今回の寺社散策は、神奈川県、川崎市の多摩川右岸の平野部と多摩丘陵を舞台にした歴史を見ていきます。
今までも多摩川左岸沿いの大田区「田園調布古墳群」、世田谷区「等々力渓谷」に展開する寺社、古墳などを見て来ましたが、今回は多摩川の右岸の地域です。
最初に訪れた寺院は、影向寺(ようごうじ)です。「影向(ようごう)」とは、まず読めませんが、仏語で、神仏が仮の姿をとって、この世に現われることを云います。
影向寺の縁起は、天平11年(739)光明皇后が眼病の折り、聖武天皇は夢告で武蔵国橘樹郡橘郷に霊石のあることを知り、高僧行基を使わし祈願させたところ、皇后の病気も快癒したと云うことです。その翌天平12年(740)、聖武天皇の勅命により、創建したと伝わります。
影向寺のある宮前区の周辺は、古墳から中世の歴史を集約するように豊かな文化を残しています。
最寄り駅は、JR南武線の武蔵新城駅です。駅から南西に商店街、住宅地を通り過ぎ、10数分程歩くと風景ががらりと変わります。そこは、「たちばなふれあいの森」です。
ホタルの幼虫がいるらしい小川などもあり、どんどん高台に進んで行きます。すると影向寺の前に石碑が見えてきます。
石碑の文字は、「国史跡 橘樹官衙遺跡群 影向寺遺跡」とあります。橘樹官衙遺跡群(たちばなかんがいせきぐん)は、川崎市高津区にある官衙(かんが:官庁、役所)の遺跡群で、2015年に国の史跡に指定されています。古代武蔵野国橘樹郡の役所跡と古代寺院跡から構成される重要な遺跡です。
影向寺(ようごうじ)は、国史跡橘樹官衙遺跡群の影向寺遺跡上に建つ古刹です。『新編武蔵風土記稿』をはじめ多くの地誌紀行にはその霊験が伝えられています。
影向寺の前に「薬師三尊像 国宝復活運動しています。」との看板もあります。
扨て、影向寺の山門です。影向寺の山号は威徳山、院号は月光院で、天台宗の寺院です。
参道に入り、右手に手水舎、左手に鐘楼があります。
参道の突き当りは薬師堂です。近年の発掘調査により、創建は白凰時代末期(7世紀末)に遡ることが明らかになりました。影向寺の説明掲示板です。
現在の薬師堂は、創建当時の堂宇とほぼ同じ位置にあり、江戸時代中期の元禄7年(1694)に建立されました。薬師堂の大きな特徴は、内陣・外陣・脇陣の境を中敷居と格子によって厳重に結界するもので、中世以来の密教本堂の形式を伝えています。
彫刻も見事です。
一般の法要が行われる阿弥陀堂は、総ケヤキ造りの木造建築です。阿弥陀如来像、閻魔像、曼荼羅が安置されています。
影向寺の北側にある安置堂には、国指定重要文化財の薬師如来像などが安置されています。年に数回、正月、彼岸の中日などにガラス越しに参拝することができるようです。
境内の東側は、工事を行っていますが「太子堂」と思われます。疾病消除の祈願が込められた「聖徳太子孝養像」(鎌倉時代後期)が安置されていますが、六角堂の姿が見られなかったのは残念です。どう再建されるのでしょうか、期待します。
その奥に瑠璃光殿がありますが、さまざまな仏事に対応しています。
境内の中央に堂々たる古木の「乳イチョウ」があります。
影向寺の乳イチョウとして説明の石柱がありました。説明によると、乳柱を削って煎じて飲むと乳が出るようになるという伝説があります。当寺の絵馬に乳しぼりの図柄が多く残されていますとのことです。
高さ28m、胸高周囲8.0m、樹齢約600年(推定)という堂々たる古木で、神奈川県の名木100選に指定されています。乳イチョウの足元に掃除小僧がいます。
その傍に2018年に柔和なお顔の「橘樹観音」が安置されています。
六地蔵もおります。昔から庶民の間でお地蔵様に対する信仰が厚いようです。六地蔵の足元に子地蔵がいました。
また、昭和15年に日本を代表する現在詩人、英文学者の西脇順三郎氏が訪れています。「雲の水に映る頃 影向寺の坂をのぼる 薬師の巻毛を数へる秋」の詩を詠まれました。それを記念し、境内に詩碑が建てられています。
この影向寺は、その創建が奈良の法隆寺西院伽藍とほぼ同時期であり、薬師三尊像の国宝復活運動を行っているように、文化財もみるべきものが豊富です。南関東にもこのような寺院があるとは驚きました。
最後に御朱印です。寺務所で御住職より戴きました。袋に寺紋の判が押されていましたが、銀杏のようです。
参考:影向寺ホームページ
おわり