東京都日野市 秘仏4年ぶり公開 阿弥陀如来像 「百草八幡神社」

 先日、「幻の寺、ゆかりの如来像、百草八幡神社で4年ぶり公開」との読売新聞の報道がありました。秘仏、幻の寺、4年ぶり公開と魅力的な言葉が並びます。

 百草八幡神社はどこかと思えば、比較的近い東京都日野市です。神社で秘仏を公開とはどういうことだろうと思いつつ、行って参りました。

 

 京王線百草園駅」から、10分位の所にあります。

八幡神社の幟(のぼり)」の前に、秘仏公開、幻の真慈悲寺の公開講座のポスターが貼ってあります。

 

百草八幡神社の「八幡宮祭禮」の幟ポールです。



幟ポールの下の方に付いている狛犬です。

 

ここまで、かなりの急坂を登ってきたのですが、まだ社殿へは、石段が何段も続きます。

 

尚も続きます。

 

やっと社殿が見えて来ます。

 

社殿

拝殿の前の阿吽の狛犬、御神燈が見えます。

 

阿吽の狛犬です。迫力あります。

 

阿の狛犬の後ろに手水舎がありますので身を清めます。

 

拝殿です。

 

 拝殿の前に「天平寶字」と刻まれた台座に一対の山犬型の狛犬が鎮座しています。猫ちゃんみたいな可愛い表情です。

 天平寶字(てんぴょうほうじ)は、元号で、757年~765年までの期間。天皇孝謙天皇淳仁天皇称徳天皇孝謙天皇重祚)の時代です。孝謙天皇聖武天皇光明皇后の娘ですから、この新しそうな狛犬は、その時代から延々と受け継がれてきたのでしょうか。

 

拝殿の中で、宮司さんと協賛者らしき方々が歓談しています。

 こういう光景は、見たことがありませんが、地域と繋がりが深いことが分かります。神紋は、左三つ巴で、扁額は八幡宮です。

 

百草八幡神社に成就祈願の貼り紙がありますが、御由緒も少し書かれています。

 

御由緒

 創建の年代は不詳です。康平5年(1062)、源頼義が奥州征伐に向う途中、当八幡神社に戦勝を祈願しました。建久3年(1192)には源頼朝が武運長久を祈願して、太刀一振を奉納したとされます。 明治36年 (1903)、百草鎮座の秋葉山大権現社、御嶽神社、稲荷神社を合祀しています。

 

御祭神です。

  誉田別命(ほんだわけのみこと)(応神天皇

  気長足姫命(おきながたらしひめのみこと)(神功皇后

  武内宿禰(たけしうちのすくね)

  源義家

 

本殿です。

 

 境内には巨木が多数あります。しめ縄がついている木が2本ありますが、どちらも御神木でしょうか。

 

社殿の後ろにもっと大きな「しいの木」がありました。

 

銅造阿弥陀如来坐像、4年ぶりの公開

 扨て、ここから本題です。金銅阿弥陀如来坐像の御開帳です。阿弥陀如来坐像は、社殿の右側の「阿弥陀堂」に安置されています。

 年に一度、祭礼の時に公開されていましたが、コロナ禍で4年ぶりに公開されたものです。なぜ神社に阿弥陀如来像があるのかという疑問ですが、そこには深い未だ解明されていない歴史があります。

 

阿弥陀堂の傍で展示されていた写真です。

 仏像の背面の写真が出てくるのは珍しいのですが、背面に刻まれた銘文が重要です。「真慈悲寺」の名前が出てくるためです。

 皇帝(後深草天皇)、日本主君(将軍藤原頼嗣)、当国府君(北条時頼)、子孫平安、両親の菩提を願い、建長二年(1250)施主の源氏某と願主の慶祐により、「真慈悲寺」に寄進されたことが記されています。

 

 そして、「阿弥陀如来坐像と真慈悲寺」、「真慈悲寺と『吾妻鏡』」という説明も展示されています。

 説明書きによりますと、「真慈悲寺は、11世紀末~14世紀世紀前半に存在した大寺院で、京王百草園内での発掘調査により13世紀代の瓦が多量に出土している。この寺が廃絶したあとも、阿弥陀如来坐像は百草八幡神社八幡神の本来の姿を示す仏像としてこの地に伝えられている」とのことです。

 

 また、鎌倉幕府の歴史書吾妻鏡』によると、真慈悲寺は、武蔵国にあった祈祷の霊場でした。1192年に源頼朝が鎌倉で営んだ後白河法皇の法要に、同寺から3人の僧を送ったとあり、有力寺院だったことが分かります。室町時代には姿を消し、専門家の間で謎の多い「幻の寺」とされています。

 成程よく分かりました。この阿弥陀如来像は、真慈悲寺が消滅した後、八幡神として百草八幡神社で安置されているようです。

 

 その他、百草園で出土された真慈悲寺に関連するものが写真展示されています。

百草仁王塚で出土した経筒(きょうづつ)です。経典を土中に埋納する際に、経典を納める筒形の容器です。

 

