川崎市「たちばな散歩道」散策  秘仏空蔵菩薩像の能満寺、弟橘媛伝説の橘樹神社

 川崎市の「影向寺」、「野川神明社」と見て来ましたが、多摩川右岸の散策はまだ先が在ります。能満寺、橘樹(たちばな)神社へと続きます。

 能満寺(のうまんじ)は、野川神明社から東に数分歩くとあります。星王山寶蔵院と称する天台宗の寺院で、もともと影向寺塔頭(たっちゅう)十二坊の一つとして行基菩薩が創建したと伝えられます。天文年間(1532~54)にここに移転し快賢によって開かれたと云われます。

 能満寺の近くに「たちばな散歩道」という立て看板がありました。この一帯は、影向寺、能満寺、橘樹神社など散歩コースになっているようです。結構、起伏に富んでいて上り下りが激しい所です。

「たちばな散歩道」立て看板

 能満寺は高台のようで、山門へ向かって上がって行きます。

山門へ

山門です。

山門

 山門から真っ直ぐに本堂があります。参道の右手に、手や口を清める手水舎ですが、コロナ禍であまり使われていないようです。

参道

手水舎

 そして、本堂です。左に伝教大師最澄像、右に手水舎が見えます。現在の本堂は、影向寺薬師堂建立の際に、元文4年(1739)に建て替えられたものです。

本堂

 内部には本尊である木造虚空蔵菩薩立像(こくうぞうぼさつりゅうぞう)や木造聖観世音菩薩立像が祀られています。残念ながら秘仏のため拝観することは出来ません。

川崎市教育委員会HPより拝借、本尊の虚空蔵菩薩立像です。

虚空蔵菩薩立像 像高95.6㎝

 寄木造りで、宝髻も含めた頭部と体幹部は一材で刻んでいますが、各部後補されています。墨書の銘文が残されており、明徳元年(1390)、仏師朝祐の作ということです。仏師朝祐は鎌倉覚園寺十二神将立像などを造像しており、鎌倉仏師の一人であったようです。

 この作品は、作者、造立年代ともに明確な基準作であり、彫刻史上、貴重な遺例であると評価され県指定重要文化財に指定されています。

 そして、本堂須弥壇後方左脇の厨子内に安置されるのが聖観世音菩薩立像です。(川崎 市教育委員会HPより)

聖観世音菩薩立像 像高101.3cm、カヤの一木造。

 本像は、体幹部の安定感が十分あり、肩・胸・腹などの肉付けも充実し、ことに下半身は幅広くどっしりとしています。本像は平安時代も前半の10世紀の作と推定されており、市重要歴史記念物に指定されています。

能満寺の歴史、仏像の説明掲示板もあります。

 

能満寺の仏像の説明掲示

 境内を見て回ります。西の端に不動堂があります。木造の増田孝清坐像(川崎市教育委員会HPより)が安置されています。

不動堂

増田孝清坐像 像高52.5cm 寛永10年(1633)作

 増田氏は武蔵国橘樹郡清沢村の旧家で、北條家の家人増田駿河守滿榮の子孫のようです。(市重要歴史記念物)

 

本堂の左前に、ひときわ大きい宗租の伝教大師坐像が安置されています。

伝教大師坐像

その他、鐘楼、六地蔵尊像、十三重石塔そして無縁仏などを見て回ります。

鐘楼

六地蔵尊像

十三重石塔

無縁仏群

最後に、寺務所にて御朱印を戴きました。

寺務所

御朱印

 さらに散策が続きますが、橘樹(たちばな)神社の方に行きます。起伏が激しくGoogle Mapsを見ながらでないとなかなか最短で行けません。

途中の「子母口富士見台古墳」に立ち寄りました。大きなサクラの木が2本立っている小高い場所にあります。築造当初はかなり大きな円墳と思われ、だいぶ削られたようです。何せ住宅街の中に忽然と現れます。

子母口富士見台古墳

現在の規模 墳丘高3.7m、墳丘径17.5m

 ここに橘樹神社の祭神である弟橘媛(おとたちばなひめ)の遺物が祀ってあったと云われています。 弟橘媛(おとたちばなひめ)は、『日本書紀』によれば日本武尊(やまとたけるのみこと)の妃です。『古事記』では倭建命の后、弟橘比売命です。

弟橘媛(『前賢故実』)より

 子母口富士見台古墳の説明掲示板に弟橘媛について記されています。

「子母口富士見台古墳」の説明掲示

 近くの家の猫が、不思議そうにこちらを見つめています。

古墳の猫

 そして、橘樹神社へのルートの看板がありましたのでその方向へ行きます。

たちばなの散歩道

 

 起伏の激しい道を辿って、橘樹神社に程なく着きました。高台の静かな住宅街に佇んでいるような神社です。橘樹神社の鳥居の前の社号標と鳥居です。

社号標

鳥居

 橘樹神社は、創建は不明ですが、「立花社」として古書にも記載されており、御祭神は「日本武尊(やまとたけるのみこと)」と「弟橘媛(おとたちばなひめ)」の二神です。

鳥居をくぐり境内を全体見渡す所に「川崎市地域文化財 橘樹神社社殿」の大きな看板があります。

川崎市地域文化財 橘樹神社社殿」

 鳥居に入りますと左手に手水舎、右手に「橘樹神社修復記念碑」があります。

手水舎

  右手の橘樹神社修復記念碑の石碑には、橘樹神社の云われ・歴史などが記されています。

橘樹神社修復記念碑の石碑

 橘樹神社の御祭神の弟橘媛には、次のような云い伝えがあります。

日本武尊の東征時、相武国から上総まで船を出そうとしたが、荒れ狂う海に尊は進むことが出来なかった。后である弟橘媛が海神の怒りを鎮めようと自ら海中に身を投じたとあります。

 やがて海は鎮まりかえり、日本武尊は無事に海を渡ることが出来たのです。この時に弟橘媛が身に着けていた御衣や御冠などがこの地に流れついて、これらを祀ったと云われています。(参考文献:新編武蔵風土記稿)

 

 そして社殿です。現在の社殿は嘉永4年(1851)に建替えられ、昭和42年に改修、再建されています。

社殿

 拝殿の前の阿吽の狛犬です。子犬を抱え可愛らしい狛犬です。

阿吽の狛犬

 社殿の左側に石碑があります。この石碑の前にも狛犬がいます。拝殿前の狛犬と同じような形態をしています。

石碑全体

石碑の前の狛犬

二つある石碑は、判読しにくいですが、「橘樹神社の碑文の読み方」の説明掲示板があります。

石碑

碑文の説明掲示

 「日本武(やまとたける)の松」と「橘比免之命(たちばなひめのみこと)神廟」の題名で山岡鉄太郎が詠んだと思われます。表裏に刻んでいるようです。

「橘比免之命」は古事記による名前で日本書紀の「弟橘媛」と思われ、漢字表記も色々あるようです。

 

 他に慰霊碑などが数多く在りますが、ここは、神職の方は常勤していないらしく、残念ながら御朱印を戴くことは出来ませんでした。

 この付近には、まだ寺社や貝塚があるようですが、スマホのバッテリーが20%位となり帰りのGoogle Mapsが使えないと帰れなくなるので、ここらで退散しました。

 今回の散策は、弟橘媛の伝説まで現れるとは思いませんでしたが、日本全国に貴重な寺社や遺跡などがあるものと実感しました。長くなりましたがこの辺で終わりとします。

 

参考:川崎市教育委員会ホームページ

   能満寺境内説明掲示

   橘樹神社ホームページ

   橘樹神社境内説明掲示

   子母口富士見台古墳説明掲示

                  おわり