日本の鍼灸の歴史

 以前「世界の鍼灸事情」について中国、韓国の歴史、制度などを書きましたが、日本の鍼灸事情について述べてみます。

 鍼灸は、今から二千年以上前に、古代の中国で誕生しましたが、日本への伝来は、飛鳥時代6世紀半ばに朝鮮半島から伝えられたと云われています。その後701年の『大宝律令』が制定され、律令制度の整備の中で、鍼博士、鍼生といった官職が鍼灸を扱う医療職として設けられました。

 日本で初の医学書は、平安時代808年に成立した『大同類聚方』(だいどうるいじゅほう)です。平城天皇の命をうけ安倍真直、出雲広貞らにより、日本固有の医方を総集したものですが、原本を忠実に伝えるものは現存されておりません。偽本も多く、内容も疑問点が多いようです。もし現存していても、これには鍼灸に関する記述は無いと思われます。

 なぜならこの本の目的は、漢方医学鍼灸)の流入に伴い日本固有の医方が廃絶の危機にある事を憂慮した桓武天皇の遺命から編纂されたものであるからです。

 これに対して日本現存の最古の医学全書『医心方』(いしんほう)は、永観2年(984)に宮中医官を務めた鍼博士・丹波康頼により朝廷に献上されたものです。

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丹波康頼

 鍼博士である丹波康頼は、この時期の伝来医書を『医心方』という形で編纂し、現在までその内容が保存されています。

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国宝半井家本『医心包』(オリエント出版社提供)

 『医心方』は12世紀の写本が半井家の所有を経て1984年に国宝指定され、現在は東京国立博物館に保存されています。

本文はすべて漢文で書かれており、唐代の医書を参考に当時の医学全般の知識を網羅したものです。全30巻、医師の倫理・医学総論・各種疾患に対する療法・保健衛生・養生法・医療技術・医学思想・房中術などから構成されています。

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医心方第22巻。医心方の中でも唯一図を持つ巻

 奈良・平安時代は中国の鍼灸を受け入れ、学ぶことが中心であったのですが、同時に日本鍼灸の萌芽が見え始めた時期でもあったのです。

これには遣唐使の役割が大きかったと思います。現存する中国最古の医学書で、東洋医学ではバイブルである『黄帝内経』の書写が京都の仁和寺にあります。おそらく遣唐使として中国に渡った鍼灸に知識のある僧侶などが持ち帰ったのではないかと思われます。

 このような遣唐使による鍼灸技術の伝播は、単に技術面にとどまらず、医療制度としての鍼灸を日本に模倣させるものとなったと思われます。 

 そして、 鎌倉時代を経て、室町時代から安土桃山時代は、日本の独自性が育ち始め、江戸時代に特徴的に発展します。

豊臣秀吉による文禄・慶長の役(1592・1598年)の際に、朝鮮半島にあった朝鮮・中国の医学書が大量に日本に持ち込まれ、印刷技術の伝播で医学書も出版されるようになります。

 また、朝鮮出兵の直ぐ後に、李氏朝鮮許浚ホジュン)(1539年~1615年)は、『東医宝鑑』を著しています。朝鮮第一の医書として評価が高く、中国・日本を含めて広く流布しました。日本では江戸時代初の官版医書として、徳川吉宗の命で享保9年(1724年)に日本版が刊行されています。

 わたしは、この『東医宝鑑』をソウルの韓国国立博物館で展示されているのを実際に見ております。3年前位ですが卒論の仏像の調査で行っており、偶然に見つけました。

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東医宝鑑』ソウルの韓国国立博物館の展示

 2009年にユネスコが主催する「世界記録遺産」に登録されたそうです。

 

 江戸期の臨床家で、その後の日本鍼灸に大きな影響を残したのが、杉山和一です。現在の津市の武家の家に生まれた和一は、幼少期に感染症で失明し、鍼灸で生計を立てようと江戸に行くのです。

江の島弁財天で断食し「管鍼術」を発明します。これは、鍼を管に挿入した状態で刺入する方法で、初心者でも患者に痛みを与えずに刺入でき、現在でも広く日本で用いられています。

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鍼管と鍼

 そして和一は、5代将軍綱吉の持病を改善させて重用され、下町一つ目に屋敷を賜り、将軍家御医師の地位と、盲人の最高位(検校)を賜ったのです。また、私費を投じて全国40箇所以上に「鍼治講習所」を開設し、視覚障害者が鍼灸を生業にする道を開きました。

