『天平の甍』と鑑真和上

 先10月に唐招提寺を巡って来ましたが、鑑真和上が、なぜ危険な航海を何度も試み、日本に来ようとしたか、その経緯を知りたくて井上靖氏の『天平の甍(いらか)』を読んでみました。

井上靖氏は、『西域物語』、『楼蘭』、『敦煌』などの西域の作品を数多く書いております。

天平の甍』は、遣唐使として大陸に渡り、高僧を招くという使命を受けた留学僧と鑑真との運命を描いた迫力と感動の物語でした。

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天平の甍』

 その大体のあらすじはこうです。

 朝廷で第9次遣唐使発遣が議せられたのは聖武天皇天平4年(732年)です。

興福寺の僧栄叡と大安寺の僧普照の二人が思いがけず、留学僧のとして渡唐することになりました。

栄叡(ようえい)は、大柄でいつも固い感じで一見すると40歳位に見えるが、まだ30歳をすぎたばかりです。普照(ふしょう)は、小柄で貧弱な体を持ち年齢も栄叡より2つ程若いです。

この二人で物語は進みますが、普照が主人公の書き方です。

 遣唐使船が出発するにあたり、二人の他に戒融、玄朗という二人の留学僧も加わりました。

 遣唐使船は四ヶ月をかけて中国大陸の蘇州に辿り着き、幾多の困難を越え洛陽についた二人は、玄昉や吉備真備そして阿倍仲麻呂など著名人と相次いで会います。この三人は遣唐使として717年に入唐していました。

 栄叡と普照が、鑑真の弟子道抗の紹介で揚州大明寺の鑑真に初めて会い、日本に戒律を正しく伝え教える人がいないので適当な伝戒の師の推薦を賜りたいと願いました。この時鑑真は55歳です。 

 鑑真は長屋王から千の袈裟を送られていたのを知っていて、「日本という国は仏法興隆に有縁の国である、誰か日本国に渡って戒法を伝える者はいないか」と弟子たちに聞きましたが、誰もいませんでした。

 そこで鑑真は、「たとえ渺漫たる滄海が隔てようと生命を惜しむべきであるまい。これは、仏教のためどうして命を惜しもうか。お前たちが行かないなら私が行くことにしよう」。こうして鑑真と17名の高弟が日本に渡ることが決まったのです。

 743年の第1回目渡航計画は、高麗僧如海の密告により失敗。鑑真56歳。当時、許可のない海外渡航は禁止されていました。

 同じ年の第2回目は、鑑真が八十貫の銭を費用に工面し渡航しましたが、難破して失敗に終わります。

744年の第3回目も密告され、栄叡が逮捕されます。  

第4回目も霊祐の密告により失敗。

748年の第5回目に渡航、60余人で出航しましたが14日間漂流して、辿り着いたのは南の海南島でした。鑑真61歳。

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東征伝絵巻 巻3第1段(南海へ押し流される鑑真一行)

 この島の大雲寺に仏殿を制作し、天宝8年(749年)を迎える4カ月過ごします。仏具、仏像、経典など日本への将来品を大雲寺に納めました。業行の膨大な写経の一部も。

 ここで栄叡が、ひどく体調を崩します。広州へ行って日本への船便を得ようとしましたが、虚しく亡くなります。享年47歳。

天平5年(733年)に入唐してから17年を経て、栄叡のひたむきな情熱が鑑真を動かしていたのです。

鑑真を日本に渡ることの主導的な役割を果たしたのが、行動人の栄叡です。普照は、鑑真を招くことに栄叡ほどの情熱も行動力も持たず、栄叡の熱意に引きずられていたような感じですが、結局、鑑真を伴って日本に帰ったのは普照でした。

 

この作品に登場する人物はユニークな人間が多いのです。

まず、戒融です。栄叡、普照とともに留学僧として遣唐使船に乗った人物です。長安から出奔して托鉢僧となり、放浪の旅を続けました。

普照に海路で天竺に渡り、帰途は玄奘三蔵の『大唐西域記』の道を辿って、唐に帰るつもりと云っています。

 そしてこの作品の最後に彼が登場し、渤海国を経て日本に帰って来たかもしれないことを暗示させています。

 同じく玄朗です。普照は、消息を八方に声をかけて捜します。6度目の航海の時に、普照の所に妻と二人の女児を連れて日本に帰りたいと現れます。「留学僧として唐土を踏んだが20年間何一つ喪に付けなかった」と。普照は手を尽くし乗船の許可を得るのですが、乗船の際姿を現わさなかったのです。唐土に着く前から弱音を吐き、意志薄弱な僧でしたが、結局、唐土に落ち着く結果となりました。

