東京都杉並区 歴史と自然の共存「和泉熊野神社」

 東京都杉並区の寺社の散策が続きます。今回は、京王井の頭線沿線「龍光寺」の直ぐ北側にある「和泉熊野神社」です。

 

 正面の一の鳥居の前です。右側に「熊野神社」と刻まれた社号標があります。

 

和泉熊野神社の御由緒の説明板です。

 

和泉熊野神社の御由緒

 和泉熊野神社は、旧和泉村の鎮守です。社伝によれば、文永4年(1267)に紀州熊野神社の分霊を祀ったのが当社の創建で、弘安7年(1284)に社殿を修造し、その後北条氏綱が上杉朝興と戦い江戸城を攻略した際にも、大掛かりな改修を加えたと伝えられています。
 江戸時代には寛永16年(1639)と元禄9年(1696)の両年に社殿の改修をおこなったことが、棟札によってわかります。現在の社殿は文久3年(1863)の造営で、明治4年に修覆したものです。

御祭神

 天御中主命(あめのみなかぬしのみこと)

 伊弉諾命(いざなぎのみこと)

 伊弉冉命(いざなみのみこと)

              以上 杉並区教育委員会掲示より

 

鳥居から境内へ

 一の鳥居です。直ぐに2つ目の鳥居が見えます。扁額は「熊野神社」です。

 

二の鳥居です。奥に石段の上、三の鳥居が見えます。

 

三の鳥居です。木製のこの鳥居をくぐると石段があり、その奥に社殿が見えてきます。

 

石段を上がると直ぐに狛犬がいます。

 

今来た参道を振り返ると、高台になっているのが分かり、狛犬、三の鳥居が見えます。

 

社殿にて参拝

そして、社殿の方へ進みますが、先ずは手水舎で心身を清めます。

 

拝殿です。手前の狛犬がしっかりとした大きな造りです。

 

拝殿正面です。社紋は「左三つ巴」。上部の龍の彫刻が見事です。

 

右側から社殿を撮ると、庫裡と棟続きになっています。

 

御神木のクロマツ

 社殿の左側には大きな御神木がそびえ立っています。「クロマツ」で、徳川家光が鷹狩りの途中に休息した時に植えたと伝えられています。右側が直ぐ本殿です。

 

杉並区指定「天然記念物」の標柱が建っています。

 説明欄には、「和泉熊野神社クロマツ1本」の表題です。

 社殿横の本クロマツは、幹周3.1m、根元周囲6.3m、樹高(目測)は17mあり、樹齢は350年以上と推定されています。クロマツは俗に雄松と呼ばれ、アカマツに比べて大形で葉は大きく、樹皮が黒褐色をおびています・・・云々。

 

 境内全体の景観です。左側の社殿の左側の木が「クロマツ」です。

 

境内の東側には神楽殿があります。

 

この神社の東側に幼稚園が併設されていて、園児が境内を見て回っています。

 

境内社

 社殿の両脇には境内社があります。
左側に「北野神社・御嶽神社・山神社」の三社が合祀されている末社があります。

 

祠の前に狛犬です。

 

祠です。中に小さな狐さんもいます。

 

社殿の右側に「稲荷社」があります。

祠の前の狛狐です。

 

 

御朱印

最後に社務所にて御朱印をお願いしました。社務所はこちらです。

 

御朱印は、熊野神社ということで、「八咫烏」が右上にいます。

 

パンフレットも頂きました。

 

おわりに 

 和泉熊野神社の創建は、文永4年(1267)と云いますから北条氏の鎌倉時代と古いです。しかも、境内からは縄文時代の土器、石器、古墳時代の土師器などが出土しています。この地域は、神田川沿いの高台であり、古代から人間の生活に適した地形と思われます。

 現在は、都心の住宅街にありますが、境内は広く、樹木が豊富でここだけ別世界のこんもりとした森の中です。近くの幼稚園の園児が境内を庭のように歩き回り、本当に神域を感じさせるような神社でした。

                    以上

東京都杉並区の古刹 神田川沿いの「龍光寺」

 東京都杉並区の寺社散策が続きます。今回は、真言宗室生寺派の「龍光寺」です。

 