 江戸期の日本の鍼灸は、「経穴」という、効果の決まったポイントが体表面に存在するという一般的な鍼灸論に対し、「変化の起こっている部位」こそ「経穴」という治療ポイントであるという視点を導入し、今日に続く鍼灸の科学的な解明に道を開いたのです。

 明治時代になると、近代西洋文化流入に伴い、明治政府が西洋医学の導入と共に漢方医学の排斥を進めたため、明治時代から大正時代にかけて鍼灸は衰退の道をたどります。

 大正期に入ると、日本の伝統的医学の復興が叫ばれ、鍼灸・漢方の医学的研究が帝大を中心とした国の研究機関で盛んに行われるようになります。

そして、昭和初期から鍼灸の技法自体に対する復興運動が起こりはじめ、「古典に還れ」と提唱した柳谷素霊などが経絡治療として体系化しました。それが今日でも受け継がれています。

戦後、はりきゆうの免許が国家資格となり、幾度かの法改正を経て、現在では3年以上養成機関で学ぶことが、「はり師」と「きゅう師」の国家試験受験要件となっています。

 最近では、公的な医学研究所・医科大学鍼灸大学や医療機関等で科学的な各種の実験、研究がされて少しづつ鍼灸医学の効果が証明されてきました。

いまや、鍼灸治療は、中国、韓国そして日本のみならず、欧米をはじめとする世界各国で盛んに行われています。最近の国際鍼灸学会は、世界中から50カ国以上参加するようです。

 まだまだ医療については科学的に解明されない未知の部分が多く、今後、現代の西洋医学東洋医学とを組合わせての「統合医療」が期待されるところです。

                              おわり

 

東の比叡山の上野「寛永寺」

 いつものことですが、東京国立博物館の展示会を見ての帰り、上野近辺のお寺を訪れます。今回は寛永寺の根本中堂です。

 根本中堂といえば比叡山延暦寺ですが、ここ上野の寛永寺は、東の比叡山と云われています。東国の天台宗の拠点ということで東叡山と名付けられ、天台宗の別格大本山です。
 寛永2年(1625)に、3代将軍徳川家光の時に今の東京国立博物館の敷地に本坊が建立されました。徳川幕府と万民の平安・安泰を祈る祈願寺として、慈眼大師天海大僧正によって創建されたのです。

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慈眼大師(じげんだいし)天海大僧正肖像画(本覚院蔵)

 後には、第四代将軍・德川家綱公の霊廟が造営され、将軍家の菩提寺も兼ねるようになり、江戸時代には格式と規模において我が国随一の大寺院となったのです。江戸時代後期、寛永寺は、現在の上野公園のほぼ全域が寛永寺の旧境内でした。

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江戸城内并芝上野山内其他御成絵図」


 現在の東京国立博物館は、寛永寺本坊跡であり、博物館南側の大噴水は、根本中堂のあったところです。

しかし、幕末の戊辰戦争では、境内地に彰義隊がたてこもって戦場と化し、官軍の放った火によって、全山の伽藍の大部分が灰燼に帰してしまいました。

 このように上野戦争で被災し、明治維新廃仏毀釈の中でも寛永寺に対する弾圧は厳しいものがあり、広大な寺地は現在の上野公園に転じました。

寺自体も明治12年になってようやく再建が認められたのです。上野戦争で焼け残り、第二次世界大戦の戦災もまぬがれたいくつかの古建築は、上野公園内の各所に点在しています。

 実は、今まで訪れ弊ブログでも書いていた上野大仏、上野東照宮、清水観音堂、五重塔などで、分散していますが全て寛永寺の伽藍です。

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現在の寛永寺の伽藍と東京国立博物館の地図

 現存する根本中堂は、明治12年、川越喜多院の本地堂を山内子院の大慈院(現寛永寺)の地に移築し再建されたもので東京国立博物館平成館の直ぐ北にあります。

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寛永寺南門

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根本中堂(本堂)

 根本中堂の御本尊は、薬師瑠璃光如来像で秘仏です。比叡山延暦寺の根本中堂の御本尊と同じく、伝教大師最澄が自ら彫られたと伝えられています。

また、脇侍の日光菩薩・月光両菩薩は、慈覚大師円仁作と伝えられています。

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比叡山延暦寺の「薬師瑠璃光如来像」

 そして、本堂の勅額「瑠璃殿」は由緒あるものです。

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根本中堂の勅額「瑠璃殿」

 瑠璃殿とは、東方浄瑠璃浄土の教主である薬師如来を御本尊とする伽藍をあらわしています。勅額「瑠璃殿」は、根本中堂が落慶した際に賜った東山天皇の御宸筆です。

上野戦争東京大空襲など幾多の戦争中に伝教大師作の本尊薬師如来とともに無事運び出されているのは奇跡です。

 