 そして、業行です。数十年にわたる在唐生活の間に、自分が幾ら勉強してもたいしたことが無いと悟り、一室に籠って沢山の経文の書写に明け暮れます。膨大な写経を日本に持って帰ることを生き甲斐としましたが、最後は運命のいたずらで、残念な結果となります。

それぞれの一生が、小説になるような生き方であったと思います。

 5度目の渡航に失敗した鑑真、普照はどうなったのでしょうか。

鑑真は63歳となって視力が急速に衰えていきます。普照は、「自分は一刻も早くここを去り、鑑真を官の庇護のもとに置かねばならない。」と思いました。

鑑真和上に、日本に帰るため船便を待ちたい、これ以上流離艱苦の生活を強いるべきではないと信じます、と別れを告げたのです。

 和上は、ひとまず揚州に帰り、再挙を図る以外仕方ないと云います。このとき普照は、40半ば、鑑真の弟子の思託は27歳でした。そして鑑真は失明します。

 鑑真の弟子、祥彦(しょうげん)は、「和上は栄叡の死後、渡日のことには一語も語られない。まだ日本へ渡ろうとしているのかどうか、その心の内部は我々には窺い知ることはできない。和上がなお日本へ渡ろうとするなら、悦んでお供する。」と云っていましたが他界してしまいます。

普照は、海南島の大雲寺に置いてきた業行の写経を、再び作成しようと書写に明け暮れ、業行の約束を果たそうとします。

 そうこうするうちに、20年ぶりに天平勝宝4年(752年)に第10次の遣唐使船が、秋に長安に来たのです。遣唐大使に藤原清河、遣唐副使の大伴古麿が任ぜられています。また、再び吉備真備藤原仲麻呂の謀略で副使として一行に加わっています。

 普照は、遣唐使船が遅くとも来年中には帰国するだろうと思いました。そこで、最も今までの鑑真との経緯を理解してくれた副使の大伴古麿に、鑑真を帰りの遣唐使船で連れ帰るよう懇願しました。大伴古麿は、理解を示し玄宗皇帝の許しも得ました。

 大使、副使3人が、鑑真に渡航の意思を尋ねたところ、鑑真は、「今度こそ日本国の船で本願を果たしたい。」との意思を伝えました。

玄宗皇帝から帰国の許しを得た阿倍仲麻呂も同行します。

 普照、鑑真、弟子の思託他14人の僧侶、同行者10人です。将来する仏像や経典類は想像を絶する膨大な量です。このとき鑑真は66歳です。

  そして遣唐使船は4船に分乗、鑑真と弟子14人は大使と阿倍仲麻呂の第1船、普照、業行は副使古麿の第2船です。

しかし、使節団の幹部から意見が出て鑑真らは下船、それを古麿が独断で第2船へと救ったのです。普照、業行は第2船の人数が多くなり、真備と一緒の第3船となり、15日夜半に4船出航します。

