世田谷区散策 世田谷観音の続き

 前回の世田谷観音の続きです。仁王門から阿弥陀堂、六角堂と拝観してきましたが、本堂の観音堂まで参道の左右に、屋外の仏像などが並んでいます。

 六角堂の隣に、夢違観音が池の中に立っています。

夢違観音

 夢違観音は、悪夢を良い夢に変えてくださる観音様と云われ、法隆寺の夢違観音(87cm)を拡大模写したお姿です。柔和な微笑みは、まさしく法隆寺の夢違観音のお顔です。

 阿弥陀堂の向こうには文殊菩薩像です。九州の太宰府天満宮より招来の石仏です。「三人寄れば文殊の知恵」の諺にもなっています。足元にかしずく大きな狛犬みたいな石像が怖そうで面白い。

文殊菩薩 

 驚きましたが、弘法大師空海上人で有名な「三鈷の松」もあります。樹齢100年以上とされ、同種のものは高野山金剛峯寺にあります。世田谷観音のものは、特に幹の胴部からも芽吹くので、大変珍しい松と云われています。

三鈷の松と看板

 八方睨み達磨大師水子観音様・馬頭観音碑が3像1セットの石像でおります。この3像に繋がりはあるのでしょうか。仏像の表情は、豊かです。

八方睨み達磨大師

水子観音様

馬頭観音

 鐘楼堂は、旧石薬師寺(しゃくやくしじ)所蔵だったもので、奈良極楽寺什物で慶長10年(1605)の銘があります。現役の鐘楼としては区内最古のものです。

鐘楼堂

そして、いよいよ本堂の観音堂です。ここにも狛犬が配置されています。

観音堂

 本堂入り口の龍神様は、元福井城にあった(現在ボストン美術館蔵)ものの復元で、金沢三名工の一人、石塚他三郎氏の作で欅材の一木彫です。

本堂入り口の龍神

 ご本尊は、聖観音菩薩像で脇侍は少し離れていますが、日光菩薩月光菩薩です。

聖観音菩薩像は、かつて伊勢長島の興昭寺の秘仏でした。

日光・月光菩薩は、通常、薬師如来の脇侍が多いのですが、ここのように薬師如来以外の脇侍にもなっている寺院もあります。

観音堂内陣

ご本尊 聖観音菩薩像

左脇侍日光菩薩

右脇侍月光菩薩

 日光菩薩の右に祀られているのがマリア観音です。隠れキリシタン聖母マリアの化身として、ひそかに崇拝した観音像です。仏教とキリスト教が混在している不思議な世界で、和洋の神仏習合がここにあります。

マリア観音

 布袋尊、大黒尊、不動明王、牛像など多数並んで安置されております。

布袋尊

大黒尊

月光菩薩の足元に

マリア観音の足元に

 本堂の直ぐ左隣に、特攻観音堂があります。堂内には、特攻平和観音尊像が祀られています。その胎内には特攻作戦で若い命を犠牲にした英霊の名が奉蔵されています。

堂の左手前には、世界平和の礎(吉田茂揮毫)、そして神州不滅特別攻撃隊の碑が建てられています。

特攻観音堂

世界平和の礎

神州不滅特別攻撃隊の碑

 また、世田谷観音を開山した睦賢和尚のお墓もあります。

開山塔

 

 開山した睦賢和尚は、波乱万丈の人生であったようですが、よくぞこれほど素晴らしい、珍しい文化財を集めたものだと感心します。

最後に御朱印ですが、コロナ禍で書置きしか扱っていない寺院が多いのですが、ご住職は見ている前で達筆に書いて戴きました。書かれた字で、お寺の品格が表れているように思えます。

御朱印

 参考資料:世田谷観音ホームページ、世田谷観音境内看板

                                                                                       おわり

世田谷区散策 世田谷観音

 連日、短い梅雨も明け、真夏並みの暑さが続いています。この暑い炎天下の中、今回は、都内世田谷区の散策で、世田谷山観音寺(通称:世田谷観音)と松陰神社です。

 昨年、目黒区の五百羅漢寺を拝観しましたが、そこから流出した羅漢像9体が、世田谷観音に所蔵されていることを知っていました。いつか拝観したいと思っていましたが、今回実現しました。