 最後に御朱印です。

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御朱印 瑠璃殿

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散華(さんげ)

 御朱印の中央に押された寶印は、サンスクリット語の「ベイ」です。薬師如来を一文字で表した梵字。(薬師如来の種子)

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梵字 「ベイ」

 また中央の墨書の文字は、瑠璃殿です。残念ながら緊急事態宣言の中、根本中堂は開放しておりませんでした。

 

参考資料:寛永寺HP、パンフレット、境内看板など

                          おわり

 

トーハク「聖徳太子と法隆寺」特別展

 東京に緊急事態宣言が発せられる中、今週火曜から開催されている特別展「聖徳太子法隆寺」に行って参りました。

東京国立博物館の前の通りにはいつも出店がずらっと並んでいるのですが、感染対策でご覧のとおり閑散としています。

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東京国立博物館前の大噴水と通り

 奈良博が終わって間もなく東京入りとは、聖徳太子も忙しそうですが、1400年遠忌記念ですから止むを得ないですね。期間は、7/13(火)~9/5(日)と短めです。

 100年に1度の遠忌記念の展覧会であり、聖徳太子に関する文化財をよくぞここまで集め企画したという感じでした。大半が法隆寺所蔵のものと東京国立博物館所有の「法隆寺献納宝物」ですが、法起寺中宮寺宮内庁からのものも一部ありました。

 本来は大勢の人が押し掛けると思われますが、感染対策で入場制限をやっているため入館者も少なめでゆっくり鑑賞することが出来ました。

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会場の平成館 聖徳太子1400年遠忌記念特別展

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90分で観覧のお願い。(じっくり見るととても90分では見切れません。)

 会場は、A~Eの5のコーナーに分かれて展示されていますが、最初のAは、「聖徳太子と仏法興隆」です。

聖徳太子を描いた最古の肖像画の「聖徳太子二王子像」がありました。江戸時代の模本ですが、お馴染みのお札の原画です。原本は皇室の御物となっています。

「和を以って貴しとなす」の聖徳太子ですが、この人物が本当に太子なのかどうかは、はっきりしないのです。それはそれとして、この絵を間近に見たのは初めてで、太子信仰のシンボルに相応しいと感じます。

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聖徳太子二王子像

 法隆寺から皇室へと献納された「法隆寺献納宝物」について少しふれておきます。これも神仏分離令からの廃仏毀釈が深く関わっています。これにより法隆寺も例外ではなく寺領を失い、伽藍や寺宝の維持も難しくなります。

仏教破壊が進む中、明治政府は、文化財保護を目的に、「古器旧物保存令」を出し、すべての寺宝の台帳を作成します。

 こうした中、明治11年(1878)に、法隆寺は、寺宝、三百余点を「法隆寺献納御物」として皇室に献納する決断をし、明治政府からの下賜金により堂塔の修復や寺院の維持が可能になったのです。よくぞ当時の関係者の方は、貴重な文化財を守って戴いたと思います。

 「献納御物」は、「帝室宝物」となり、新設された現東京国立博物館において保管されることになったのです。一部は宮内庁の「御物」となっています。

  今回「法隆寺献納宝物」は、Bのコーナーの「法隆寺の創建」で竜首水瓶や伎楽面など多数展示されておりました。国宝の竜首水瓶は「正倉院展」で拝見したことがありますが、いつ見ても胴の四頭のペガサスの線刻など見事です。

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竜首水瓶 飛鳥時代7世紀 銅製、鋳造・鍍金・鍍銀

 また、Bのコーナーに、百万塔が展示されていました。百万塔は、764年の藤原仲麻呂の乱後の動乱を鎮めるため称徳天皇によって発願された100万基の小塔です。

藤原仲麻呂が、孝謙上皇(後に称徳天皇)・道鏡に対抗した事実上のクーデターで、吉備真備によって悲惨な結末を迎える話です。日本最古の印刷物だという百万塔陀羅尼も展示されていました。

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百万塔

 Aに戻りますが、夾紵棺(きょうちょかん)断片の説明書きに目が留まりました。

何の変哲もない木の板と思いましたが、絹を45層の漆で塗り固めた高級な棺で、聖徳太子の棺の可能性があるというのです。その幅が記録に残る聖徳太子の棺台に一致するということが根拠のようです。