 百草園内出土の中世13世紀後半の瓦です。大型で厚く、軒平瓦を飾る「蓮華唐草文」が特徴です。

 

 境内社は、社殿の右手の奥に、また、遷宮記念碑があります。

境内社の鳥居です。

 

秋葉山大権現、稲荷神社、御嶽神社遷宮記念碑です。

 

鳥居をくぐると4基の祠が鎮座しています。

 

稲荷神社です。

 

秋葉山大権現です。

 

どちらかが御嶽神社と思われます。

 

そして、近くに「松連禅寺之碑」とその説明書きがあります。

 松蓮寺は天平年間(729~749)に建立されたといわれ、鎌倉時代に廃寺となっています。その後、享保年間(1716~1735)に小田原城主・大久保家によって徳川家康の長男・信康追悼のために再建されました。その時に整備された庭園が百草園です。

碑文には色々な歴史が書かれていますが省略します。

 

御朱印

 御朱印は、この神社では扱っていません。書置きのみですが、少し離れた多摩市の小野神社において頂けます。

この後、百草観音堂を拝観した後に、小野神社を参拝し、頂いて来ました。

所感

 急坂を登り、百草八幡神社に参拝しましたが、百草園とこの神社周辺は、歴史の宝庫だと云うことがよく分かりました。歴史から消えて行った二つの寺院、鎌倉時代が終わると共に消えた大寺院「真慈悲寺」、江戸時代に真慈悲寺の跡地に建てられ、明治時代初め神仏分離令により消えていった「松連寺」と謎が多過ぎます。

 そして現代において、残された「阿弥陀如来坐像」を百草八幡神社で拝観するという歴史の不思議です。

 

 阿弥陀如来坐像ですが、格子やガラスなどは無く、間近で拝観することが出来ました。堂内は暗いですが、傍に懐中電灯が置かれていて、それによって、よく観ることが出来ました。

 像高は40cm位と比較的小さな仏像ですが、光背や台座があるせいか、大きく見え堂々としています。全体に素朴で阿弥陀定印ながら、親しみやすさが感じられる仏像といった印象です。何より背面に由緒を伝える銘文が明確に刻まれて貴重で優しい良品です。

 当日の百草八幡神社は、参拝者が多く賑やかでした。お祭りみたいな雰囲気の中で、秘仏の御開帳が行われ、拝観出来たことは、私にとって初めてで貴重な体験でした。

 まだまだ百草園などこの周辺は、歴史巡りをするところが多数あるようで、機会をみて、この歴史の宝庫を散策したいと思います。

 この後、近くの百草観音堂に行き、そして、小野神社へと行きました。長くなりましたのでこの辺で、続きは後ほど。

                  おわり

札幌市藻岩山 麓の寺院 藻縁山「観音寺」

 今年の夏は、本当に暑かった。残暑と云うより本格的な夏が全国的に長く続いて、やっと秋の兆しが見えて来た感じです。札幌も例外なく暑く、藻岩山を苦戦しながらも登り、下山の後ゆっくり藻縁山「観音寺」を参拝することが出来ました。

 

観音寺の歴史

 明治14年、東京重願寺の大谷玄超上人は、札幌に浄土宗「新善光寺」を開山し、藻岩山に「西国三十三観音像」の安置を思い立ちました。明治18年、札幌県令より参道開削、観音像安置の許可を受け、現在の登山口から頂上に至る山道を開設しました。
 明治34年二代目住職林玄松上人は、山道脇へ観音石像を安置し、山麓観音堂、山頂に一坪の石堂を建立。その後、林上人の弟子の中田松念尼は、昭和7年、荒廃した観音堂に入山し、今日までの観音寺の母体を築かれました。

 昭和25年に、浄土宗「藻縁山 観音寺」の寺号公称がされています。

(観音寺のHPから抜粋)

 

 山門と観音寺と刻まれた文字です。

 

参道へ

 参道に入ると、右に観音像など多数並び、その奥に鐘楼堂や観音堂などがあります。また参道の左に知恩殿、本堂などが並んでいます。

 

左の門柱の後ろに巨大な「三面地蔵」が立っています。

 

右の門柱の後ろには、観音菩薩像や地蔵尊が並んでいます。

 

その奥に、平成14年に建立された 鐘楼堂があります。

 

北側にも門があり、駐車場も見えます。

 

観音堂

 境内中央に観音堂です。扁額は「普門」です。

 

内陣です。

 

 観音堂の右側に御詠歌の書いた掲示板があります。

     「百とせの 藻岩の山の観世音 慈悲とめぐみを 

      いく千代までも 南無観世音 南無観世音」

 

可愛い小地蔵さんもいます。

 

古代インド風な本堂

 そして、境内の左側の本堂です。昭和42年に、 鉄筋コンクリート造りで建てられました。御本尊の釈迦如来坐像が安置されています。

 