 前回の「永福稲荷神社」から北東方向へ、京王井の頭線を越え「神田川」沿いに歩いて10分位の所にあります。神田川は、区内の散策で中野区から新宿区、文京区、千代田区とよく出会います。神田川の源流は、井の頭公園の池です。

 

石柱門から山門へ

 山門の前に、龍光寺の石柱門が建っています。右側に山号の「泉涌山」、左側に寺号の「龍光寺」の文字が刻まれています。

 

石柱門を入ると直ぐ左には石庭があります。

 

巨大な石燈籠があり、「大師灯籠」と呼ばれているようです。

 

石柱門の直ぐ右の二階の建屋が、大師堂です。

 

参道を進むと石段があり、山門まで少し距離があります。

 

石段を登ると山門です。

 

龍光寺の縁起

山門の脇に、由緒書きがありました。

 

 龍光寺は泉涌山医王院と号する「真言宗室生寺派」の寺院です。開創は、明治10年の書上げによると承安2年(1172)とされ、開山は寺伝によれば「龍観和尚」と伝えられています。
 山号の「泉涌」は、和泉の地名の由来ともなった貴船神社の泉に、院号の「医王」は、本尊の薬師如来に因むものといわれています。

また寺号の「龍光」は、当寺のすぐ下を流れる神田川の源、井之頭池にすんでいた巨大な竜が、川を下ってきて、この付近で雷鳴をとどろかせ、光を放って昇天したことに由来すると伝えられています。
 江戸時代、当寺の本尊は難病に御利益がある薬師如来として信仰あつく、護摩の煙が絶えなかったといわれています。

 

本堂

山門をくぐり本堂に行きます。

 

本堂です。

 

本堂の扁額は「瑠璃殿」です。

薬師如来の正式名は、「薬師瑠璃光如来」と云うので「瑠璃殿」と名付けられます。

 

本堂の前に「当山本尊薬師如来」と刻んだ石碑が建てられています。

 

 本堂の左手前には観音堂があります。如意輪観音を祀ってあるようです。

 

鐘楼

 鐘楼です。戦時中の供出があった梵鐘に寛保2年(1742)銘がありましたが、現在の梵鐘は、昭和29年に造られたものです。

 

四国八十八箇所和泉霊場

 龍光寺の境内の西側に、「新四国八十八箇所和泉霊場」があります。四国八十八ヶ所霊場巡りを模して作られたものです。

 

しかし、開放されるのは土、日曜日のみのようで閉まっていました。

 

中を隙間から見ると、こんな感じです。

 

石仏群 供養塔と庚申塔

 新四国八十八箇所和泉霊場の北側には、多数の石仏があります。供養塔、庚申塔のようで刻まれた年代から江戸時代のものと思われます。

 

この中で目をひくのが地蔵菩薩坐像です。顔の表情が石造とは思えないリアルさです。

 

 また、庚申塔もあります。笠位牌型の庚申塔で、元禄14年の文字が刻まれて、下に三猿が彫られています。

 

 もう一つ駒型の庚申塔があります。お地蔵さんの後ろです。四臂の金剛像が、邪鬼を踏みつけており、その下に三猿が彫られています。これは、珍しいです。

 

如意輪観音の石象もあります。

 

御朱印

 最後に御朱印です。庫裡に伺います。若い僧侶が丁寧な対応をして頂きました。

庫裡玄関。


庫裡の内部。

 

 

おわりに

 杉並区という都心にありながら、予想以上に大きい寺で驚きました。御本尊の「薬師如来立像」は、平安時代末期(12世紀前半)に造立されたもののようで、拝観したいものです。

 境内は、清掃も行き届き気持ちよく参拝することが出来ました。庫裡の中も綺麗にランの花が飾られ整頓されており、若い僧侶は、この上なく丁寧な対応をして頂きました。わたしが去るまで深くお辞儀をしていたのが印象的でした。
                     以上

永福寺と隣接した「永福稲荷神社」秀天和尚の創建

 都区内の寺社の散策、杉並区の続きで永福寺の直ぐ西側にある「永福稲荷神社」です。

 

 既に記述した永福寺「五輪庚申供養塔」の向かいに永福稲荷神社の社殿が目に入ります。

神社の東側ですで、正面の鳥居のある西側に回ります。

 