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夾紵棺の断片 大阪府柏原市の安福寺が所蔵

 Cの「聖徳太子と仏の姿」のコーナーでは、聖徳太子立像(二歳像)が2体展示されています。鎌倉時代製作の法隆寺法起寺所蔵のものです。

実はもう1体、Dの「法隆寺東院とその宝物」のコーナーにも展示されています。3体ともきりりとした表情で、2歳(それも数え)とは思えないほど大人びております。先の2体は、極端に切れ上がった目をしておりました。

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聖徳太子立像(二歳像)鎌倉時代 徳治2年 法隆寺

 また、この「聖徳太子と仏の姿」のコーナーには、「聖徳太子および侍者像」、「聖徳太子孝養像」など数多く聖徳太子像が展示されています。日本全国に千以上の聖徳太子の像や絵があると聞いていますが、太子信仰の人気の高さがうかがえます。

 そして、第2会場のDの「法隆寺東院とその宝物」、Eの「法隆寺金堂と五重塔」のコーナーへと続きます。

これだけボリュムある聖徳太子と関連のある文化財を幾つかのテーマに分けて、会場のスペースを考慮しながら展示するのは、学芸員の大変さがよく分かります。

 願わくば、最初のAのコーナーの入口にある半跏思惟像は、大阪四天王寺の救世観音像を模刻した平安時代のものでしたが、ここに中宮寺広隆寺の半跏思惟像を持ってくると最高でした。お寺の事情があるのでそうはいかないと思いますが。

 今回の展示は、それぞれのコーナーにハイライトを持ち、最終コーナーのE「法隆寺金堂と五重塔」でクライマックスに達するというような構成であると感じました。

そのEには、国宝『薬師如来坐像』、国宝『四天王立像の 広目天多聞天』2躯そして、6躯の菩薩立像などであり、最後に「伝橘夫人自念仏厨子」で締めくくった感じです。

 実はてっきり奈良の展示と同じ「玉虫厨子」が展示されると思っていましたが、東京は念持仏でした。

わたしの卒論は、半跏思惟像に関することでしたが、時代が近いのでこの「伝橘夫人自念仏厨子」も登場しました。思いがけず逢えて良かったと思います。

念持仏と云うと小さいというイメージでしたが、意外に大きく、三尊像と厨子とが別々に展示されておりました。三尊像がよく見えるようにとの配慮かと思います。

  この厨子は、光明皇后聖武天皇の皇后)の母である藤原三千代の念持仏を収めていると推測されています。

金銅の阿弥陀三尊像で中央が阿弥陀如来、左側が観音菩薩、右側が勢至菩薩像で白鳳時代末期の作品です。藤原三千代の阿弥陀信仰の熱心さがうかがえます。

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伝橘夫人自念仏厨子

 聖徳太子に関する説は、多数ありますが、このように聖徳太子は、なぜ多くの人達の心を掴んでいるのでしょうか。 

10人の人の話を同時に聞くなどの超人的な面と、神や仏でもない自分たちと同じ人間であるという人間性あふれる人間的な面の両面持つという太子のイメージがあると思います。

 十七条憲法の「和を以て貴しとなす」という平和の精神の太子が、すべての人間の願いを叶えてくれるという尊敬と崇拝の念からきているのではと思います。

 

 あまりにも見所がたくさんあり少ししか紹介出来ませんが、とにかく、100年に1度というこの展示会を、聖徳太子の理解のためにもぜひご覧いただきたいと思います。

その後10月に、伝教大師1200年大遠忌記念特別展「最澄天台宗のすべて」が待っています。

その頃の日本のコロナの状況はどうなっているのでしょうか。

                             おわり

梅雨どきの生きものたち

 晴れの日が忘れるくらい、毎日、鬱陶しい雨が続いています。本日は久しぶりの天気のようです。各地で想定外の被害が多数出ていますが、地球温暖化の影響でしょうか。熱海の土石流災害は人災も重なった感じで本当に心が痛みます。亡くなられた方にはご冥福をお祈りいたします。

 さて、梅雨どきの生きものたちは元気にしているでしょうか。梅雨であろうが大雨であろうが関係ないのがメダカです。年中水の中です。でも日の光があまり感じなくて鬱陶しいと思っているかもしれません。

現在は、夏に備えて日陰に移し、4つの水槽に収まっています。

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                  4つの水槽

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楊貴妃

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黒メダカ

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白メダカ

 ごく最近ですが、奇怪な生きものを見ました。柴犬の朝の散歩で雨降りしきる中でした。歩いて程なく小学校の校庭の中をふと見ると、見慣れない動物がいます。はじめ猫か犬かと思ったのですがよく見ると違います。