 どこかで見たことのある外観と思いましたが、既報の浄土真宗の「築地本願寺」です。インドの古代仏教建築を思わせる外観で、規模は違いますが、雰囲気は確かに似ています。

築地本願寺の本堂

 

本堂の左横の知恩殿です。

 

境内外観と境内の石像です。

 

そして、藻岩山の山頂で拝観した「奥の院」です。

藻岩観音奥の院の由来

  観音寺の歴史でふれたとおり、二代目住職林玄松上人が、明治33年に観音堂を建立、山道に観音石像を安置し、山頂に一坪の石の祠を建てたのが、奥之院の始まりです。

その後、石の祠は、改築を経て、平成4年現在の六角堂に新築されました。

 守り本尊として木製の「竜頭観音」が安置され、それまで安置されていた観音像は、「水かけ観音」として奥の院の傍らに安置されています。

 

龍頭観音と天井画の「奥の院

奥の院外観です。

 

奥の院の内部です。天井画が描かれています。

 

龍頭観音です。

 

水かけ観音です。

 

御朱印

 そして、寺務所に御朱印を頂きに行きます。大きな庫裡兼寺務所で、若い御住職が丁寧に対応して頂きました。

寺務所です。

 

寺務所内部の置物などです。

 

御朱印です。

 

所感

 境内は、開放的で、広々しており清新な空気が漂っていて、気分がすっきりします。三十三観音像は、この寺院から始まって、この寺院に戻って来ます。この観音寺の成り立ちが、代々の御住職の努力によるものと実感出来ます。

 

 明治時代に、東京から札幌に浄土宗新善光寺を開山した大谷玄超上人。藻岩山に西国三十三観音像の安置を思い立ち、現在の登山口から頂上に至る山道を開設しました。

 そして、その山道脇へ、観音石像を安置し、麓に観音堂、山頂に一坪の石堂を建立した二代目住職 

 また、無住の観音堂に入山し、今日までの観音寺の母体を築かれた上人の弟子の中田松念尼、とそれぞれの役割を果たして、この観音寺があるのだと思いました。

 藻岩山を登山しながら三十三観音像を拝み、この観音寺でまた参拝して終わるという、素晴らしい行程であったと感じます。

                       おわり

 

札幌市 三十三観音像の「藻岩山」登山

 4年ぶりでしょうか。毎年、両親の墓参り、小学校のクラス会などで札幌に行っていましたが、コロナ明け初めての札幌です。

 今年は、墓参りなどと共に、札幌市街から近い藻岩山登山を計画しました。藻岩山には、ロープウェイや自動車道が通り、札幌市民や観光客の行楽地となっています。

しかし、麓に観音寺という浄土宗の寺院を起点とする登山コースがあることで、登山としました。藻岩山各所に、西国三十三所観音霊場を模した三十三体の観音像が安置されている登山コースです。息子が札幌に単身赴任なので、一緒に親子登山となりました。

 藻岩山の登山コースは幾つかありますが、「慈啓会病院前コース」で、距離は、約2.9kmです。往復で2時間半位とのことです。

 

 先ず、観音寺の駐車場に車を置きます。

 わたしは、ススキノにホテルをとっていますが、そこから車で西へ12,3分という近さに、自然豊かな山があります。

 

慈啓会病院入口コースの登山口です。登山口には公衆トイレや水場があります。

 

「藻岩山ルート山頂付近」の案内板です。

 標高531mの藻岩山は、北側斜面が深い原始林で、1921年に北海道で第1号の天然記念物に指定されました。約100種類の樹木類と約450種類もの植物、約80種類の野鳥が生育しています、との説明やルートが記されています。

 

そして、「熊出没注意の掲示板」です。

 8/13にヒグマの目撃があったということです。道理で、これから会う登山者の殆どが鈴を鳴らしていました。ここの登山者は、常連で四季に応じ何度も登っているようです。

 

 扨て、いよいよ登山です。わたしは、低山ながら山登りは何十年ぶりかです。

 

直ぐに案内板です。山頂まで2.9kmです。

 

 早速、登山道に入って最初の観音像です。観音像横には御詠歌の歌碑があります。

 観音像の碑に何番目か刻んであるのですが、何故か「一番」ではなく「二番」です。帰りに確認しようと前に進みます。参拝道として切り開かれたのは明治19年三十三観音明治34年に、二代目住職によって安置されました。↓

 

「天然記念物藻岩原始林」の石碑です。藻岩原始林全体が天然記念物ということに驚きです。

 

三番、四番観音像で、歌碑もあります。



エゾマツ、センノキです。北海道の代表的な樹木です。

 

オニグルミです。下に、たくさんクルミが落ちていました。

 

何の木か分かりませんが、相当古い大木のようです。

 

五、六番観音像

 

 

倒木です。

 

七番観音像は、倒木の下に、上手く合わせて安置されています。

 

八、九番観音像

 