 世田谷観音には、羅漢像だけではなく素晴らしい、珍しい仏像などが多数ありました。やはり実際に足を運ぶと良いことがあります。

午前中早く行ったのですが、ご住職が既に本堂、阿弥陀堂を開けて各お堂を廻って参拝しておりました。境内も綺麗で、屋外の仏像などにもお花を飾られており維持、管理が行き届いていることが伺えます。

 世田谷観音は、宗派を持たない単立寺院です。単立寺院とは、どこの宗教団体にも属さないということですが、著名な寺院では、鎌倉の長谷寺、奈良秋篠寺などもそのようです。ご住職によりますと、やや天台宗に近いというようなことも仰っていましたが、墓地も持たず葬儀・法事などは行っていないそうです。

 東急世田谷線三軒茶屋駅から徒歩14,5分の閑静な住宅地にありますが、観音通りに面して、入ったのが裏門でした。

裏門を通ると、名木百選のクスノキがあります。そして、直ぐに本堂の観音堂があります。

世田谷観音の裏門

看板

名木百選のクスノキ

 順番に拝観するため仁王門の方に行きます。仁王門の前に、吉田茂揮毫の門標があります。

吉田茂揮毫の門標

 仁王門に入る前ですが、左手に「さざれ石」なるものが置かれています。岐阜県産の石灰質角礫岩のようです。

さざれ石

隣に地蔵菩薩像、あゝ特攻勇士之像、旧皇族の竹田恒徳揮毫の特攻平和観音石碑もあります。

地蔵菩薩

あゝ特攻勇士之像

特攻平和観音石碑

 また、お寺の中に旧小田原藩の代官屋敷があるという、少し変わった光景があります。

世田谷観音本坊(旧小田原藩の代官屋敷)

そして、いよいよ仁王門です。鉄製の狛犬、仁王像も立派です。

南蛮渡来の鉄製の狛犬は、清国の康熙帝1691年に進献されたものです。(看板より)

仁王像は、12世紀後半、平安後期で都内最古の仁王像です。

世田谷観音の仁王門

阿吽の狛犬



阿吽の仁王像 

狛犬も仁王像も、どこか優しい感じがします。

 仁王門を出て、正面の参道を真っすぐ行くと本堂の観音堂です。両脇に阿弥陀堂、六角堂などのお堂、そして屋外の仏像など境内の中を所狭しと、並んでいます。

 最初に、仁王門の右側の阿弥陀堂です。阿弥陀堂は、普通のお堂とは少し趣が違います。ご住職によると、京都の二条城より移築されたもので、三層の建物は金閣寺を模したということです。

 屋根には鳳凰、三階の軒下には「韋駄天」の扁額が掲げられています。その三階に韋駄天が安置されているということでした。韋駄天は、韋駄天走りの語源となる、足の速い神として知られています。

阿弥陀堂

阿弥陀堂の扁額

鳳凰と三階部分 扁額の文字は韋駄天です。逆光であまりはっきり撮れていません。

 堂内は狭いのですが、入ると直ぐ左右に羅漢像各4体、奥に本尊の阿弥陀如来を中心に、その左右に観世音菩薩、地蔵菩薩などの仏像が並びます。

阿弥陀堂の内部

本尊を中心とした仏像

本尊の阿弥陀如来坐像

観世音菩薩立像

 そして初めて見ますが、左甚五郎作の鬼念仏、前漢武帝時代の政治家、東方朔像が安置されています。

鬼念仏

東方朔像

 目黒の五百羅漢寺に安置されていた五百羅漢坐像のうち、8体がこの阿弥陀堂に安置されています。迫力ある羅漢像です。

世田谷観音のHPには、9体とありますが8体で、もう1体は、別の場所でしょうか。

阿弥陀如来と羅漢像

羅漢像

羅漢像に関するこんな看板もあります。

阿弥陀堂は、本当に見ごたえありました。

 