 猫より大きく、柴犬より少し小さい奇怪な生きものです。顏がアリクイみたいに細く尖っていて全身こげ茶色です。明らかに犬やハクビシン、アライグマとは違います。しかもこんな住宅地に現われるなんて信じられません。

 とっさのことで雨もふりしきる中で写真は撮ることは出ませんでした。ハクビシンはたまに見ますがどうも違います。わたしと目があったのではっきりと覚えています。

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こんな感じの生きもの

 先日、札幌の住宅街でもヒグマが出たというニュースがありました。わたしの育った家からそう離れていない所ですが、そこは平坦な土地が続き山などどこにもありません。

 ヒグマはどこから来たのでしょうか。不思議なことがあちこちで起きるようです。

いずれにせよ、身勝手な人間に追われて可哀そうな生きものたちが、あちこちにいるということです。

 ニホントカゲも雨を避けて少しでも日当たりが良いと、チョロチョロと出てきます。先住民は逞しく生き延びています。

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ニホントカゲ

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尻尾が長い。

 昆虫たちも水を飲みに来るのでしょうか、水場に集まります。あまり見たこともないような綺麗な色の昆虫もいます。頭が無ければまるで人間が黄色の帽子をかぶっているようです。

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上に目があるようですが、下に頭があります。

水を飲みに来て溺れていた昆虫がいました。助けましたが直ぐに飛んでいきました。

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おぼれていた昆虫

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助けた昆虫

 植物のほうですが、アデニウム(砂漠のバラ)とヤブカンゾウはいつも梅雨時に咲き、哀れにも雨に打たれて散っていきます。でもくじけずまた何度でも咲きます。

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アデニウム(砂漠のバラ)

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ヤブカンゾウ


 今年は梅がなり梅干しにしましたが、今は大粒のブルーベリーが色づき始めています。

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ブルーベリー

 そして柴犬チロリですが、相変わらず元気です。でも蒸し暑さは大の苦手で、25℃、湿度60%RHを越えると危険水域でエアコンを入れます。

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ボーっと外を眺めるチロリ

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食慾は旺盛なチロリ

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何でもマクラにしちゃうチロリ

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変な表情のチロリ

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まともな表情のチロリ

 いろいろな表情を見せてくれる柴犬チロリ11歳メス千葉生まれです。

 

 これから梅雨明けで暑くなりますが、本格的な夏を待つ生きものたちの様子でした。

                             おわり

北海道の縄文遺跡群

 北海道・北東北の縄文遺跡群が、今月に世界文化遺産に登録される見通しとの報道がありました。

北海道出身の者として、以前から気になっていたのですが、世界文化遺産に値する縄文遺跡が北海道にあるとは思ってもいなかったからです。

 北海道・北東北の縄文遺跡群は、北海道6遺跡、青森県8遺跡、岩手県1遺跡、秋田県2遺跡の合計17遺跡で構成されています。また関連する遺跡(関連資産)が北海道と青森県に1遺跡ずつあります。

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北海道・北東北の縄文遺跡群 地図 北海道、青森県で殆ど占めています。

 北海道については、九州、本州と違い稲作の農耕社会の弥生時代が存在しなく、縄文時代と同じ生活を続けていたことは知っておりましたが、北海道の歴史を改めて振り返ってみます。

 北海道に人類が住みはじめたのは、今から約3万数千年前とされています。南北両方から人類が、渡ってきています。南からは、朝鮮半島や南の島々を渡って南から移動してきた人々です。

また、北からは、シベリアの大陸の方面から移動してきた人々です。彼ら二つのグループは、高度な石器づくりの技術をもちこみ北海道で旧石器時代を築きました。

 当時は、約3万数千年前ですから「氷河期」で、北海道はユーラシア大陸とつながっており、マンモスなどが生息していたと考えられています。人々は、打製石器を使い、狩猟により生活をしていた、いわゆる旧石器時代です。

今から約1万年前までは、このような時代が続き、北海道にも多くの旧石器時代の遺跡が各地にあります。紋別郡遠軽町の「白滝遺跡」などです。

 やがて氷河期は終わりが近づき、地球はだんだん温暖化が進み、人類の生活や文化を大きく変えていきます。

日本列島では、マンモスなどの大型動物は絶滅し、気候の変化で豊かな森や魚貝類が育ちやすい環境に変化し、陸と海の両方から食料が得られるようになる縄文時代が到来します。

 この時代の最大の特徴は、「土器」が発明され、調理や食料の貯蔵をし、生活が大きく安定したことです。北海道で最古の土器は、1万3千年前ころの帯広市にある「大正3遺跡」から出土されたものです。縄文時代草創期の特徴をもち、本州から渡ってきた人々がもたらしたと考えられています。