少し開けた「日本初のスキーリフト跡地」がありました。

 1946年に日本で初めてのリフトを備えたスキー場が、藻岩山に設置されたようです。広場のようで休息のポイントです。

 

 クマゲラが空けた穴でしょうか。北海道に生息するクマゲラは、日本最大級のキツツキの仲間です

 

十番観音像

 

山道の途中に、札幌の街並みが見えます。

 

十二、十三観音像

 

この辺りから登り坂が急になって、きつくなりました。

 

もう少しで「馬の背」です。

 

 

そして、何とか「馬の背」分岐点に到着しました。

ここで、旭山記念公園、小林峠のコースと合流します。藻岩山山頂は、左へ1.1kmです。

 

標識の傍らの十八番観音像です。

 

そして、この辺にベンチが幾つかあり休息します。              

 

休息後、出発します。山道から札幌市の市街がはっきり見える所があります。

 

 徐々に岩が見え始め勾配が急になります。転ぶと怪我の恐れもあるのでゆっくり進むのですが、この辺りでバテバテです。少し歩いて、また休息をとるという有り様です。

 

岩むき出しの急勾配の山道が続きます。

 

三十一番、三十二番観音像です。

 

 そして、いよいよ山頂です。険しい登山道を登り切って、ようやく山頂に辿り着きました。

 

 展望台へ上がります。展望台から札幌市街の眺望です。

 

左のこんもりした緑が円山です。

 

やや上の緑の帯が北大の構内です。

 

やや上、左が「札幌ドーム」です。

 

市街の反対側の眺望です。恵庭岳などが見えます。

 

展望台の下に、麓の観音寺の奥の院が見えます。

 

展望台にある「幸せの鐘」です。

 

 展望台からの眺望を終え、昼食を済ませ下山に向かいます。岩場、階段に滑らぬよう気を付け、下山はスムーズでした。

 

 「一番観音像」と「三十三番観音像」は、遂に藻岩山にはありませんでした。実は、麓の観音寺にあったのです。観音寺の一番観音像から出発し、観音寺の三十三観音像に戻るというしかけになっていました。

一番観音像は観音寺の門前の駐車場脇にあります。橙色の矢印、歌碑に刻まれています。

 

そして、三十三観音像は、観音寺の山門をくぐり、直ぐ右側にあります。橙色の矢印の観音像に刻まれています。これで完結となります。

 

所感

 わたしは、学生時代のクラブ活動で、北海道の山をかなり登って来ました。札幌近郊の無意根山、空沼、札幌岳そして羊蹄山暑寒別岳大雪山系の旭岳、トムラウシ、知床の羅臼岳日高山脈幌尻岳、エサオマントッタベツ、カムイエチカウシ岳など、思いついた山がすらすらとでて来ます。

 よもや、541mの藻岩山にこんなに苦戦するとは予想だにしなかったのです。歳を重ねては、昔取った杵柄も通用しませんでした。やはりどんな低山でも登山は登山であると痛感した次第です。

 

 確か、冒険家の三浦雄一郎氏が、65歳のとき、藻岩山登山ですら不摂生のため息切れしたと云います。そのため体力を回復させ、5年後の70歳でエベレスト登頂の目標を立て成し遂げた話を聞きました。わたしは、その時のカトマンズの壮行会で三浦氏と話したことを思い出します。三浦氏はその後、75、80歳でも世界最高齢エベレスト登頂に成功しています。また、最近、90歳で車椅子富士山頂に到着しています。生涯の冒険家ですね。

 

 今回の藻岩山登山者の皆さんは、常連なのか、登山ウェアを着て、ヒグマ避けの鈴を鳴らし、トレッキングポールを持って歩いている方が多かったです。

 わたしの登山時代には無かった、ストックみたいなトレッキングポールは、便利な感じがします。登り、下りの他岩場でバランスをとるにも良いようです。折りたたみ式の物もあるようなので使ってみたくなります。

今度は、体力を考え準備して、もう一度挑戦しようかと考えています。

 

観音寺、そして山頂の奥の院にも参拝し、御朱印も頂きましたが、次回に報告させて頂きます。無事に戻れて良かったです。有難うございました。

                    おわり

新宿区北新宿 鎧(よろい)伝説、狛犬型庚申塔の「鎧神社」

 都心新宿区の寺社散策が続きます。今回は円照寺から北東に1分位の「鎧(よろい)神社」です。

鎧神社の正面の鳥居と社号標です。

 

参道に入ります。正面に社殿が見えます。

 

左手に手水舎です。迫力のある龍がいます。

 

参道を進みます。右手の先には神楽殿、左には神輿庫が並びます。

 

社殿へ

 拝殿です。昭和20年(1945)の東京大空襲によって旧社殿が焼失し、その後、昭和29年(1954)に拝殿が再建されます。

 

 拝殿前の阿吽の狛犬は、昭和11年(1936)に奉納されています。結構大型で正面を向いて置かれて、迫力があります。

 

拝殿正面です。社紋は左三つ巴、扁額は、鎧神社です。

 

