして失明、それでも日本への渡航を諦めなかったのは何故なのでしょうか。所詮凡人は、偉人のこころを推し量れません。
754年に6回目の航海で屋久島に着きました。それから日本に10年程過ごしましたが、5年を東大寺で、残りの5年を唐招提寺で過され、天皇をはじめとする多くの人々に戒律を授けられました。
唐の高僧であり、日本の仏教会に多大な貢献をし、763年に死去、享年76歳、波乱の生涯を閉じました。
おわり