対馬藩の国書偽造

 最近、財務省の公文書改竄問題などがありますが、今回は、中世の日朝交流の際の国書偽造の話しです。対馬藩が行った歴史の汚点とも云うべき事件で、徳川家康の国書を偽造して家光の時代に発覚したものです。

 長崎県対馬は、韓国からわずか50キロの国境の島です。対馬については、2年前に歴史などをブログに書いております。

古代から大陸の窓口「対馬」 - クマケア治療院日記 (hatenablog.com)

 対馬藩は、日朝の板挟みとなった立場には同情すべき点もありますが、国のため、事を荒立てないという理屈をつけて公文書をないがしろにする姿勢は、決して許されるものではありません。

この辺の経緯が、ズバリ『国書偽造』というタイトルの本があったので読んでみました。時代小説はあまり読んでいませんが、江戸時代の上下関係のしきたりや作法などが細かく描かれてよく分かります。

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『国書偽造』

 あらすじは、対馬藩の家老柳川調興(やながわしげおき)を中心に書かれています。実際に偽造したのは調興の実父の時代ですが、この調興こそが家老の身でありながら、また実父対馬藩家老の柳川智永(としなが)や前藩主らが改竄したにもかかわらず国書偽造を幕府に直訴し、藩主宗家の義成(よしなり)と対立するのです。

 登場人物は、三代将軍家光の時代で裁定する幕府側は、知恵伊豆こと松平伊豆守信綱はじめ老中の土井利勝酒井忠勝などです。対馬藩主側は、藩主宗義成、僧の規伯玄方(きはくげんぼう)らです。

 物語の発端は、豊臣秀吉朝鮮出兵で、対馬藩が、今まで日朝の交易を一手に引き受けて藩の財政を支えてきたのが一気にくずれたのです。朝鮮とは争いたくない対馬藩でしたが、時の流れに逆らえず、朝鮮上陸の第一陣の先鋒に、義成の父、対馬島宗義智が命ぜられます。結局、秀吉の死で朝鮮の役は、終結します。

その後、朝鮮と修好回復しましたが、対馬が生きるのは、対朝交易を蘇生させねばなりません。耕地に乏しく自給自足できない島にとって、朝鮮との通交は生命線だったのです。

 朝鮮王朝は、通商条約を結ぶための条件として、第一にこの朝鮮の役の折、日本に強制連行された被虜人の返還、第二に朝鮮王の陵墓を荒らした墓盗人を捕らえる事、そして第三、新たな日本の統治者となった徳川家康に朝鮮王への詫び状を書かせよという事です。

第一は、二千人かき集め、第二は盗人をでっちあげて形を整え何とか成功します。難題は第三です。

徳川家の大御所が詫び状を書く筈はなく、事実徳川は、朝鮮出兵に反対し一兵たりとも玄界灘を渡っていません。そこで国書偽造が行われたのです。

朝鮮王朝の求めに応じ大権現徳川家康公の謝罪の国書を偽造して朝鮮に示し、日本側がへりくだって修好を求めてきたように装います。

そして朝鮮国王使が来日すると、今度は朝鮮の国書をつじつまが合うように改竄したのです。

 物語は、代が替わって三代将軍家光の時代に偽造が発覚するのですが、実はそのような事は、秀吉の時代、その前の室町時代から続いていました。1990年代に国書偽造、偽使派遣の決定的な物証が見つかっています。

 宗家が旧蔵していた印章37点で、架空の名義のほか実在する守護大名、そして室町将軍や朝鮮王朝の印まで揃えています。現在、九州国立博物館の文化交流展示室では、対馬宗家文書の展示コーナーを常設しています。

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朝鮮国王の外交文書用印鑑「爲政以徳」の偽造木印。

 豊臣秀吉に宛てた国書(1590年)に押された印影と、朱の成分まで完全に一致していたことから判明しました。

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 室町将軍の印「徳有鄰」(偽造木印)4顆

足利将軍の名義の遣朝鮮国書に捺される「徳有鄰」が4つも含まれることが朝鮮に渡ったことを示します。

 

 話しは物語に戻って、偽造が発覚したのは、対馬藩家老柳川調興寛永元年(1624)の朝鮮国書の偽造印と日本国書の原本を、御公儀に差し出したときから始まります。

その動機は、宗家を捨て御公儀に直に仕官し、直臣の旗本になりたいという思いでした。戦国、秀吉の世の中から徳川家の家康、秀忠、家光と繋いでやっと世の中が安定していった時代であったのですが、調興の父親の智永もまた家康の国書偽造のあと、前藩主義智(義成の父)に対馬藩から去ることを約束していました。小説では、智永が藩主義智に殺されたとされていますが真偽はどうでしょうか。

調興は、宗家を飛び出すときは今をおいてないとし、国書偽造を暴露し、画策したとおり幕閣に大きな衝撃を与えたのです。

 そして、老中松平伊豆守は、対馬に家臣を派遣し関係者を調査させます。印を偽造した者、それを発注した者、国書を改竄した者などがあきらかになり詮議するため江戸に連れて来るよう指令を出します。偽造に関わった者は極刑も免れません。証人および家族総勢20名ほど、その頃は対馬から大阪までは海路、大阪から江戸までは陸路を辿って相当日数が罹ったと思われます。

いよいよ松平伊豆守信綱の詮議に対する、宗家と柳川家の対立がメインの見せ場となります。

詮議の結果の知恵伊豆は、裁定をくだします。家康の詫び状関係者は、没しているので詮議保留。対馬藩宗義成と家臣柳川調興は直接関与していないが監督責任があり、いずれに監督責任を問うべきか迷いますが、伊豆の結論は、対馬宗家の取り潰しです。

日本が太古の昔から営々と築き上げて日朝関係の交易は、御公儀が直に行い、調興を対馬奉行とするというものでした。

 そして、御城本丸大広間においての家光の最後の裁定です。

家光は、「宗義成を勝たせよ。」という一言でした。宗義成方の僧、規伯玄方の「今は乱世ではない平和である、今こそ乱世の夢を捨てさせるべき」と云う言葉に心を動かされ、全てがひっくり返ったのです。

 これで伊豆の裁定もやり直して、宗義成は御咎め無しとし、1両年中に朝鮮国使を来聘、外交力を試すため万が一失敗すれば調興を呼び戻すというものでした。しかし翌年朝鮮国使を招聘に成功します。

調興は、津軽藩流罪です。僧の規伯玄方は流罪南部藩に預かりの身となります。

また、宗家と柳川家の実際に改竄に関与したそれぞれの長老の家臣とその男子に死罪となり、結局両成敗という結果でした。

 流罪となった調興は、老中土井利勝の配慮で、家臣7名の供を許され、弘前城南西に広大な屋敷を与えられます。以後半世紀近くを津軽の地で過ごし、対馬に還れることを待ちましたが、赦免されることなく82歳で没します。

 徳川3代目で安定した平和が訪れた家光の時代に、時代遅れの夢を持ち続け、世の不条理に憤り、そしてあがいた柳川調興の生きざまで、何事も波たたせず穏便に済ませようとする財務省官僚の公文書改竄問題と似たような国書偽造の物語でした。

この作品は、読み応えがありましたが、史実ももう少し詳しく知りたいので、関連する他の書籍も読んでみたいと思います。

                                                                                                          おわり