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「大正3遺跡」から出土した北海道最古の土器

縄文時代草創期の特徴である「爪形文」が見られます。

 

 南北に長い日本列島の歴史では、旧石器時代から縄文時代までは、北海道から沖縄までほぼ同じような文化だったといえます。

しかし、約2500年前の弥生時代からは、北海道の「北の文化」は本州などと大きく異なります。本州などは、以後古墳文化、飛鳥、白鳳、天平、平安文化などと時代は移ります。

 北海道は、縄文時代以降になると「続縄文文化」や「擦文(さつもん)文化」、「アイヌ文化」などと呼ばれ、縄文時代と同じ生活を続けており文化が違っていたからです。

しかし、生活の基本を「狩猟・漁労・採集」と変わりませんが、文化的には周辺の人々との交流から影響を受けた結果、独自の文化が育まれていったと云えます。

 

 ここで北海道・北東北の縄文遺跡群に戻って、北海道の遺跡を見て行きます。

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道内の各資産の位置図

 北海道といえば厳しい寒さですが、地図で分かる通り「キウス周堤墓群」を除いて、内浦湾沿いの北海道でも比較的温暖な地域です。

クリなどの堅果類や魚介類などの資源に恵まれた地域で、採集、漁労、狩猟を基盤にした定住生活が行われてきたと思われます。

 キウス周堤墓群のある地域もサケ・マスが遡上し捕獲できる河川の近くであり、後背地に落葉広葉樹の森が広がっている地域です。

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キウス周堤墓群 配石のある墓坑(キウス2号周堤墓)

 キウス周堤墓群は、約3200年前の縄文時代後期の墓で、地面を丸く掘り、掘った土を周囲に土手状に積み上げ、内側を墓地にしています。

周囲に堤があることから「周堤墓」と呼ばれています。9基あり、最大のものは外径83mもあります。

 また、北海道南西部の渡島半島東岸の垣ノ島(かきのしま)遺跡は、縄文時代早期から後期(約9,000年前~3,500年前)にかけての長期間にわたり、縄文人の生活の痕跡が残された遺跡です。

台地利用の変遷を示す数多くの竪穴住居跡や墓に加え、国内最大級規模の「盛り土遺構」も見つかっています。 

遺物では土器や石器の生活道具のほか,幼児の足形が付けられた「足形付土版」や「漆塗り注口土器」などこれまで20万点以上の遺物が出土しています。

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盛土遺構の遺物出土状況

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足形付土版

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漆塗り注口土器 この頃から既に漆は使われていたのですね。  

 他の北海道遺跡には、定住発展期前半の貝塚を伴う拠点集落の「北黄金貝塚」や定住発展期後半の祭祀場である大規模な盛土を伴う拠点集落の「大船遺跡」などがあります。

 

 そして、本州の大遺跡である「三内丸山遺跡」を見てみます。青森市に所在し、八甲田山系からのびる緩やかな丘陵の先端部、沖館川沿岸の標高約20mの海岸段丘上に立地します。水産資源豊富な内湾及び河口に位置し、後背地には落葉広葉樹の森が広がっています。

 大規模な集落には、竪穴建物、掘立柱建物、列状に並んだ土坑墓、埋設土器などが計画的に配置されています。

膨大な量の土器や石器のほか、魚骨や動物骨、堅果類が出土しており、通年において自然資源を巧みに利用していたことが分かります。

 

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三内丸山遺跡 遺跡全景

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土偶 

 出土した土偶の殆どが板のように扁平で十字型をしており、「板状土偶」と呼ばれています。

 

 ユネスコの諮問機関「イコモス」による登録勧告では、遺跡群が示す「農耕を伴わない定住社会と精神文化」が評価されたということです。

 推薦書では、1万年以上にわたる海道・北東北の縄文時代を定住の「開始・発展・成熟」の3段階に分け、その変遷過程を、各遺跡群の構成資産を通じて解説しています。

 一方、精神文化の面でも、各段階の遺跡や遺構の特徴から違いが顕著に表れています。定住開始期に位置づけられる垣ノ島遺跡は居住域と墓域が分離され、日常と非日常の区別が始まったことを示します。

 2千点以上の土偶などが見つかった三内丸山遺跡の盛土遺構は、祭祀が長時間継続していたことを示す痕跡です。

 

 世界遺産委員会は今月16日からオンライン形式で行われます。縄文遺跡群を含めた新規登録案件の審査は24~28日に行われる予定のようですから注目していこうと思います。各遺跡は、見学の準備を整えているようですから、1ヵ所でも訪問したいものです。