 阿弥陀堂の参道を挟んで向かい側に六角堂(不動堂)があります。

六角堂(不動堂)

六角堂入口

扁額 南無不動明王

こんな看板もありました。

 この六角堂には、国の重要文化財、「木造不動明王及び八大童子像」を安置しています。鎌倉時代の大仏師、運慶の孫にあたる康円の手によるものです。

八大童子を従えた不動明王像は、高野山に安置されている運慶作の尊像と、この康円作のもの、国内ではわずか2体しか残っていません。

しかも同一作者により製作された「不動明王ならびに八大童子」が現存しているのはこのお寺だけで、極めて貴重な文化財です。

 今回は、残念ながら開扉しておらず、毎月28日のお不動様月例御縁日に開扉されます。ただ、写真撮影は、唯一禁止だそうです。観音堂阿弥陀堂は、自由に写真撮影が可能です。

 不動明王ならびに八大童子ポスターですが、不動明王を中心に、指徳童子、阿耨多童子、烏倶婆誐童子、制多カ伽童子矜羯羅童子、清浄童子、恵喜童子、恵光童子です。

大仏師法眼和尚位康円、絵仏師法橋上人位重命、文永9年(1272)胎内願文によるとあります。

不動明王ならびに八大童子ポスター

写真撮影不可ではありますが、拝観する価値のある群像で、出来れば、いつかの28日に拝観したいものです。

 この世田谷観音は、1951年、太田睦賢氏によって開山されました。戦後創建の比較的新しい寺院であるにも関わらず、意外に江戸時代以前の文化財が多く、多彩なものがあります。

 本堂などまだまだ続きますが、長くなりますので次回とさせて戴きます。

尚、創建者は、現在のご住職のお孫さんですが、気さくな方で丁寧に説明戴き有難うございました。

参考資料:世田谷観音ホームページ、世田谷観音境内看板

                          おわり

府中市散策 梅花山光明院

 前回の府中市散策の続きです。分倍河原古戦場と古墳に続いて真言宗豊山派のお寺、梅花山(ばいかざん)光明院に行きました。

光明院は、高倉塚古墳の近くにあります。創建年代は不詳ですが、鎌倉時代に北条家の家臣肥後守小川義継が建立した祈願所を開基とし、阿闍梨祐秀(天正13年1585年没)が中興したといいます。

 『新編武蔵風土記稿』によりますと、「(本町)光明院 除地、二段五歩、分梅にあり、梅花と号す、本寺前に同じ(新義真言宗、村内妙光院の末)、本堂五間に七間西向、本尊不動木の坐像、長一尺余、開山開基詳ならず。弥陀堂。二間四方、本堂の前にあり。」とあります。

『新編武蔵風土記稿』は、文化・文政期に編まれた武蔵国の地誌です。全265巻、文政13年(1830)に完成しました。多磨郡府中領府中宿本町の編に記載されています。

 この中の「分梅にあり、梅花と号す」ですが、現在の町名は「分梅」の文字ですが、分倍河原古戦場や、京王線・JR線の駅名は分倍河原駅で、「分倍」の文字です。表記は、色々変遷があったことが伺えます。また「梅花と号す」は、山号の梅花山でしょうか。

 前書きが長くなりましたが、この寺院は、山号を梅花山、院号を光明院そして寺号が天王寺です。宗派は真言宗豊山派で、本堂に祀られています、不動明王がご本尊はです。
 扨て、梅花山光明院の山門です。扁額は、山号の梅花山。