 正面の一の鳥居の前です。右側に「永福稲荷神社」と刻まれた社号標があります。

 

永福稲荷神社の御由緒

 永福稲荷神社は、社伝によれば、享禄3年(1530)永福寺の開山、秀天(しゅうてん)和尚が、永福寺境内の鎮守として京都伏見稲荷大社より「宇迦之御魂大神(うかのみたまおおかみ)」を勧請創建しました。

 寛永16年(1639)の検地の際に、永福寺村持ちの鎮守になったと云われています。

明治維新後、永福寺から分離して一社となり、今日に至っています。

 御祭神宇迦之御魂大神 食物の神

杉並区の歴史の書かれた説明掲示板がありました。

 

鳥居から境内へ

 一の鳥居です。扁額の文字がよく見えませんが、稲荷神社と書かれています。

 

一揖して入ると、向こうに紅い「二の鳥居」が見えます。

 

二の鳥居です。正面に社殿です。

 

二の鳥居を入ると、左手に手水舎です。

 

社殿

永福稲荷神社の社殿です。

 

社殿の前、子狐を抱えたお狐さんです。

 

拝殿です。

 

拝殿正面、社紋は、稲紋です。

 

拝殿に掲げられている扁額です。

 

左側から見た社殿全体景観で、稲荷神社らしく紅い幟が目を引きます。

 

こちらは、永福稲荷神社の本殿です。

 

社殿の前の御神木です。イチョウの木のようです。

 

境内社

 永福稲荷神社には、幾つかの境内末社があります。社殿の傍に「天神社」が鎮座しています。

御祭神:菅原道真公、

御神徳:学問の神

 

境内北側には、三社並んで境内社があります。

 

左から白鳥社。

 

そして、天王社、白山社です。

 

北側の鳥居

境内の北側にも鳥居があります。

 

鳥居の両脇にもお狐さんがいます。少し不気味な感じがしますが。

 

御朱印

最後に社務所にて御朱印をお願いしました。

序に竜の置物も頂きました。

 

おわりに 

 江戸時代までは隣接する永福寺の境内に鎮座していたという永福稲荷神社です。永福寺を開山し た秀天和尚が、伏見稲荷より、永福寺の伽藍鎮守として勧請したと云います。

 それが神仏分離令により独立し、立場が逆転、明治11年(1878)村全体を護るようにと社殿が西向きに建て直されたのです。その当時の永福寺は、全国の寺院と同じように衰えたと思われます。

 しかしながら現在は、永福寺、永福稲荷神社ともに成り立ち、やはり日本の寺社は神仏習合が合うようです。

 このような寺社の形態は、日本のいたる所に見受けられると思います。

                      以上

春のきざしの生きものたち 多肉植物の成長と柴犬の日常

 春のような暖かい日からまた冬に逆戻り、という寒暖差が激しい日が続いています。身近の生きものたちも少し戸惑っていると思いますが、どうでしょうか。

 

元気いっぱいの多肉植物

 今年の冬は天気の良い日が続き、家に入れた多肉植物は、大きく成長しました。水は殆ど与えていませんが、太陽の光だけで成長するのには驚きです。小さな鉢に育てて来ましたが、鉢も小さくなったので大きな鉢に幾つか集めて、寄せ植えをしました。

 

中央の上部に「エケベリア」という多肉植物です。

 ベンケイソウ科エケベリア属で、メキシコなど中南米が原産です。まるで花びらのように広がる肉厚な葉が特徴です。一株が二株に増えています。

 

左にぷにぷにとした姿が可愛い半透明の「ハオルチア」です。

 

 下の方にまるっとした葉がコロコロついているのが、「セダム ジェットバース」です。葉がぽろっと取れ易いのが難点ですが、落ちた葉がまた根付くのです。

 

寄せ植えは、配置、土の入れ方など、なかなか難しいものです。

他の多肉植物です。銀手毬(ギンテマリ)に可憐な花が咲きました。

銀手毬は、小さなサボテンで白いとげに覆われ、造形が綺麗です。

 

 他の「ハオルチア」です。葉の中から枝を伸ばそうとしています。これがぐんぐん伸びていき、薄いピンクの地味な花を咲かせます。

 

