早稲田散策の続きです。前回の玄国寺、諏訪神社から諏訪通りを東西線の早稲田駅の方角へ「穴八幡宮」に向かいます。諏訪通り沿いに学習院女子大学、戸田公園などがあります。
そして、諏訪通りと早稲田通りが交わる所の角に、穴八幡宮があります。朱色の大鳥居が目立ちます。
大鳥居の下をよく見ると、両柱を二匹の亀が支えているのです。亀腹と云われる基礎部分が、実際の亀の形で造られています。初めて見ました。
穴八幡宮の御由緒は、康平五年(1062)、奥州の乱を鎮圧した源義家(八幡太郎)が凱旋の折り、日本武尊命の先蹤にならってこの地に兜と太刀を納めます。氏神八幡宮を勧請し、永く東北鎮護の社として祀られました。
寛永十三年(1636年)には、早稲田に居住する幕府の御持弓組頭である松平直次がこの地に的場を築き、射芸の守護神として八幡宮を奉祀しました。
寛永十八年(1641)、宮守の庵を造る為に南側の山裾を切り開いたところ「神穴」が出現し、中から金色の御神像が見つかった事などから、この時より穴八幡宮と唱えられるようになったということです。
この穴八幡宮は、冬至の「一陽来復御守」でも知られます。冬至から節分までの期間限定で頒布される一陽来復御守は、金銀融通の御守として人気が高く、御守を求めて大行列ができる程です。
大鳥居の左手には、流鏑馬(やぶさめ)像があります。
享保十三年(1728)、八代将軍・徳川吉宗が、世嗣(吉宗の嫡子で後の第九代将軍・徳川家重)の疱瘡平癒祈願のため奉納した流鏑馬を起源とし、以降将軍家の厄除けや若君誕生の祝いに高田馬場で流鏑馬が奉納されました。
現在も戸山公園内に会場を移し、毎年行われています。
大鳥居から石段を上がりますと、程なく第二鳥居があります。そこから尚も石段が続き、鮮やかな朱色の随神門(ずいじんもん)が見えてきます。
随神門 随神門の名は光寮門で、平成十年に再建されました。
随神像は、俗に右大臣左大臣と呼ばれる豊磐間戸命(とよいわまとのみこと)、櫛磐間戸命(くしいわまとのかみ)という門の神様です。
金獅子の像もあり煌びやかな感じがします。
随神門を抜け、拝殿に向かって尚も行きますが、参道の途中、右手に手水舎と布袋尊舎が並んであります。
洗心と刻まれた手水舎も立派で、布袋尊像の袋から水が出てくるという珍しいものです。
その隣に布袋尊舎があります。この布袋尊像を形取った水鉢は、徳川家光が奉納したと伝わっています。新宿区の有形文化財(工芸品)に指定されており、置かれているのはその複製品です。
そして、いよいよ拝殿ですが、その前の阿吽の狛犬も迫力ある造りです。玉持ちと子持ちの狛犬でそれぞれ、大木を従えているように見え、拝殿とのバランスは見事です。
随神門、手水舎、布袋尊舎と朱色でしたが、拝殿は、一転して黒を基調とした落ち着いた雰囲気です。神紋は、菊花心に三つ巴紋です。
御祭神は、
仲哀天皇(帯中日子命:らしなかつひこのみこと)
神功皇后(息長帯比賣命:おきながたらしひめのみこと)
です。
そして、外で参拝するのではなく、拝殿の中に入って参拝します。内部は広く、また社務所が左側にあり、御朱印もここで戴きます。内部を外から撮らせていただきました。
その他境内には、手水舎の向かい側になりますが、「鼓楼」があります。中には太鼓が収められており、例大祭と大晦日の際に鼓楼の太鼓を叩きます。
鼓楼の左手には神武天皇遥拝所があります。
初代天皇の神武天皇と皇后の媛蹈鞴五十鈴媛命(ひめたたらいすずひめのみこと)をお祀りする橿原神宮(奈良県橿原市)の方角に向けて遥かに拝みます。
ここの阿吽の狛犬は、頭にそれぞれ宝珠、角を乗せており、何となく可愛らしい顔をした造りです。
神武天皇遙拝所の石段を降りていくと「出現殿」があります。穴八幡宮の由緒にもあった通り、御神穴が見つかった場所に社殿を建て出現殿として、お祀りしています。
一般公開はされていません。
最後に御朱印です。拝殿内の社務所にて書いて戴きましたが、初穂料は「お気持ちで」とのことでした。
通常、御朱印には社号が記されることが多いのですが、穴八幡宮では「一陽来復」、(冬が終わり春が来る、悪いことが続いた後で幸運に向かうという意)の墨書きとなります。
参考:穴八幡宮 公式ホームページ
境内の掲示
おわり