土方歳三の生き方

 先日、東京都日野市の高幡不動尊金剛寺、石田寺と寺巡りをして来ましたが、何れも土方歳三に関係するお寺です。

土方歳三と云えば、幕末期に新選組副長として、局長近藤勇の右腕として組織を支え、戊辰戦争で各地を転戦し、最後の戦場になった箱館五稜郭にて戦死したという凄まじい生き方をした人です。

もう少し詳しい土方歳三についての歴史を調べてみる気になります。

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土方歳三箱館戦争時の肖像写真


 新選組の時の土方歳三の像と近藤勇土方歳三顕彰碑は、高幡不動尊金剛寺の山門の直ぐ左の場所にあります。

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高幡不動にある土方歳三

 

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隣に並ぶ近藤勇土方歳三 顕彰碑


 土方歳三は、天保6年(1835年) 武州多摩郡日野宿石田村(現東京都日野市石田)の豪農の生まれで青年時代は、家業の農業、薬製造を手伝いながら、近藤周助について剣術の天然理心流を学び、近藤勇沖田総司らと知り合います。

 文久3年(1863年)、近藤勇らと共に上洛し、浪士組に参加します。浪士組は、将軍徳川家茂上洛にあたり警備の目的で集められた浪士集団です。

その後、新選組を結成し近藤が局長、土方が副長となり京都の治安維持に努め、池田屋に潜伏していた長州藩土佐藩などの尊王攘夷派志士を襲撃した池田屋事件などが起こっています。

 慶応3年1867年に15代将軍・慶喜が将軍を辞して、大政奉還、王政復古の号が下り、翌年、鳥羽伏見の戦いが勃発し、新選組を指揮して戦いますが敗退します。

その後、勝沼、宇都宮、会津と転戦し仙台で榎本武揚の率いる幕府艦隊と合流しました。そして、北海道に渡り箱館政府設立に参加し、土方は陸軍奉行並に選任されます。

明治2年(1869年)官軍の攻撃が始まり、土方は弁天砲台に孤立した味方を助ける途中に流弾に倒れ無念の死を遂げました。

 土方歳三の生涯は、ざっとこのようなに戦いの連続でしたが、潔さを感じる一生でした。

近藤勇は慶応4年1868年5月に板橋刑場で斬首されています。

 

 土方歳三は、のちの洋装の写真や舶来の懐中時計を持っていた事などから、良いものはすぐに取り入れるなど合理主義者であったと思われます。

また、戊辰戦争において、宇都宮城を陥落させますが、このときに率いていた銃で武装した銃兵を土方は見事に指揮しています。

その後、会津から東北各地を転戦するうちに勝利を重ねるなど、西洋軍学にも理解を示して実践し、成果を上げています。

 このように自ら実践して新しいものを取り入れていくという柔軟な頭脳も持っていたのではないでしょうか。

 土方の一生のうち、最も関わりをもった人物として、近藤勇とともに榎本武揚が挙げられます。この榎本武揚もまた波乱万丈な生き方をしております。

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榎本武揚

 榎本武揚は、天保7年( 1836年)に江戸で生まれ、昌平坂学問所長崎海軍伝習所で学んだほかジョン万次郎の私塾で英語を学ぶなどします。

そして、幕府の開陽丸発注に伴い1862年にオランダへ留学し、砲術や造船術などを学んでいます。

 帰国後、幕府海軍の指揮官となり、戊辰戦争では旧幕府軍を率いて蝦夷地を占領、「蝦夷共和国」の総裁となります。箱館戦争で敗北し降伏、東京の牢獄に2年半投獄されました。

戊辰戦争を戦った 土方歳三とは、仙台において合流して、土方と榎本は蝦夷地に渡り、戊辰戦争最後の戦いである箱館戦争において共闘することになったのです。

 

 投獄された榎本武揚は、敵将・黒田清隆により助命され、釈放後、明治政府に仕えることになります。

北海道開拓使、駐露特命全権公使を努めたあと、内閣制度開始後に、逓信大臣、外務大臣などを歴任し子爵となっています。

 

 話しは土方歳三に戻りますが、高幡不動尊金剛寺の近くに石田寺(せきでんじ)という同じ真言宗の寺院がありますが、土方歳三墓所がある小さなお寺です。

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石田寺山門

 お寺まで行くところの道すがら「土方」の表札を掲げる家が多くありますが、石田寺にあるお墓も殆どが土方姓のお墓でした。

 
 石田寺のカヤの大木は、枝ぶりも見事で樹齢400年以上と推定されています。

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石田寺のカヤの大木

 そして、このカヤの大木の直ぐ近くに、土方の碑と墓所があります。

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土方歳三義豊の碑 義豊は諱(いみな)

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土方歳三義豊の碑の横にある墓所を示す碑

 

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土方歳三義豊の墓

 新選組の主だった人は、局長近藤勇土方歳三ともに享年35歳、初代局長芹沢鴨、暗殺32歳、総長山南敬助、脱走により切腹32歳、沖田総司、病死24歳と、全て若くしてこの世を去っています。時代の波に翻弄されたとも云えます。

 土方歳三の木刀の柄頭に、「義」の文字が彫られていますが、まさに土方歳三は、義のために生きた、義のために一生を捧げた生き方をした魅力ある人物であったと思われます。

                           おわり