御由緒

 鎧神社の創建は、約1100年前に遡ります。 醍醐天皇の時代(898~929)、薬師如来像がこの地に祀られ、円照寺が創建されました。 当時は、神仏習合の時代で、寺の鬼門鎮護のため鎧神社が、創建されたと伝えられています。

 また、創建以前から、伝説があります。日本武命が東国の平定に向かったとき、この地に甲冑六具を納めたというのです。

 鎧にまつわる話はこれだけではありません。 天慶三年(940)、平将門公が藤原秀郷に討たれると、その死を悼み、天暦元年(947)、将門公の鎧もまたこの地に埋めたと云われています。

 また、一説によると、将門公を討った後、重病となった藤原秀郷が、 将門公の神霊の崇りと恐れ、円照寺に参詣し、将門公の鎧を埋め、祠を建ててその霊を弔ったのです。すると、病気が忽ち治ったと言われ、それを聞いた人々は、その御神徳に恐れ畏み、村の鎮守の社としました。

 これらのことから、「鎧」の社名が起こったと伝えられています。伝説の社として、今も静かに人々の暮らしを護っています。(鎧神社公式サイトより抜粋)

ご祭神は、

日本武命(やまとたけるのみこと)、

大己貴命(おおなむちのみこと)、

少彦名命(すくなひこなのみこと)、

平将門公(たいらのまさかどこう)

の四柱です。

 

 本殿は昭和36年(1961)に再建されています。拝殿と本殿が別棟となり、渡り廊下で繋がる形です。

 

 拝殿の右前には比較的新しそうですが、立派な松があります。その右端に、「兜松之碑」と書かれた石碑があります。

伝説の将門の鎧は、拝殿前の松の下と伝えられているそうですが、この松でしょうか。

 

 拝殿を後にして、いつも狛犬を後ろから見るのですが、拝殿を背にした狛犬です。前から見ると怖いのですが、後ろは哀愁を帯びた姿です。

 

社殿の左奥から、裏参道の鳥居と赤い鳥居が見えます。

 

 もう一つの鳥居です。社殿の左手裏に出る参道に繋がります。

境内から。鳥居に平成8年の記述があります。

 

外から。正面と変わりなく社号標もあります。

 

 阿吽の狛犬で、どちらも子供を撫でています。破損があり修復跡が残りますが、とても表情が柔らかいです。

 

その左手にある境内社です。朱色の鳥居をくぐり参拝します。

 

稲荷神社、三峯神社、子の権現の三神が合祀されています。

 

合祀殿の前のお狐さんです。

 

珍しい狛犬庚申塔

 そして、正面の鳥居の左手に、境内社があります。「天神社」の鳥居です。西新宿にある成子天神社の元の社です。

 

狛犬庚申塔は、ここに祀られています。両端にいます。

 

 狛犬庚申塔です。素朴な一対の狛犬を用いたものです。側面に、享保六年(1721)の記念銘が記されています。

向かって右側が阿形像、左側が吽形像で、当時の姿をそのまま残しています。狛犬型の庚申塔は、大変珍しく民俗学的にも貴重なものです。

狛犬庚申塔の説明掲示板の抜粋)

狛犬庚申塔の説明掲示板です。

 

天神社の奥に石碑が並んでいます。

 

 この鎧神社にもイチョウなどの大木が目に留まります。

 

御朱印

 御朱印を頂くため拝殿の右手にある社務所へ行きます。

御朱印は、正面の社務所で頂きました。

 

所感 

 鎧神社は、広々としゆっくり見ることが出来ました。日本武命と平将門の鎧が眠っているという二つの伝説がある鎧神社、本当に良い神社でした。

日本武命の鎧は兎も角、平将門の鎧については、信憑性があると感じます。

 

 また、天保年間に発行された『江戸名所図会』に当時の様子が描かれています。

 図上に「鎧明神社」として描かれて、兜枩も中央に描かれています。(枩は松です。)

図下は、、当時の別当寺の「圓照寺」として描かれています。本当に江戸時代までの神仏習合は、結びつきが深いことが伺えます。

 

 そして、「狛犬庚申塔」です。今まで、申は、干支で猿に例えられるので三猿の彫った庚申塔を見ることが多かったのですが、狛犬の形をした庚申塔を初めて見ました。全国的に他にあるのでしょうか。貴重な珍しいものを見ることが出来たと思います。有難う御座いました。

                  おわり

東京都新宿区北新宿 「右衛門桜」ゆかりの地「円照寺」

 都心の寺社散策が続きます。今回は新宿区上落合の「月見岡八幡神社」から10数分移動し、北新宿にある「円照寺」です。途中に神田川があり、「きれいばし」を越えます。

 

 神田川を越え、そのまま北へ行くと円照寺の山門が見えてきます。山門の前に石柱があります。真言宗豊山派の寺院で弘法大師の名前が刻まれた石柱です。横に、「伝説 柏木右衛門桜ゆかりの地」の石柱もあります。