 カネノナルキ(金のなる木)が白い花を咲かせました。これも、薄いピンクの花です。葉が硬貨に似ているのが、名前の由来のようです。

 

 子宝弁慶草(コダカラベンケイソウ)も多肉植物ですが、これもたくさん花を咲かせました。

 

 寒さに強い「上海ローズ」です。小さい芽が幾つも出て大きくなり、大きな鉢に植え替えました。

 

福娘」という多肉植物です。ふっくらとした白味がかった葉の多肉植物です。去年の夏には橙色の花が咲きました。倍以上大きくなっており、勢いがあるので今年も咲くことでしょう。

 

用心深い「ヒヨドリ

 庭にやって来る野鳥たちも、冬の少ない餌を求めて逞しいです。万両に止まった「ヒヨドリ」です。左端に止まっていますが、右の先の赤い実を狙っています。

 

注意深く右の赤い実に近づいています。

 

暫く時間をかけ周りを伺い、遂にサッと実を取に行きます。

 

赤い実をゲットします。

本当に用心深いトリ、ヒヨドリです。気配を察知すると直ぐに逃げていきます。

 

冬鳥の「ツグミ

 いつも冬の今頃現れる「ツグミ」です。保護色でよく分かりませんが、矢印のところです。10月ごろ、シベリアから大群で渡ってくる冬鳥の代表です。

 しきりに、地面をはねるようにとんで、つついています。虫か何かをさがしているようです。このトリはいつも木の上ではなく、地面にいるところを見かけます。

 

柴犬チロリ

 そして、柴犬チロリ14歳の現在です。認知症の兆候で昼夜逆転の生活、徘徊、緩慢な動作など続いていますが、元気いっぱいです。散歩ではぐいぐい引っ張り、散歩から帰って来ても、家中高速で走り回ります。

 

 この前の雪が降った時の散歩です。雪が積もったのは何度か経験していますが、少しいつもと違うとテンションが下がるようです。

 

今から眠るところです。

平和な寝姿に癒されますが、寝ていない時は、始終徘徊みたいに歩き回っています。

 

 そして、餌が欲しいか、構って欲しい時に、わたしの座っているテーブルの下にやって来ます。

柴犬14歳チロリの最近の表情でした。

 

おわりに

 健気に一生懸命生きる身近な生きものたち、それがわたしにとっての癒しであり、健康法なのかもしれません。

 多肉植物は本当に手間がかかりません。水も忘れたころやるだけで、いつの間にか育って増えています。不思議な植物で、その成長が楽しみになっています。

 柴犬チロリは、小さい頃から人の云うことは聞かず、気の強い子でした。成長して少しは穏やかになったのも束の間、老犬になって、また性格が子犬に戻ったような感じがします。それでも、世の中の厭な出来事を吹き飛ばしてくれ心が和む存在です。長生きして欲しいものです。

                    以上

 

東京都杉並区の古刹「永福寺」 心安らぐ境内

 都区内の寺社の散策で、今回は、杉並区の「永福寺」です。京王井頭線、「明大前」から次の駅、「永福町」駅から北の方向へ歩いて数分の所にあります。

 

山門

住宅街を歩いて程なく、永福寺の山門が見えて来ます。

 

扁額は、山号の「萬歳山」です

 

山門の左に寺号標「曹同宗 永福寺」があります。

 

山号:萬歳山

寺号:永福寺

宗派:曹洞宗

御本尊:十一面観音像

 

永福寺の縁起

 寺伝によれば、開創は大永2年(1522)で、開山秀天慶実と伝え、永福寺村の村名もこの寺名に由来します。

 永福寺の名は、永禄2年(1559)に北条氏康が作成した「小田原衆所領役帳」にも見え、開創は寺伝の伝える時期に近い頃のことであったと思われます。小田原落城後、北条氏の家臣、安藤兵部丞は、当寺の住職を頼ってこの地に帰農して永福寺の檀家となり、村の開発に努めたといわれます。

 境内に説明掲示板があります。

 

また、山門の前に「禁葷酒」と刻まれた石碑があります。



禁葷酒(きんくんしゅ)とは、「酒やニンニク類など刺激の強い野菜の持ち込みを禁止する」という意味です。

 

