北海道の「続縄文時代」とは

 以前、ブログでアイヌの歴史や世界文化遺産に登録の北海道の縄文遺跡について記載しましたが、折々現れるのが続縄文時代です。北海道独自の文化の時代で、約2500年前の弥生時代から北海道の「北の文化」は、本州などと大きく異なります。

北海道の縄文遺跡群 - クマケア治療院日記 (hatenablog.com)

 北海道は、気候が寒冷のため稲作が出来なかったのですが、北海道の縄文人は、変わらず狩猟・漁労の生活をおくっていたのでしょうか、縄文時代と続縄文時代はどう違うのでしょうか、という疑問が湧いてきます。北海道人としては、調べてみる必要を感じました。

 縄文時代の終わり頃、紀元前10世紀前後、大陸から水田稲作が伝わったことにより、縄文文化から弥生文化に移行したと一般には考えられています。昔は静岡県登呂遺跡の発見で、稲作は1世紀頃の弥生時代になってからと云われました。現在までの日本最古の水稲耕作遺跡は、菜畑遺跡(なばたけいせき:佐賀県唐津市)です。紀元前930年頃と考えられています。

菜畑遺跡

 北海道では稲作が行われず、狩猟や漁労を主な生業とする縄文時代以来の暮らしが受け継がれました。北海道で稲作が根付かなかったのは、やはり寒冷だったからとされています。

しかし、北海道博物館の右代学芸員は、「そもそも北海道は、縄文時代以来、食料資源が豊富にあり、土地を切り開いてまで、稲作を取り入れる必要がなかった。」と指摘し、稲作を受容しなかったのは、続縄文人の主体的な選択だったとみています。

ただ彼らは、弥生時代における文化の象徴、鉄器は、積極的に取り入れていました。漁具を鉄器で加工することより、水産資源の獲得などに大きな役割を果たしています。続縄文人は、弥生文化から必要なものを取捨選択して受け入れていたのです。

 続縄文時代は、紀元前3世紀頃から紀元後7世紀(弥生時代から古墳時代)にかけて、擦文文化が現れるまで続いた時代で、続縄文文化に対応します。

 本州とは異なる道を歩み始めた続縄文文化の遺跡は、海岸地域の恵山町恵山貝塚」や伊達市「有珠モシリ遺跡」があります。特に、漁労文化が発達し、漁労具などの見事な骨角器が出土しています。

 恵山貝塚からは、続縄文時代恵山文化期(約2,000年前)の骨角器が出土しています。骨角器の端部に多様な動物意匠が見られます。

恵山貝塚の骨角器 市立函館博物館所蔵

 また、恵山式土器文化は道南部に分布し、東北地方の弥生文化との関連をも示す独特な土器文化です。

 有珠モシリ遺跡では、奄美・沖縄などの南西諸島から運ばれたと考えられるイモガイなど南海産の貝で作った腕輪が出土しています。

本州を通じて、はるか南の地域との広大な交流が繰り広げられていたことが分かります。

南海産のイモガイのブレスレット

 そして、続縄文文化を代表する遺跡に、海食洞を利用した洞窟遺跡があります。余市町の「フゴッペ洞窟」と小樽市手宮洞窟」です。余市町のフゴッペ洞窟では、洞窟の壁に人、舟、魚、海獣、4本足の動物のようなものなど200を超す刻画があり、1~4世紀頃のものと考えられています。

縄文人が残したフゴッペ洞窟の岩面刻画

 このように4〜5世紀頃、北海道に暮らしていた続縄文文化の人々が、日本海をはさんだ北東アジアの人々と交流をしていたことを示す大変貴重な遺跡です。

 北海道の続縄文人のことを調べると、環境、生態系に適応し、巧みに生き独特の文化を育んでいたことが分かります。必要なものは、はるか南の地域とも交流して調達しており、このような自然な生き方に現代人が忘れている何かがあるような気がします。

参考:読売新聞 日本史アップデート 北海道の続縄文文化

  :北海道ホ-ムページ、伊達市こどもむけホームページ

                         おわり