 

 右側に寺号標です。真言宗豊山派 医光山 円照寺」と刻まれています。文字の下に蓮の花が二段に透かし彫りです。

 

 綺麗な参道が続きます。左側は牡丹棚になっており、春の見頃に楽しめそうです。

 

 途中に「円照寺案内」の説明掲示板があります。宗派、本尊:薬師如来真言宗の教えなどの説明が書いてあります。

 

 山門です。山門から本堂、枝垂れ桜が見えます。

 

 山門から境内に入ると本堂の前の「枝垂れ桜」の大木が絵になります。

この枝垂れ桜は右衛門桜とは違うようです。

 

御由緒

本堂です。堂宇は幾度も焼失し、現在のものは戦後に建てられました。

 

 円照寺は、正式な名称を医光山瑠璃光院圓照寺と云います。平安末期、関東一帯で起こった「平将門の乱」を平定した伝説の武将、藤原秀郷によって建立されました。

 本尊には、奈良時代の名僧、行基菩薩によると伝えられる「薬師如来像」が安置されています。
 また、昔より桜の御寺として名高く、境内に植えられていた「右衛門桜」は、「江戸の三桜」に数えられます。残念ながら、右衛門桜は太平洋戦争の戦火で焼失しました。

(円照寺公式サイトより抜粋)

 

円照寺の梵鐘

 本堂へ行く参道の右側に区の登録有形文化財に指定されている梵鐘があります。

 

「円照寺の梵鐘」という説明掲示板があります。

 江戸鋳物師、西村和泉守藤原政時が、寛政2年(1790)に製作しました。精巧に仕上げられた梵鐘で江戸鋳物師の技術的特徴が良く表わされています。太平洋戦争中の金属供出により現存数が少なく、大変貴重です。

 (説明掲示板より抜粋)

  

無縁塔

 本堂の横に「弘法大師壹千百五十年御遠忌記念改修無縁塔」という文字が刻まれた石碑があります。

 

大掛かりな無縁仏を集めた無縁塔です。

 

頂点が不動明王です。

 

 不動明王の脇侍を務めるのが、八大童子矜羯羅童子(こんがらどうじ)と制多迦童子(せいたかどうじ)のようです。一段下の両脇です。

 

 そして、その下の中央に、舟型光背の地蔵菩薩立像があります。光背の左に、明暦2年(1656)11月の年代が刻まれています。穏やかな顔つきの仏像です。その右上に如意輪観音像もおります。

 

像群の下には六地蔵尊です。

 

境内には、その他石像があります。聖観世音菩薩像です。

 

地蔵菩薩半跏像です。

 

地蔵菩薩像です。

 

その横に、宝篋印塔もあります。

 

閻魔堂

 そして、本堂の横には、閻魔堂があり、閻魔様が祀られています。

 

光って見にくいですが、閻魔様のやや右下に奪衣婆(だつえば)もいました。

 

境内で目に付く「大木」と「鬼瓦」

 境内には、銀杏や桜などの大木があちこちにあります。

銀杏の木

 

サクラの木

 

また、鬼瓦、鴟尾(しび)といったものが目に付きます。

鬼瓦

 

鴟尾も置いてあります。旧本堂のものでしょうか。

 

御朱印

御朱印は、本堂に続く正面の庫裡玄関で頂きました。

 

庫裡内部です。

 

本尊「薬師如来」の御朱印です。

 

所感 

 円照寺は、境内が整然として、よく草花や大木の管理が行き届いている印象でした。また、シャクヤクやサクラ、紫陽花など四季によって楽しめるように考えて植えられています。この寺院の散策も気持ちよくすることが出来ました。

 

 この円照寺を建立した藤原秀郷は、武勇に優れ、弓の名手でもあります。由緒に記述した通り朝廷に謀反を起こし挙兵した「平将門」を討伐した人物としても知られています。

 天慶3年(940)、藤原秀郷が将門を討伐するため出陣しましたが、病にかかり伏してしまいます。伏したとこで、霊示があり、それに従って祈ったところ、苦痛はなくなります。将門討伐の祈願もして出陣し、その願いも達成されます。喜んだ秀郷は、凱旋の後、ここに堂塔を建立し、圓照寺としたということです。

 また、藤原秀郷については、琵琶湖を舞台にした伝説があります。琵琶湖に住む龍神の姫が、度々襲ってくる百足に苦しめられており、秀郷に退治を依頼。秀郷は得意の弓で見事、百足を退治したのです。画面左に龍神の姫と思しき人物がいます。

藤原秀郷竜宮城蜈蚣射るの図」(月岡芳年画『新形三十六怪撰』より)