山門から境内へ

 山門はいつも閉じているようで、その右側から入ります。

 

境内は、中央に本堂と庫裡(くり)、左側が墓地になっています。

 

本堂

本堂です。

 

本堂の扁額は「永福禅寺」、寺紋は、「丸に三つ星」です。

 

本堂内陣です。

 

鐘楼と三層塔

境内の右側です。鐘楼、三層塔などがあります。

 

鐘楼です。

 

 鐘楼の傍に三層塔があります。その前の石碑に「九世紀造」と刻んでいるので、相当古い三層塔のようです。

 

石像群

 そして、境内の西側は、墓地が広がっています。その入口にある「六地蔵尊」です。

 

 六地蔵尊の近くに、大掛かりな無縁仏を集めた無縁塔があります。

 

如意輪観音の石像が多いようです。

 

御朱印

 最後に御朱印です。庫裡に伺いますが、生憎、御住職が不在で頂くことが出来ませんでした。

 

そして、寺院の境内の外ですが、西側に杉並区の指定文化財、五輪庚申供養塔があります。

正保三年銘五輪庚申供養塔です。

 

おわりに

 境内は、綺麗に整頓され、六地蔵、無縁仏などいたる所に花が添えられていました。庫裡の中も綺麗にランの花が飾られており、不在でしたが御住職の気遣いが伺えました。気持よく参拝出来、有難うございます。

                    以上

 

東京都中野区 真言宗豊山派「禅定院」自然と宗教の調和

 中野区の西武新宿線沿線、沼袋駅近辺の散策が続きます。

この辺は、寺社が多数あります。今回は、真言宗豊山派の寺院「禅定院(ぜんじょういん)」です。

院号(寺院名):禅定院(ぜんじょういん)

山号:瑠璃光山

・寺号:薬王寺

・宗派:真言宗豊山派

・札所;御府内八十八ヵ所霊場 第四十八番
    豊島八十八ヵ所霊場 第四十八番

 

禅定院の縁起

 禅定院は、南北朝時代の中期、貞治元年(1362)法印恵尊が開基となり創建したと伝えられる寺院です。旧上沼袋村の伊藤家とその一族の菩提寺としての特色を持っていたことから、「伊藤寺」とも呼ばれていました。

 

山門

 戦災を唯一逃れた山門(大正期)、右側に寺号標です。

 

扁額の文字は、「瑠璃光山」。

 

山門より入ると、右側に石像、石碑が並んでいます。

 

山門の直ぐ右手に「六地蔵」。

 

イチョウの木

六地蔵の隣が、存在感のある樹齢600年とされる大イチョウの木です。

 

 その隣に、石碑、石塔が並んでいます。

 

その中に3猿の庚申塔地蔵尊像があります。

 

本堂

 そして、本堂です。扁額が梵字で書かれていますが、初めて見ました。どういう意味か詳しく聞いてみたいですが。

寺紋の「庵に木瓜(いおりにもっこう)紋」が本堂の扉に付いています。

 

 本堂内陣です。御本尊は、不動明王です。暗くてよく見えませんが。上部中央に真言宗豊山派の「輪違い紋」が見えます。両脇に弘法大師の坐像です。

 

御本尊の不動明王立像(南北朝期の作)です。

(禅定院公式サイトより)

 

薬師如来坐像」も内陣脇に安置しているようですが、気が付きませんでした。両脇侍の月光、日光菩薩も坐像です。

(禅定院公式サイトより)

 草創期の御本尊は、薬師瑠璃光如来であり、山号と寺号はこのことに由来しています。現在の御本尊は、鎌倉時代後期の作とされる不動明王立像です。

(禅定院公式サイトより)

 

 本堂前に、弘法大師1150年御遠忌を記念して制作された「弘法大師像」です。

 

弁天堂と蓮池

 境内に「弁天堂」があります。堂内には弁財天、大黒天、毘沙門天を安置されています。

 

 また、境内には「蓮池」があります。

その周りは、春になると牡丹の花が綺麗に咲くようで、牡丹の名所といわれています。

 

 他に水路もあり、錦鯉が華麗に泳いでいました。

 