 この船割りが運命を決めることになったとは誰が予想したでしょうか。

天の原ふりさけ見れば春日なる
     三笠の山にいでし月かも

阿倍仲麻呂が歌ったのはこの夜のことでした。

普照、業行の乗った第3船(真備が副使として同乗)がいち早く六日目で阿古奈波(沖縄)に着きました。

第1,2船も翌日島に着き、唐語を解する者として普照は第2船に、業行は第1船に移りました。

 第2船は翌7日に益救島(屋久島)に寄港、それから暴風雨に見舞われ、20日薩摩国阿多郡秋妻屋浦(薩摩半島西南部の漁村)へ着いたのです。

そして筑紫太宰府に帰朝したことを正式に秦せられたのが正月11日のことです。

2月に普照は、鑑真の一行とともに難波に到着、河内の国で藤原仲麻呂が出迎えています。そして奈良の都に入ります。

 普照たちの第2船に少し遅れて、真備の第3船も薩摩の国に漂着しましたが、大使清河、阿倍仲麻呂の第1船そして第4船の消息は全く不明でした。

 この時の奈良の都は、玄昉、真備、行基藤原広嗣藤原仲麻呂がしのぎを削っていたのです。

真備、仲麻呂のこの辺りの争いは、幣ブログにて。

吉備真備(きびのまきび)の生涯

https://kumacare.hatenablog.com/entry/2020/01/29/154411

 鑑真、普照らは、伝燈大法師位を贈られます。そして、東大寺盧舎那仏の前に戒壇を立て、聖武天皇は壇に登り、鑑真および普照、法進、思託らを師証として菩薩戒を受けます。

太后孝謙天皇も登壇受戒、ついで僧四百三十余人が授戒し、これ以後三師七証による正式な受戒を経た者でなければ、政府公認の僧となることが出来なくなりました。

 その後に第4船の薩摩国に到着したとの連絡が入りました。第1船は、沖縄から出航直後に座礁し、その後暴風雨に遭い、南方へ漂流し、何と安南(現在のベトナム中部)に漂着します。

現地民の襲撃に遭い殆どが客死する中、清河と仲麻呂らは755年に長安に帰還し、その後は唐に仕えます。

しかし清河と仲麻呂の二人とも2度と故国に帰ることは無かったのです。生存者の中に業行はいませんでした。

鑑真が予定通り第1船に乗船していた場合、普照と業行が入れ替わっていなければと考えると、運命のいたずらと云うには、余りにも残酷すぎます。

 

 この清河、阿倍仲麻呂の生存の報が日本に伝わるのは安史の乱などで混乱し、4年の歳月がかかりました。阿倍仲麻呂長安に戻ったころ、奈良では、東大寺大仏院の西に戒壇院が落成しています。

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戒壇

 戒壇院は、戒壇堂・講堂・僧坊・廻廊などを備えていましたが、江戸時代までに3度火災で焼失、戒壇堂と千手堂だけが復興されました。

 そして天平勝宝7年(755年)、鑑真は西京の新田部親王の旧地を賜り、天皇より「唐招提寺」の勅額を賜って山門に懸けました。

最後に、小説『天平の甍』の題名の由来が語られます。

 天平宝字2年渤海国に送った使小野国田守が帰朝して先ほどの清河、仲麻呂ともに唐朝に仕えているという報をもたらすと共に、一個の甍を普照のために持って帰国したのです。

あて名は日本の僧普照となっており、それが唐から渤海を経て日本へ送られてきたのですが、それを託した人物がいかなる者か判りません。

甍は鴟尾(しび)であり、普照は送り主や理由は分からなかったのですが、唐様の鴟尾は、唐招提寺に使われたのです。

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唐招提寺金堂

 鑑真が寂したのは、唐招提寺ができてから4年目の天平宝字7年の5月でした。鑑真は結跏趺坐して寂しました。享年76歳。

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弟子の忍基の鑑真の彫像(脱活乾漆像) 

 主人公の普照の没年は不明です。

 鑑真の仏法を守る、仏の教えを広めたいという純粋な一念から、弟子が行かないのならわたしが行くと、凡人には理解できない、何度も失敗しても、目が見えなくなっても、日本に行くことを止めなかったのではないかと、わたしはこの『天平の甍』を読んで強く感じるのです。

 6回目となる鑑真と普照の出発する際のやりとりは、涙なしには読めないほど感動しました。

 玄宗皇帝が道教を重んじ、それで鑑真は日本への渡航を決意した、あるいは、聖武天皇の権威を強化するため、則天武后が菩薩戒を受けて皇帝の正当性を主張したように、これに倣って菩薩戒(君主が権威をまとう重要な戒律)を受けたかったなど、どうでもよい理由ではないかと思わせるほど、深く心に余韻が残る作品でした。

 因みに、宝亀10年(779年)、淡海三船天智天皇の玄孫)により鑑真の伝記『唐大和上東征伝』が記され、鑑真の事績を知る貴重な史料となっています。

これは、鑑真とともに来日し、最後まで鑑真の秘書として付き添った思託から聞いて著したものです。

長くなりましたが、終わりとします。有難うございました。