今回は、早稲田界隈の散策です。最初に丸ノ内線の西早稲田駅から、近くにある玄国寺です。直ぐ隣の「諏訪神社」、そして、東西線の早稲田駅方面にある「穴八幡宮」、その向かい側の「法輪寺」へ、という諏訪通り、早稲田通り沿いの散策となります。
玄国寺は、真言宗豊山派の寺院です。山号が龍池山、院号が上珠院で、隣にある諏訪神社の旧別当寺でした。
見所は、本堂の阿弥陀如来そして田植え地蔵尊です。「諏訪通り」沿いに入口の看板がありました。
玄国寺は、少し奥まった所にありますが、山門の前に地蔵尊などの石仏が多数並んでいます。
山門です。扁額の下に、寺紋の「輪違い紋」の暖簾がかかっています。右隣に、「真言宗豊山派龍池山玄国寺」と刻まれた寺号標があります。
山門を入ると整然と手入れされた綺麗な庭があり、玄国寺案内の石碑、手水舎などがあります。
そして奥に堂々とした本堂です。扁額の文字は玄国寺で、弘法大師と書いた豊嶋八十八か所、第七十二番の看板があります。
本堂の扉が少し開いており、内陣を見ることが出来ます。
中央に御本尊の阿弥陀如来が安置されており、その一段下の左右に脇侍の観音菩薩、勢至菩薩像でしょうか、同じスタイルで立っておられます。
玄国寺の縁起については、境内の石碑の文言を示します。阿弥陀如来像が、行基菩薩の作とは驚きました。
以下全文です。
旧くは中野宝仙寺の末寺であったが、元禄九年音羽護国寺の末寺となる。龍池院と号すること古くは大寺にて境内広く南方の尾陽公戸山屋敷より北方土屋氏の屋敷までひとつづきなる大なる池あるが故に龍池山と号す。
草創は承和年中(834-847)真雅僧正再営の説あり。慶長六年(1601)頃現在地に創建され、延宝年中、法印盛源中興し、世々諏訪神社の別当を兼ねていた。
本尊は「三弁火焔の阿弥陀如来」、座像にて三尺余、行基菩薩の作、別に名付けて「こころみの阿弥陀」とも称す。
武蔵風土記に「寺宝一顆あり。安産與楽の玉と称す。北条遠江守時政の子相模守義時の妻難産のおり江の島弁財天に参籠して感得し、その加護によって安産あり。また、その玉、密々御本丸に用としてしばしば奉る。縁ありて当寺に寄附される。」
境内墓地に隣接して「土屋地蔵尊」あり。源兵衛村土屋薩摩守氏(旗本2700石)下屋敷の井戸より出現した石像で別名「田植え地蔵尊」とも言う。種々の願いを叶え、霊験あらたかなる故に堂宇を建立す。
「江戸名所図会」(天保年間刊行)によれば、このあたり諏訪谷村と呼ばれ、諏訪神社並びに別当玄国寺ありてその境内には鐘楼堂、地蔵堂、聖天堂などがあった。
ということです。
境内には、六角弁天堂があり、弁財天が祀られています。
また、鐘楼堂や歌碑、三界萬霊塔などがあります。
そして、いよいよ田植え地蔵尊ですが、見当たらないので拝観をお願いしました。境内には無く、少し離れた墓地にあるという事でした。
案内されて、地蔵堂に祀られているので鍵を開けて戴きました。御親切に感謝致します。
墓地入口に看板があります。お堂も立派です。田植え地蔵尊のお顔が黒くなっていますが、おだやかな笑顔のようです。
田植えの時期になると旅僧の姿となって田植えを手伝ったことからそう呼ばれるようになったとか、色々伝説があるようです。
最後に玄国寺の御朱印です。寺務所は、本堂の右下に棟続きにあります。寺務所も玄関前から水晶、蛙そしてホトトギスの花などアクセントのある落ちついた雰囲気です。
ここで住職に直筆で阿弥陀仏の「無量寿」と書いて戴きました。阿弥陀如来の梵字も入っています。
書き終わるまで寺務所の中で待たせて戴きましたが、中も落ち着いた雰囲気の所で、誕生釈迦仏など色々なものが飾ってあります。
そして、ご神木の樹齢500年という黒松の松ぼっくりを戴きました。縁起物としてお飾りいただけましたら幸いです、ということでした。
今回訪れた玄国寺は、全体的に居心地の良い寺院でした。境内は整然として、木や花の手入れが良く行き届いており、気持ちが落ち着く感じがします。住職はじめ応対も丁寧で「よく当寺に来て戴きました。」という気持ちが溢れており、また訪れたくなる寺院でした。御親切に感謝します、有難うございました。
参考:玄国寺境内看板
おわり