山門 安政五年(1858年)に建立。本来は茅葺きの屋根であったようです。

扁額

 山門の右側に六地蔵と由来の記された石碑があり、左側に荒神様の石碑があります。

六地蔵

六地蔵由来の記された石碑

荒神

山門をくぐると山門の両脇に弁財天と歴代住職慰霊碑です。

弁財天

歴代住職慰霊碑 歴代の光明院住職を祀った慰霊碑です。

 正面は本堂で、鉄筋コンクリートの近代建築となっています。二階が本堂で、下は「寺務所」です。時が経てば昔の風情のある建物も、このような近代建築となるのですね。

本堂

本堂の扁額 光明院

 二階の本堂正面からガラス越しに内陣が拝見できます。御本尊の不動明王、そして諸仏、大師像などが祀られています。

本堂内陣

また、本堂の正面下に「御前立本尊」として、不動明王像があります。本堂に上がるのを省いて、下でお参りできます。

御前立本尊の不動明王

 そして、寺務所の南側に大師像はじめ幾つかの供養塔があります。

修行大師像は、昭和五十九年(1984年)に、弘法大師入定一千百五十年御遠忌を記念して、建立されました。

修行大師像

 宝篋印塔(ほうきょういんとう)は、墓塔・供養塔などに使われる仏塔の一種です。供養塔、墓碑塔として、五輪塔とともに国内に多く造立されています。

宝篋印塔

 永代供養墓は、個人墓、夫婦墓を想定したロッカー形式の納骨堂です。核家族化や晩婚化がすすみ、将来のお墓の担い手がいないという一つの墓の在り方でしょうか。

永代供養墓

 最後に御朱印ですが、ご住職が、忙しい中丁寧に対応して戴き、さらに白檀と桂皮を融和させた良い香りのする線香と散華も戴きました。有難うございます。

御朱印

御詠歌

散華

お線香 淡麗 香樹林 淡く清しい白檀の香り

 余談です。冊子にかかれていたのですが、真言宗豊山派寺院は、全国に3000カ寺があります。それらの寺院のご本尊の祀られる仏像は、多い順に以下の様だそうです。

第1位 不動明王

第2位 大日如来

第3位 観世音菩薩

第4位 阿弥陀如来

第5位 薬師如来

       参考資料:光明院ホームページ、冊子

                        おわり

府中市「分倍河原の戦い」と「古墳」

 先日、府中市で一献傾ける機会があったので、その前に近辺を散策しました。

府中市は、東京都のほぼ中央に位置する人口は約26万人の都市です。市名は律令時代に武蔵国国府が置かれたことに由来しますが、国府のある場所が府中と呼ばれ、その名称が受け継がれています。

 分倍河原(ぶばいがわら)は、府中市の中心部にあり、かつて鎌倉幕府滅亡へと向かう歴史の転換点の一つの古戦場があります。その「分倍河原の戦い」は、北条泰時率いる鎌倉幕府勢と新田義貞率いる反幕府勢との間で行われた合戦です。

分倍河原駅の駅前ロータリーに、新田義貞の像があります。

新田義貞

太刀を振りかざし、味方を鼓舞するかのような躍動感あふれる騎馬像です。

 そして、分倍河原古戦場の方に向かいます。分倍河原古戦場碑の看板があります。

分倍河原古戦場碑の看板

緑道、遊歩道案内図

北条と新田の分倍古戦場

歴史と文化の散歩道 いろいろ看板があります。

分倍河原古戦場碑

 

 

近辺の緑道、遊歩道の様子

 そこは公園みたいな市民の憩いの場のようです。古戦場の場所は、名前のとおり河原のような所を想像していましたが、多摩川からは1㎞以上離れています。もっとも当時は、この辺一帯が河原の様なのかもしれません。なにせ新田軍2万人、幕府軍15万人もいたのですから相当な広さが必要です。

 新田軍2万人は、奇襲を仕掛け、分倍河原へ一気に押し寄せ大勝利し、北条泰家以下は壊滅して敗走したのでした。

新田義貞の勝利は、その後の戦局に大きな影響を与え、倒幕運動最後の合戦、鎌倉での東勝寺合戦により1333年、遂に鎌倉幕府は滅亡します。

 次に古墳時代に戻って古墳の話です。この府中市分倍河原に古墳が数多くあります。古代から有力な豪族がこの辺一帯に住んで治めていたと思われます。

 以前、武蔵府中熊野神社古墳のブログを書きましたが、そこも分倍河原の近くです。熊野神社古墳は、上円下方墳という国内でも珍しい古墳でしたが、今回は、高倉塚古墳と御嶽塚古墳の二つの円墳です。