 縄文JOMON JAPAN北海道・北東北の縄文遺跡群ウェブサイトなどを参考にしています。

                              おわり

新宿の太宗寺

 今回の寺院巡りは大都会、新宿区の太宗寺(たいそうじ)です。太宗寺は、東京メトロ丸ノ内線新宿御苑前駅より直ぐ近くにあります。奈良、京都の名刹、古刹とは比ぶべくもありませんが、ビルの谷間にこんな空間があったのかと思わせます。

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太宗寺

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太宗寺近隣図

 太宗寺は、安土桃山時代の慶長元年(1596)頃に太宗という僧侶が建てた草庵「太宗庵」が前身です。

太宗は、寛永6年(1629)安房国勝山藩主の内藤正勝逝去の際に、葬儀をとりしきった縁で、寛文8年(1668)に天領の寄進を受け、太宗寺として開創したのです。

 内藤家は、以後歴代当主が葬られるようになり、現在も境内の隣に墓所があります。

宗派は、浄土宗で、山号:霞関山(かかんさん)、院号:本覚院(ほんがくいん)で、御本尊は、阿弥陀如来です。
 境内に入ると、ミニ博物館のようにぐるりと文化財を見ることができます。直ぐ右手に巨大な地蔵菩薩坐像が目に付きます。江戸時代の前期に、江戸の出入口六ヶ所に建立されたひとつです。

銅像で像高は267cm、正徳2年(1712)に「江戸六地蔵」の三番目として甲州街道沿いに造立されたもので、製作者は神田鍋町の鋳物師太田駿河守正儀です。なお、像内には小型の銅造六地蔵六体をはじめ、寄進者名簿などが納められていました。

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銅造地蔵菩薩坐像

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 閻魔堂には、閻魔像と奪衣婆像が安置されています。閻魔像は、木造彩色で総高550cmにも及ぶ閻魔大王像です。文化11年(1814)に造られましたが、数度の火災により補修を受け、当初の部分は頭部を残すだけとなっています。道理で頭部と躰部がアンバランスな印象はそのためでしょうか。

江戸時代より「内藤新宿のお閻魔さん」として庶民の信仰を集めた像です。

 

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閻魔堂

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閻魔像

 奪衣婆像(だつえばぞう)は、閻魔堂の左手に安置されていますが、この像も木造です。総高240cmの大作で、明治3年(1870)の製作と伝えられます。

渦巻く頭髪、血走った大きな眼、剥き出しの肋骨と垂れ乳、血にまみれた口など凄まじい形相で鬼婆の風体です。

 奪衣婆は、閻魔大王に仕え、三途の川を渡る亡者から衣服をはぎ取り罪の軽重を諮るとされ、この像でも右手には亡者から剥ぎ取った衣が握られています。また、衣を剥ぐところから、内藤新宿の妓楼の商売神として信仰されました。

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奪衣婆像(だつえばぞう)

 扁額「閣王殿」は、中国清朝の官吏・秋氏が嘉永3年(1850)に奉納したものです。

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扁額

 尚、閻魔堂の開扉は、1/15,16と7/15,16の年に4日のみです。ただその日以外でも、扉にあるボタンを押すと照明がつき内部のお二人を格子越しに拝することが出来ます。

 

 本堂は、戦災で焼失、戦後再建された近代的な建物となっており、御本尊阿弥陀如来像が安置されています。阿弥陀如来像は開帳する予定はないということでした。

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本堂

 また、観無量寿経曼荼羅も本堂にあるようです。太宗寺に伝来する三幅の曼荼羅(浄土宗の三大経典による)のひとつです。

通称「大曼荼羅」と呼ばれるもので、奈良県當麻寺観無量寿経曼荼羅を同寸大に模写したものです。紙に描かれており、縦425cm、横408cmの掛軸となっています。 製作年代、作者については不明ですが、江戸時代初期の製作と推定されるということです。

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観無量寿経曼荼羅

他の二つの曼荼羅は、無量寿経曼荼羅阿弥陀経曼荼羅で掛軸となっており、大曼荼羅より新しいものと推定されています。

 

 本堂の隣の庫裏・客殿の庭に切支丹灯籠があります。内藤家墓所から出土された織部型灯篭です。新宿に隠れ切支丹とは意外ですが、全体の形状は十字架を、竿部の彫刻はマリア像を象徴し、マリア観音とも呼ばれています。

