五百羅漢寺

 東京は緊急事態宣言が継続中ですが、トーハクは開館されました。特別展の「鳥獣戯画のすべて」も6/20まで延長され賑わっているようです。

 わたしも久しぶりに目黒区の寺院にて参拝してきました。JR目黒駅から近い大圓寺五百羅漢寺です。目黒区は、東京都の中でも寺院が多いようです。

 天恩山  五百羅漢寺は、浄土宗系単立の寺院で、創建は元禄8年(1695年)のことです。開基は江戸時代前期の松雲元慶(しょううんげんけい)という京都の僧で仏師でもあります。

五百羅漢像は、当初の本所時代に松雲元慶が五代将軍綱吉の生母桂昌院らの寄進をえて独力で彫り上げ完成させたもので、明治時代に本所から現在地に移転しました。

寺院と云っても都会の中ですので、境内が鉄筋コンクリートのビル内で少し趣が異なります。

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天恩山  五百羅漢寺

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五百羅漢寺入口


 本堂、阿弥陀堂、羅漢堂、聖法堂などが全てビル内に納められていますが、その中身は奈良にも京都にもない素晴らしいものです。

まず本堂の大雄殿ですが、本尊は釈迦如来像です。釈迦如来とその弟子である羅漢たちが一堂に会して説法する光景が再現されており、お経が流れています。

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大雄殿

 中央に本尊の丈六の釈迦如来像が坐り、両脇に立つのは摩訶葉尊者、阿難陀尊者です。その前に四体の菩薩像が安置されています。観世音菩薩、文殊菩薩普賢菩薩地蔵菩薩が並んでいます。

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                本堂内部

 

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          本尊 釈迦如来

 

 その他、釈迦如来を取り囲むように十大弟子十六羅漢、五百羅漢さんたちが安置されており200体くらいあるでしょうか、圧倒されます。また、この釈迦如来像は、珍しいことに手に一輪の花を持っています。これを「拈華微笑の釈迦牟尼仏」と云うそうです。

 

 そして、本堂に納めきれない146体の羅漢像を安置するのが回廊を兼ねたコの字型の羅漢堂です。

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羅漢堂

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羅漢堂内部

 羅漢像は、座高80~90cm前後のヒノキ材の寄木造で、各像の表情、ポーズなどはすべて異なり、彫刻としての価値だけではなく、「木造の羅漢像」が一堂に300体以上も残っていることが奇跡です。東京に江戸の文化財は殆ど残っていません。廃仏毀釈もあったであろうし、関東大震災東京大空襲などによって焼けてしまったからです。

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右・特大医尊者 左・普荘厳尊者

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慧作尊者

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金剛破魔尊者

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雷徳尊者


 羅漢堂の出口付近に異形の神獣が待ち構えています。「獏王像」です。これも松雲元慶の作ですが、異彩を放ってその姿に驚かされます。

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「獏王像」 松雲元慶禅師 作 

 もとは、大雄殿の須弥壇の後ろに「護法神」として安置されていたと云います。この神獣は、本堂で再現されています釈迦の説法会を密かに守護する存在だったのです。

獏は、人間の悪い夢を食べ、善い夢を与えてくれる動物であると云い伝えられていますが、この獏王は、人面牛身虎尾です。その奇怪な風貌は、額と腹の両側に各三個ずつ、計九個の眼が輝いています。
 喜多村信節が江戸時代後期の風俗習慣などについて書いた随筆『嬉遊笑覧』には「白沢は獏なり」とあります。白沢といえば、森羅万象に通じた聖獣、病魔除けの聖獣として崇められてきましたが、これは本堂に安置するのが良いと思います。 

 

 五百羅漢寺を創建するという大偉業を成し遂げた松雲元慶は、単独で十六羅漢像、五百羅漢像を開山後もひたすら彫り続け、元禄10年(1697)には彫り終わりました。そして釈迦十大弟子、十一面観音、延命地蔵、獏王像など膨大な量の仏像を彫り仏像造立にその生涯を捧げたのです。

 

 本堂の横に「碑のこみち」があって歌碑など興味深いものが並んでいます。

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大雄殿と再起地蔵尊 右奥に「碑のこみち」

 お鯉観音は、お鯉さんの華麗で波乱万丈な経歴と人徳から慕われてきました。

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お鯉観音

 お鯉さんは、美貌の名物芸者から、政治家桂太郎の愛妾になり総理官邸に住み、桂が生涯を閉じた後、出家して「妙照」と改め尼僧となったという異色の女性です。

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お鯉さん(安藤妙照)

 五百羅漢寺は、廃仏毀釈関東大震災などで大破し、昭和の初めには、住職もいない荒れ寺となっていたのですが、この様子を見て五百羅漢寺の再興を決意し住職となったのです。

お鯉さん(安藤妙照)は、五百羅漢寺の再興のために托鉢行脚に精進し再建、復興に努力したという物語があります。

 高浜虚子の句碑もありますが、俳句界の巨匠高浜虚子も安藤妙照と親交があり、しばしば五百羅漢寺に足を運んだということです。

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句碑 遠きゆかりと 伏し拝む 虚子 

 小説・随筆家平山盧江の歌碑もあります。

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歌碑 このあたり いつも二人で歩いたところ 思ひ出しては まはりみち 盧江

 他に、五百羅漢寺を創設した松雪元慶禅師の顕彰塔、徳川吉宗の御腰掛け石、子育て地蔵菩薩、天恩供養塔など数多くあり文化寺としても知られてきたようです。

 

 そして、驚いたことに五百羅漢寺が荒れ寺となる前のことですが、河口慧海五百羅漢寺の住職となっています。

河口慧海については、以前ブログに経典を求めたチベット探検を書いておりますが、ここに登場するとは思ってもいませんでした。

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河口慧海

 河口慧海は、明治21年(1888)に23歳のとき、郷里の堺市から苦学を決意して上京しました。定次郎(慧海の幼少名)は、五百羅漢寺の寄宿生となり哲学館(現東洋大学)に通学するのですが、明治23年に住職の海野希禅から得度(仏教における僧侶となるための出家の儀式)を受け、慧海仁広となります。

 そして、海野希禅が突然引退し慧海は25歳の若さで五百羅漢寺の住職となったのです。しかし、仏教経典に専念したいという慧海は、翌年には住職を辞し、研究に没頭します。

研究を続けるうち中国で翻訳された漢訳経典の限界に気づき、サンスクリット語の仏教原典に近いチベット語の経典を手に入れたいという一心からチベットを目指したのです。この後の慧海の『チベット旅行記』について興味ある方は幣ブログで。

河口慧海のチベット探検 - クマケア治療院日記 (hatenablog.com)

 

 このように、この五百羅漢寺は、松雪元慶禅師、お鯉さん、河口慧海と波乱にとんだドラマがある寺院なのです。

  また、世田谷区の世田谷山観音寺には、五百羅漢寺から流出した羅漢像9体が所蔵されているそうなので、何れ参拝に行こうかと思います。

 参考文献は、天恩山 五百羅漢寺発行の『らかんさんのことば』です。

最後に五百羅漢寺御朱印です。

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                             おわり