「蜈蚣」も古くから「むかで」と読むそうです。作者の「月岡芳年(つきおかよしとし)は、江戸時代末期から明治時代にかけて活躍した浮世絵師です。

 このように、円照寺に関する右衛門桜、そして藤原秀郷の物語は、調べれば調べるほど面白いものです

                      おわり

東京都新宿区上落合「月見岡八幡神社」 落合富士と 最古の庚申塔

 都心の寺社散策、今回は新宿区上落合の「月見岡八幡神社」(つきみがおかはちまんじんじゃ)です。

 

 東西線落合駅」の早稲田寄りの出口から5,6分のところにあります。左端の社号標です。「古蹟 月見岡八幡神社」と刻まれています。 

 

月見岡八幡神社の鳥居です。写真のとおり神社の扉は閉まっています。

 

阿吽の狛犬です。阿形の狛犬は、子供を撫でるようなしぐさです。

 

 鳥居の右手に、神社の境内にある「有形民俗文化財」の説明掲示板があります。庚申塔、谷文晁の絵、鰐口が指定されています。

 

 

御由緒

御由緒が書かれた説明掲示板です。

 創建年代は不明ですが、源義家が奥州征伐の時参詣し、戦勝を祈念して松を植えたとの伝承があります。そのことから11世紀中期には既に存在していたものと推測されています。

 社名の由来は、旧境内地に湧井があり、その水面に月光が綺麗に写ったので、村人が自然にそう呼んだと云います。明治39年に北野神社、昭和2年には浅間神社富士塚を合祀しました。

御祭神は、

 品陀和気命 (ほむだわけのみこと:応神天皇

 息長帯比売命(おきながたらしひめのみこと:神功皇后

 大雀命     (おほさざきのみこと:仁徳天皇

 の3柱です。

御利益は、厄災除け、安産、家内安全、地域安全、身体壮健です。

 

境内へ

 門が閉まっている神社は初めてでしたが、扉に、「お願い 庭が痛まないよう石畳の上を歩いて下さい。」との掛札があったので開いて一礼して入りました。

社紋は、多くの神社の「左三つ巴」と思ったのですが、よく見ると珍しい「水巴紋」です。

 

境内に入ると、参道は右斜めに延び、その先に社殿です。

 左側に神楽殿、右側が保育園となっています。保育園があるので、入口はいつも閉まっているようです。元気な声が聞こえてきます。

 

直ぐ左側に手水舎があります。

 

拝殿へと進んで参拝します。

 

扁額は月見岡八幡神社です。

 

社殿の左側にも出入口があります。傍に笑福稲荷大明神の赤い幟が見えます。

 

境内社の「笑福稲荷神社」です。笑福とは目出度い名前です。

 

社殿内にも立派な彫刻が施されています。正面の中にも小さなお狐さんが見えます。

 

右側面です。光って見えにくいですが、見事な彫刻です。

 

足元のお狐さんです。結構穏やかな顔です。

 

 笑福稲荷神社の後ろに「庚申塔」、右側に浅間神社があるのですが、少し入りくんでいます。

 

右側の浅間神社です。

 

浅間神社と社殿の間を通り、浅間神社の後ろに回って、冨士塚の方へ行きます。

 

庚申塔と落合富士

冨士塚の入口です。ここも門が閉まっています。

 

開けて入りますと笑福稲荷神社の後ろの庚申塔がよく見えます。

正保4年(1647)に造立された区内最古の庚申塔で、宝篋印塔形です。

 

そして、「落合冨士」と称されている冨士塚に登ります。道は狭く険しいので気を付けて登ります。

 

直ぐに道の左に、洞穴に入っている山岳信仰の行者のような石像があります。背中に翼があるので「烏天狗」のようでリアルです。

 

尚も登ります。

 

程なく祠が見えてきます。

 

拝んで直ぐに下ります。

 

下に、また烏天狗と中央に石碑があります。

 

左右の烏天狗

 

石碑には、「小御岳 石尊 大権現」の文字が刻まれています。

 

更に、猿の母子像もあります。

 

そして、また門を開けて富士塚を後にします。

 

今度は、社殿の右側に移動すると立派なクスノキとその前に鳥居があります。

 

鳥居からクスノキの後ろにある境内社が見えます。中央が天祖神社、左が北野神社、右が足王神社と道祖神社です。

 

天祖神社と北野神社です。

 

そして、足王神社と道祖神社です。その前に狛犬がいます。

 

足王神社と道祖神社です。

 

そして、長い間神社を守っている、修復された健気な阿吽の狛犬です。

 

御朱印

 最後に御朱印です。社務所にて御朱印を頂きました。

社務所

 

御朱印

 

所感

 月見岡八幡神社は、平安時代から続く古跡だけあり、有形民俗文化財指定の庚申塔、落合富士と呼ばれる富士塚、数多い境内社など、見所満載の神社でした。

境内に幼稚園があるためか、門は閉まっており、気を使っていることが伺えます。境内に子供たちの元気な声が聞こえてきますが、それも心地良い感じです。

 

