玄奘三蔵の『大唐西域記』

  玄奘三蔵法師という人物に、以前から大変興味があったのですが、去年の秋、薬師寺の隣にある玄奘三蔵伽藍を拝見しました。

そして、玄奘は、なぜインドをめざしたのか、そのルート、膨大な旅費、サンスクリット語など言葉の問題、当時の各国の状況、そして地図、コンパスなど無い時代にルートをどのように知ったか、などなど疑問だらけです。

大唐西域記』について少し調べてみようかと思います。

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玄奘三蔵法師(東京国立博物館蔵 鎌倉時代重文)

 玄奘三蔵は、聖徳太子が摂政になった頃の602年に生まれました。早くに両親を亡くし11歳のときに、兄を頼って当時の都、洛陽の浄土寺で学び始め、13歳で正式な僧侶となります。

 ここで最初の疑問ですが、「玄奘はなぜインドをめざしたのか。」ということです。

当時の中国には、法常、僧弁という大小二乗を学び究めた二人の高僧がおり、玄奘も二僧に従って研究しました。しかし、二人の高僧を越え、中国中のあらゆる経典を学び尽くすと、中国での学問に限界を感じます。仏教の発祥の地インドへ行って、もっと詳しく学びたいと思うようになりインドへの旅を決意したのです。

 しかし、当時の中国は、隋から唐への代替わりの混乱の時代で出国の許可がおりません。止むを得ず、28歳のときに国の法を犯しインドへと密出国という苦難の旅へ出かけます。

 こうして627年に、玄奘長安から、以後17年におよぶ壮大な旅に出発したのです。日本では大化の改新の前の頃です。

以前、ブログに書きましたが、大谷探検隊シルクロード踏査、河口慧海チベット潜入したときから何と、遡ること千年もの前の時代です。

 それでは、玄奘三蔵の辿ったインドへの往復の旅のルートはどのようなものだったのでしょう。

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玄奘紀行略図

長安から出発し会洲、沙洲(敦煌)からタクラマカン砂漠の北、天山山脈の南路に入ります。現在の新疆ウイグル自治区伊州(クルム)そして高昌国(現在のトルファン)へと進みます。そしてカラシャール、クチャから当時の西突厥の方へ千泉、タシケントサマルカンドを経由しています。

 それから中央アジアを通過し、現在のアフガニスタンパキスタン、さらにチベットからインドを巡って、各地の王や僧侶と共に学び、膨大な経典や仏像を持ち帰ったのです。

 復路のシルクロードのルートは、往路の天山南路と異なり、中国の西の端タシクルガンから民族の十字路カシュガル、そしてタクラカン砂漠の北側の「西域南道」を通り、ニヤ、敦煌から長安に戻っています。

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玄奘紀行詳細図

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玄奘出発の頃の中央アジア

 玄奘三蔵の目的は、出来る限りたくさんの原典を持ち帰って翻訳しようとしたのです。17年を費やしてインドから唐の都長安に戻った時に、携えていたのは、675部という大量の経典でした。

そして、玄奘は持ち帰った経巻の訳業を皇帝の太宗に願い出たのですが、これには理由があります。国家事業として行えば、支配者が仏教徒であるなしに関わらず公式なものとなります。

 また、とても国で行わなければならないほど膨大の量で、訳経には膨大な紙をはじめとする文房具、場所と人員などの費用がかかります。これを成し遂げるためには政府の絶大な援助が必要だったのです。

 玄奘の帰国後、高句麗遠征中の時の支配者、太宗皇帝は、玄奘と会い、この僧侶の冷静さと現地経験と情報量に驚きます。これをもってすれば、周辺諸国とのこれからの外交に使えると思ったのに違いありません。

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唐太宗李世民台北国立故宮博物院所蔵)

 こうして、訳経の事業を許可するに当たって西域の詳細な報告書を提出するよう命じ、編纂された報告書が『大唐西域記』なのです。

実際には、玄奘三蔵がインド周辺の見聞を口述し、弟子の弁機がそれを筆録したものです。646年に成立し全12巻のものです。

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大唐西域記

 この『大唐西域記』の内容は多岐にわたります。中央アジアとインドの全域をカバーし各地を国別に列挙し、その領域、気象、風俗、言語、文字、貨幣、支配者、仏教、(寺院、遺跡、伝説)そのほかの宗教などを順次記録しています。

 「西域(さいいき)」とは、インドを含め中央アジアから西アジア、ローマを含めることもありますが、中国の人たちから見て、西方にある国々を呼んだ総称です。

 中国の当時の状況はどうだったのでしょう。

626年に即位した唐朝の第2代皇帝太宗は、まず天山山脈の北側の草原地帯にいた西突厥と親和な関係を結びつつ、脅威であった東突厥を平定しました。

そして、強力な統一国家を形成していたチベット王国(吐蕃)とも親和関係を結び、タリム盆地の北東、トルファン盆地の漢人の高昌国を640年に滅ぼしています。唐がさらに西へ勢力を伸ばし、中央アジアへ進出する足掛かりをつくっていたのです。

 玄奘三蔵は、インド行きの途中、滅亡以前の高昌国で歓待されています。高昌国王「麹文泰」(きくぶんたい)は仏教を厚く信じておりました。

 麹文泰は、玄奘が高昌に留まって自分の先生になるよう要請しましたが、玄奘が受けるはずもありません。決意の固いことを知った麹文泰は、インドからの帰り道に立ち寄って3年留まることを約束させました。

 そして玄奘の出発に際して、衣類、旅費黄金100両他、世話をする人4人、人足25人、馬30頭などの旅装を整えます。更に通過するクチャなど24国の王宛てに手紙と綾絹などの贈り物を持たせ玄奘のために、全面的援助を依頼しています。

 このように、インドへの旅の成功は、高昌国王が多大な貢献をしています。

 最初に、旅費などはどうしていたかと云うのが疑問でしたが、この高昌国のような好待遇の国もあれば、行く先々で仏教を信仰している国もあり、仏の教えを説教したお礼やお布施などに、たよっていたと思われます。

 高昌国については、玄奘がインドから帰るときは、前述した通り太宗によって滅びていました。シルクロードには、三つのル-トがあります。天山山脈を挟んで、天山北路、天山南路、そしてタクラマカン砂漠の北側の西域南道です。

 玄奘は、往きは、高昌国のある天山南路を通ったのですが、なぜか帰りは西域南道を通っています。あれ程帰りは立ち寄ると約束したのですが。

玄奘は、高昌国が唐に滅ぼされていたのを知っていたのでしょうか、あるいは一刻も早く長安に帰り、経典の翻訳をしたかったのでしょうか。当時のこれらの地域の情報は、シルクロードの往来が頻繁のため、予想以上に広まっていたと考えられます。

 わたしは、この玄奘の往復のルートで、帰りのタシクルガンからカシュガルのルートを経験しております。北京からウルムチそしてカシュガルまで飛行機で行き、そこからタシクルガンまでのバスの旅をしたのです。

このあいだに、ブロン湖、カラクリ湖と絶景の湖があり、玄奘もこれを見たかと思うと感無量の気持ちがします。

 長くなりましたので、インドのナーランダーへの旅は後日、新らためてさせて戴きます。

最後に参考図書です。

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参考図書

                          おわり