薬師如来の興岳寺(こうがくじ)

 八王子では、もう一か所寺院を訪問しております。前回のブログで信玄の娘の松姫について書きましたが、松姫が甲斐から落ちのびたとき当寺を頼ったのが舜悦卜山禅師(しゅんえつぼくざんぜんし)でした。

 この舜悦卜山禅師は、今回の興岳寺、そして松姫の信松院も開山した人物です。

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舜悦卜山禅師

 舜悦大和尚は、八王子市、楢原の出身で、山田の廣園寺で臨済禅、越前永平寺で曹洞禅の修行をされました。その後、恩方の心源院の住職を務めるなど、七つの寺院の開創に関わりました。(楢原、山田、恩方など、以前八王子市に住んでいましたので、懐かしい名前です。)

 舜悦卜山禅師は、実に120歳の長寿を全うし、紫衣ならびに「仏国普照禅師」の称号を賜わりました。120歳とは、驚きですが、寛永3年(1626)10月26日に没したと云われています。

 興岳寺は、信松院の近くの小さな寺院ですが、文禄元年(1592)、今から約400年前に石坂勘兵衛が菩提寺として建立した寺院です。石坂勘兵衛は、江戸時代初期の旗本で、八王子千人同心千人頭の一家当主です。家康の時代になって、石坂勘兵衛がここに所領をいただきました。
 石坂勘兵衛は、当時、名僧として人々から尊敬されていた仏国普照禅師、随翁卜山大和尚を開山として迎え、自分の子、石坂弥次右衛門を開基としました。それ以来、石坂氏は代々当時の檀家として、現在15代に及びます。

 扨て、興岳寺は、JR中央線西八王子駅から程なくの所にあります。

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興岳寺山門

先ずは、手水舎で手を清めてから参拝します。

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手水舎

 境内のすぐ右に、白い石像が目に付きますが、水子地蔵です。その前に供養のためか、たくさん縫いぐるみが供えられています。

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水子地蔵

 本堂の左側に小さなお堂、興徳稲荷があります。本来は茶枳尼天(ダキニテン:ヒンドゥー教の女神カーリーの侍女で夜叉)ですが、日本では、稲荷明神として、家内安全、商売繁盛の守り神とされています。

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興徳稲荷

 また、同じ左側に「石坂義禮顕彰碑」があります。慶応4年(1868)、日光勤番中の義禮(弥次右衛門)は、戊辰戦争において新政府軍が日光に迫る中、日光を戦禍から守るべく新政府軍に明け渡しました。

しかし、八王子に帰還した義禮に対して、一戦も交えず日光を官軍に明け渡したことの責任を追及され、切腹するという悲しい歴史があります。

享年60歳で、ここに義禮の墓もありますが、山門の道路を挟んだ墓所の中です。

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石坂義禮顕彰碑

 本堂前の右側に、如意輪観世音菩薩像があります。片膝を立てる遊戯坐(ゆげざ)像です。如意輪観音像は、立像は見たことがなく、坐像または半跏像が多いようです。

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如意輪観世音菩薩像

 そして、本堂です。扁額は、山号の萬松山です。

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本堂

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本堂の扁額

 住職にお願いして本堂の内部を見せて戴きました。見事な須弥壇です。御本尊は、薬師如来立像です。武田信玄の念持仏のようで小型です。三尊像で脇侍は日光菩薩月光菩薩です。

興岳寺は、曹洞宗禅宗なので、本来は釈迦如来が本尊ですが、信玄の稔持物を御本尊としており、信玄との繋がりが強いのではないかと思います。

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本堂の須弥壇

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御本尊の薬師如来立像

 興岳寺には、薬師三尊像と、それを守る十二神将、四天王の諸像、金剛力士像などが安置されています。

 このような小さな寺院にも、松姫と舜悦、信玄、石坂氏との繋がり、義禮の切腹など様々な歴史があるものです。やはり現地に来て初めて歴史が分かるものだと思います。

最後に御朱印です。

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興岳寺の御朱印

参考:興岳寺ホームページ

   興岳寺発行小冊子

                      おわり