東京の古墳 大田区田園調布古墳群

 日本には現在約16万基の古墳が有りますが、 東京都にも700基以上の古墳が存在します。古墳マップによりますと多摩川沿いに多くの古墳があることが分かります。

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古墳マップ 「多摩市史」通史編1より

 東京都内にある三大古墳は、大田区田園調布古墳群の亀甲山古墳、宝萊山古墳、そして港区芝公園の芝丸山古墳といずれも23区の一等地にあるようです。

大田区の田園調布古墳群は、三大古墳の亀甲山古墳、宝萊山古墳を含み10基あり、近くに古墳展示室もあります。

 武蔵野台地は、関東平野にある東京都区、多摩地区、そして入間地域などの埼玉県にも及びます。その武蔵野台地上に位置する田園調布古墳群は、多摩川沿いに立川市から続く約30kmの国分寺崖線の南端部分に築かれた古墳群です。

 田園調布古墳群一帯は、大田区多摩川台公園として整備されており、古墳群の北に宝莱山古墳、南に亀甲山古墳の前方後円墳があり、その間に築造された小規模古墳8基から構成されています。

 東急の「多摩川駅」から多摩川の方へ向かうと直ぐに多摩川台公園があり、案内板により全体の古墳群の位置関係を掴むことが出来ます。

左側に行くと亀甲山(かめのこ)古墳、右側に行くと北の端、宝萊山(ほうらいさん)古墳に行くことが分かります。

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多摩川台公園入口

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案内板

 手前に「多摩川台古墳展示室」がありますので、まずそこを見学します。

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多摩川台古墳展示室

 最初に展示室全体の見どころ案内があり、「古代人になった気分で散歩して下さい。」と案内しています。

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展示室見どころ案内

 入ると直ぐに目につくのが、天井いっぱいに再現された高さ5m位の古墳です。関東地方で6世紀頃に造られた前方後円墳の後円部の一部です。観音塚古墳(田園調布4丁目)がモデルとなっているようです。

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再現された古墳 博物館の展示物としては巨大です。

 古墳の上部には魔除けなどのために置かれた埴輪もあり、断面からは赤土と黒土を交互に盛って古墳の強度を増す工夫など忠実に再現しています。

 その古墳内には、横穴式石室があり、亡くなった首長が棺に埋葬された状態の模型や実際に出土した勾玉などの装飾品、鉄製の槍などのレプリカ約60点が展示されています。

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埋葬された首長の木棺

 出土した埴輪の形から、当時の前首長を葬り、新しい首長が誕生する儀式の「墓前祭」のマツリの風景も再現していました。

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墓前祭の様子

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復元した人形

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埴輪の説明

 展示物の中には、大田区から世田谷区にかけて、多摩川流域の荏原台古墳群の地形が展示されています。手元のボタンを押すとその場所の表示が点きます。

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多摩川流域の地形図

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荏原台古墳の表示ボタン

 また、宝莱山古墳や観音塚古墳など主な古墳の説明パネルと、そこからの出土品があります。但し、出土品は全てレプリカで、室内は自由に写真撮影できます。レプリカとはいえ、本物そっくりによく創られています。

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宝莱山古墳説明パネル

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出土された四獣鏡

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観音塚古墳のパネルと出土品

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多摩川浅間神社古墳の出土品の馬形埴輪

 その他、古墳の大きさを比較した説明パネルや、古代人がどのようにして古墳を造ったのかの説明パネルなどが、分かり易く展示されていました。

古墳の大きさの比較のパネルもあり、大山古墳と比較しています。

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古墳の比較パネル 古墳時代の中ほどの大山古墳が極端に大きいですね。

 古墳時代における当時の古代人の歩みが、精巧に模造された出土品とともに文化、生活がよく分かり、想像力がかき立てられます。どのように古墳を造り、埋葬されたのかが分かり、古墳に関する知識が満載な展示室であったと思います。

 

 古墳展示室を後にして、本物の古墳群を見に行きます。たぶん、木々が生い茂っていて古墳の形も確認することが出来ないと思いますが。

まず、近くの亀甲山古墳です。4世紀後半の築造と推定され、横から見た墳形がカメの姿に見えたためこの名があります。

墳形の特徴や埴輪、葺石を持たないことなどから宝萊山古墳の次の世代の首長の墓と考えられています。

墳長約107m、多摩川流域では最大の古墳で、国の史跡になっています。周囲には柵が巡らされ、保存が図られており、発掘調査が行なわれていないため、出土品はありません。

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亀甲山古墳の史跡標 これがないと古墳だと分かりません。

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亀甲山古墳  発掘調査が待たれます。

 来た道を戻り宝萊山古墳の方向へ行きます。ここから8基あり最も北の宝萊山古墳へと続きます。

1号墳は、はじめ円墳と思っていたのですが、最初に円墳の2号墳が6世紀前半に築造され、さらにこの円墳を前方部に利用した前方後円墳です。

6世紀後半に築造されたという横穴式石室の前方後円墳(墳長39m、前方部幅17m、後円部径幅19.5m)となります。

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多摩川古墳群の案内板

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1号墳

 続いて6世紀末から7世紀前半にかけて円墳の3,4,5,6,7,号墳が造られ、最後に円墳8号墳が7世紀中頃に造られました。

円墳の規模は、直径14m~20mと小規模です。1号墳から7号墳までほぼ1列に連なっていますが、どのような法則で並んでいるのか、単に地形の関係か興味深い。

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3号墳

 その先の宝萊山古墳は、多摩川流域最古の前方後円墳で、荏原古墳群の最初の首長墓です。

最近の発掘調査から全長約97m、4世紀前半の築造と推定されています。昭和9年(1934)の宅地造成の時に後円部の3分の2が削平されましたが、埋葬施設が発見され、国産の四獣鏡、勾玉、ガラス製小玉、鉄剣などの副葬品が出土しました。
これらは、「三種の神器」と同様のもので、この古墳が初期ヤマト政権と強い関係にあったと考えられています。

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宝萊山古墳

 田園調布エリアには40基以上見つかっていますが、宅地化、都市化の波で失われたものが多いのです。

多摩川台の田園調布古墳群は、国分寺崖線の台地によって開発を免れた貴重な存在です。しかもこの台地からみる多摩川は、絶好の眺望となっています。

1500年も前ですので、だいぶ違うと思いますが、古代人もこのゆったり流れる多摩川をどう見てどう感じていたのでしょうか。

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多摩川眺望

 

 因みに、田園調布古墳群と世田谷区の野毛古墳群は、共に多摩川左岸の台地、国分寺崖線上に位置し、荏原台古墳群と総称され、その数は合計50基にも及んでいます。
 この古墳時代の日本には歴史書がなく、社会の様子が全く記録されていません。中国の歴史書でさえも3世紀の『魏志倭人伝』、5世紀の『宋書』に日本の記録が僅かに記されているに過ぎません。4世紀にいたっては、全く記録されていません。

 従って、古墳は、日本が国家を形成されつつあった3世紀後半~7世紀末の歴史を物語るかけがえのない遺物、文化財といえます。  

 参考:大田区HP、

    「多摩市史」通史編1 

    多摩川台古墳展示室パンフレット及び説明パネル

                        おわり