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マリア観音

 不動堂は、大戦の戦禍を免れた戦前の建物で、三日月不動像と布袋尊像を安置しています。

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不動堂

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  三日月不動像は、額の上に銀製の三日月をもつため、通称三日月不動と呼ばれる不動明王の立像です。銅製で像高は194cmで江戸時代の作です。また、布袋尊像は、新宿山ノ手七福神のひとつです。

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不動堂内部

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三日月不動像

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布袋尊

 このお堂も閻魔堂と同じく開扉は1,7月ですが、照明のボタンにより内部を拝することができます。

 

 

 不動堂の隣に「塩かけ地蔵」を拝見することが出来ます。願かけの返礼に塩をかける珍しい風習のある地蔵尊です。

造立年代や由来については、はっきりしていません。目黒大圓寺のとろけ地蔵も強烈な印象でしたが、ここも負けず劣らず強烈です。塩が固まって氷のように張り付いています。東京には他にも文京区の塩地蔵やしばられ地蔵尊などがありますが、江戸時代に花開いた庶民文化の主役は、このような地蔵尊だったのです。

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塩かけ地蔵


 本堂の横に墓地があり、内藤一族もここに葬られており、内藤家墓所が改葬された際に、鏡や煙管、かんざし、貨幣などが出土されています。

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内藤正勝の墓

以上出典は、パンフレットや境内の案内板から書き出しました。

 

 そしてこのお寺には、のんびりとくつろぐニャンコがあちこちにおり癒されます。

本堂への階段におりました。

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お墓の上でくつろぐニャンコ。

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不動堂の手すりの間にうつぶせで眠るニャンコ。

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気配を感じたのか顔を上げますが、目はつぶっています。

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そしてやっぱり眠いのです。

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 最後に御朱印です。お寺には、やはり来てみないと分からないことがあり、江戸時代の庶民文化の一端を拝見した気がしました。ありがとうございました。

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本尊の阿弥陀如来

                              おわり

再び花の名前

 散歩していると、いつも道端や花壇の花が咲いていると名前が気になります。雑草の類いも、ポツンと可憐な花の顔を見せており、花を見つけると「ハナノナ」のアプリで写真を保存します。

 

シロツメクサですが、三つ葉のクローバーでお馴染みですが、赤紫のムラサキツメクサもあります。

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ムラサキツメクサ 薬用としても多用されているそうです。

 ネジバナは、よく芝生の中に生えています。茎をまっすぐに伸ばして、らせん状にねじってピンクの花をつけます。この形状から名前がついたのでしょう。

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 コメツブウマゴヤシは、よく空き地に密集して生えている小さな花です。名は果実の形を米粒に見立て、肥料になることからついたものです。

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 花ではなく花穂ですが、エノコログサです。花穂が、犬の尾に似ていることから、犬っころ草が転じてエノコログサとされています。漢字でも「狗尾草」と表記されます。アプリの画像の別名のネコジャラシのほうが分かり易いです。

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 ツバナですが、小さいススキみたいです。別名チガヤと云います。

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 セイヨウオドリギソウは、かたまって咲いている黄色い花です。

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 ベゴニアは、花壇に赤、白、桃色とよく見かけますが、花がいつまでも長持ちします。 

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 ロベリアは、赤紫の小さな花が全体を覆うように咲いて綺麗です。

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 クリサンセマムは、マーガレットとそっくりな花ですが、花が小さいです。

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 麦わら帽子に似ているのがその名のとおりムギワラギクです。キクにしては早く咲きます。

 

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 キンシバイは、黄金色の花ですが、よく茂った濃い緑色の葉に映えます。漢字で書くと金糸梅です。なるほど梅の花に似ています。

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 タンポポかと思いましたが、イワニガナで、葉の形は卵形です。

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 ウサギギクと出ました。これもタンポポと区別がつきません。

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 カミツレは、前出のクリサンセマムと区別がつきませんが、似た花がたくさんあるものです。 

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 イエギクです。菊は秋に咲くものと思っていましたが、今頃咲くキクの種類も多いのですね。

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 シモツケは、よく見かけるピンクの地味な花です。

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 ヒヨドリバナ、カリフォルニアツリーポピーと出ましたが、一寸違うような気がします。

 

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 スイセンノウですが、ピンクや紫の色もあります。漢字では「酔仙翁」と東洋的で少し花とイメージが違います。

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 まだまだ、たくさん撮っていますので植物図鑑が出来そうですが、このへんで。

特に、雑草とおぼしきものにしぶとさと逞しさが感じられ、それでいて可憐で健気に咲いています。

 これは本当に便利なアプリで、名前が分かると何とでも調べることが出来ますから。

                             おわり