 尚、「百観音明治寺」に近い西側にも門があります。こちらの扁額の文字は「禅定院」です。

 

御朱印

 最後に御朱印です。寺務所より、「本日は御参拝いただきありがとうございます」、との説明書きと共に頂きました。

おわりに

 境内は、それ程広くはないのですが、蓮池、水路に錦鯉が泳ぐなど、自然豊かな感じのする寺院でした。またシンボルの大イチョウの木、本堂の扁額が梵字などユニークな面もある寺院で、春の牡丹の季節に、自然と宗教が調和されたような独特な魅力のあるこの寺院にまた来ようと思っています。

                     以上

東京都中野区 太田道灌ゆかりの神社「沼袋氷川神社」

 中野区の散策の続きで、西武新宿線沼袋駅沿い、数分の所にある「沼袋氷川神社」です。

 

御由緒

 創建年代は不詳ですが、正平年間(1346~1370)に、大宮氷川神社の御分霊をいただいて当地に奉祀したと云います。文明9年(1477)太田道灌が、江古田ヶ原・沼袋の戦いの際に、沼袋氷川神社に本陣を置き戦勝を祈願しました。その際に杉を献植したと云われており、今でも「道灌杉の跡」が残っています。

御祭神 

 須佐之男命(すさのおのみこと)

 御利益:厄除け 安産 子育て

 

鳥居から境内へ

 玉垣に囲われており、広い境内が伺えます。

 

 神域への入口となる表参道の「大鳥居」です。一揖して入ります。手前右に社号標です。

 

石段の上の向こうに二之鳥居です。

 

 真っ直ぐ行くと社殿ですが、その前に「子育て狛犬」があります。文久四年(1864)に奉納されています。

 子供を抱いてあやしている珍しい狛犬です。3回撫でるとお産が軽くなり、子育てが順調に進むと言い伝えられています。安産祈願・お宮参りで来る方が多いようです。

 

美しい社殿

 右手に手水舎です。令和元年に改修しています。参拝の前に、心身を清め社殿に進みます。

 

社殿です。平成3年に御造営されました。

 

扁額の文字は、「氷川神社」と揮毫した宮司の名前が書かれています。社紋は、左三つ巴です。

 

木鼻に見事な獅子の彫り物があります。

 

社殿の全体景観。

 

「三本願い松」と「道灌杉」

社殿の左側に、御神木としてそびえ立つ松の木があります。

「三本願い松」と呼ばれ、古来より「悪しきことはスギ去れ、願い叶うをマツ」と云い、参拝者の信仰を集めています。

 

 そして、「道灌杉」です。文明9年(1477)、太田道灌が戦勝を祈願して社頭に杉一本を献植し、のちに「道灌杉」と呼ばれます。現在は惜しくもその跡を残すのみとなっています。

 

裏参道の大鳥居と境内社

 社殿の左端にも大きな鳥居が立っています。裏参道の大鳥居です。

 

 この鳥居から入ると、左側に境内社が並んでいます。

左から、病気平癒の神などを祀る「天王社」。

 

その右隣に五穀豊穣・商売繁盛の神を祀る「稲荷神社」。

 

そして、縁結び・知恵の神を祀る「御嶽神社」です。

 

境内社の向かい側に、奉納舞踊やお囃子などが披露される「神楽殿」があります。

 

 表参道の左側に「力石」です。よく神社に見受けられますが、昔、若者たちが力比べに使ったもののようです。

 

中野七福神

 表参道の二之鳥居の直ぐ左側へ行くと、「七福神入口」の看板があります。

 

 平成21年、天皇陛下御即位20年、天皇皇后両陛下御成婚50年を記念して奉齋されました。

 

御朱印

 最後に、御朱印です。授与所にて頂きました。

パンフレットも頂きました。

 

おわりに

 沼袋氷川神社は、境内も広く綺麗に整えていると感じます。境内の整備も進められており、社殿は平成3年に御造営され、平成21年に整備された「中野七福神」など数多く整備されています。地域から大切にされているのが伝わる神社であることが分かります。

 頂いた小パンフレットにも、大正時代から旧野方村の総鎮守として信仰され、産土神として生涯にわたり守護する神様という事も書かれており、それも頷けます。

                    以上