 「有形民俗文化財」に庚申塔、谷文晁の絵、鰐口が指定されていますが、庚申塔のみ見ることができます。

都内には、三猿の描かれた庚申塔などが多く、珍しくありませんが、こちらは「宝篋印塔形」の庚申塔で初めて見ました。

宝篋印塔(ほうきょういんとう)は、墓塔、供養塔などに使われる仏塔の一種です。

説明掲示によると、区内最古の庚申塔で、高さ184.5cm、石質は安山岩ということです。

 「谷文晁の絵」は、旧社殿の格天井に描かれていた板絵三十数枚のうちの一枚です。この一枚は、取外されていたため戦災を免れたそうです。

 また、天明5年(1785年)に奉納された「鰐口」は、社寺の礼拝所にかけ縄等で打ち鳴らす仏具の法楽器です。明治時代の神仏分離令により、仏具を持つことが禁止されたため、鰐口は行方不明でしたが、昭和7年(1932)に北海道で発見され、再奉納されました。

この二つは、奇跡のような話で非公開のようです。

 

 そして、富士塚です。元々は、浅間神社にあり、大塚という古墳を利用して造られたもので、「落合富士」と云われました。寛政2年(1790)に造られましたが、昭和2年の同社の移転時にとり壊されて、移築されたものです。大変な苦労があったと思われます。

 それ程広くない境内にここまで見応えのあるものをレイアウトしたことに驚きました。

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世田谷区「烏山寺町」 寺町の北の外れ「高源院」

 世田谷区「烏山寺町」の散策は、今回で終わりとなります。烏山寺町の一番北に位置するのが、今回のテーマ「高源院」です。境内には鴨池と呼ばれる「弁天池」があることで知られています。

 高源寺の山門です。寺町の多くが少し殺風景な石造りの石柱門ですが、ここも同様です。

 

見事な庭園

 境内に入ると綺麗に整理された庭園が広がっています。

 

 本堂まで蓮の鉢が並べられ、丁度咲く寸前の時期なのか、ピンクと白色の蓮の花が咲いていました。

 

 本堂です。

 御本尊は、釈迦如来座像で足利時代の作と云われるが詳細は不明です。「方丈」の扁額がかかります。

 

御由緒

 臨済宗大徳寺派の高源院は、久留米藩第5代藩主有馬頼元公の夫人(養福院高源宗隆大姉)を開基とします。元禄15年(1702)怡渓宗悦(いけいそうえつ)和尚が開山し、品川神社の隣に東海寺の塔頭(たっちゅう)として北品川に創建されました。

 関東大震災により廃寺となったものの、昭和10年、有馬氏一族有志が再建を図り、昭和14年、現在地へ移転したと云います。

 寺院の名前の由来は、有馬頼元夫人の法号から名付けられたとされており、境内に「養福院殿高源宗隆大姉」の墓があります。

 

 その隣にも同じような墓があり、この寺院の関係する人物の墓と思われます。二つの唐破風笠位牌型の形式の墓は、あまり見かけません。

 

弁天池と浮御堂(弁天堂)

 本堂を通り過ぎ少し行くと、木々の間から弁天池(鴨池)が見えます。

 

 鴨池は結構広いのですが、寺が移転して来たときに、湧水の地点を掘り下げて大きな池を造り、「浮御堂」を中央に建てたそうです。赤い橋と浮御堂が目立ちます。

 

 弁財天を祀る浮御堂です。

 

 内部です。琵琶を左手に持ち、立っている弁財天を初めて見ました。

 

 今夏の猛暑で、蓮池の水がかなり少なくなっており、水蓮などは咲いていませんでした。

 

 鴨池の中の錦鯉も水が少なく困っているようです。

 

 鴨はこの季節はいません。秋も深まると、たくさんの鴨がシベリアから飛来し、池で冬を越します。春になると子供を産み、夏の前には一家揃って再び北国へ戻っていったと思われます。

 弁天池は、目黒川(烏山川)の源泉となっていること、湧水によって水が蓄えられているといった環境から「烏山弁天池特別保護区」に指定されています。

 

境内をもう少し見て行きます。草木の間の石像です。

 

十三重石塔です。

 

 灯篭の前で咲くハイビスカスが綺麗でした。

 

御朱印

 最後に御朱印です。本堂と棟続きで庫裡がありますので、そこを訪問しました。

 

 御住職にお願いし、快く書いて頂きました。「釈迦牟尼仏(しゃかむにぶつ)」です。

 

所感

 先ず驚くのは、東京の都心でこのような大きな池があるということでした。せたがや百景43「烏山の鴨池」に指定されているようです。

 カルガモなどがこの池で冬を越すと云いますから、この周辺の住民にとって絶好の散歩コースとなっているのかと感じます。鴨の飛来する冬の時期にでも来たいと思います。

 高源院の元々あった場所である品川神社裏に建てられた板垣退助の墓は、寺院が寺町に移転した後も高源寺の飛び地のように残されているようです。そこも一度訪れたいと思います。

 烏山寺町の最後に、印象に残る寺院を見ることが出来ました。有難う御座います。

                                                                        おわり