高倉塚古墳は、分倍河原駅から数分の所にあります。

高倉塚古墳

 府中崖線の斜面上に広がるこの周辺には、これまで確認されている古墳が25基あり、これらは「高倉古墳群」と呼ばれています。このうち墳丘が残っているものは4基あり、この高倉塚古墳は古墳群の中心に位置しています。

 古来より「高倉塚」と呼ばれ象徴的な存在だったことから中世以降には信仰の対象として保存されてきました。これまでの発掘調査で、墳丘構築工法が判明し、墳丘下層から6世紀前半とされる土師器坏が出土するなどの学術成果があり、高倉古墳群を研究するうえで貴重な資料となっています。

(看板の説明から)

 

 分倍河原の隣の町でJR南武線西府駅の直ぐ前にあるのが、御嶽塚(みたけづか)古墳です。

御嶽塚古墳と看板

以下看板の説明です。

 御嶽塚古墳は、直径約25mの墳丘とその周囲に幅約7mの溝がめぐる円墳でした。その後、中世になると屋敷を堀で囲む約200m四方の区画の中心に位置することとなり、さらに、江戸時代には信仰の対象として祀られることになったと考えられます。

 現在、塚上に祀られている石祠には「御嶽大権現 安政五午年 十一月吉日 小野宮願主 内藤伊助」の銘があります。御嶽信仰は、山岳信仰のひとつで、中世以降さかんになり江戸時代に各地に広まりました。

 西府文化センター周辺では、御嶽塚の他にも、古墳時代後期の6~7世紀はじめ頃に築かれた13基の古墳が確認されています。

墳丘に記された円筒埴輪や石室に収められた圭頭大刀、金銅製の耳飾りなどが出土しています。これらの古墳は、この塚の名に因んで「御嶽塚古墳群」と呼ばれています。その範囲は、東側の新鎌倉街道から西側の国立市境付近にまでおよんでいます。

御嶽塚古墳

御嶽塚古墳 塚上に祀られている石祠

 

以上の府中市分倍河原近辺を散策し、その後に友人と一献傾けた一日でした。隣の市の府中市はまだまだ行っていない古墳、神社仏閣が豊富にありますので行ってみたいと思います。

 尚、他にお寺も参拝しておりますが、長くなりますので次回とさせていただきます。

参考資料:現地案内図及び説明板

                            おわり

長崎県対馬のニュース2題

 5月に長崎県対馬に関するニュースが、2件新聞紙上に取り上げられました。一つは、対馬博物館が開館と、もう一つは、対馬のトンボ「緊急指定種」にという、何れも興味深いニュースです。

 対馬は、古代から大陸と日本の橋渡しをしてきた島です。以前から、このブログに国書偽造など取り上げてきましたが、対馬に関する2年前のブログを載せておきます。

古代から大陸の窓口「対馬」 - クマケア治療院日記 (hatenablog.com)

 

 対馬博物館は、対馬市厳原町にあり、既に4月30日に開館したようです。読売新聞紙上に、「日朝交流歴史資料ずらり」という見出しがありました。同館は、対馬の歴史や文化を発信しようと、県と対馬市が整備した3階建てで、「博物館ゾーン」と「交流ゾーン」の2棟で構成されています。

対馬博物館

 対馬藩主だった宗氏ゆかりの資料「宗家文庫」8万点を中心とした11万2000点を収蔵して、そのうち対馬島内の遺跡出土品、仏教美術朝鮮通信使関連など約600点を展示しています。

「博物館ゾーン」には、古代から近現代までの歴史を伝える平常展示エリアがあります。三根遺跡や金田城跡など島内各地で出土した土器片や、朝鮮国信使絵巻の実物、日本と朝鮮半島のデザインが混ざり合った梵鐘などです。

島中部にあった清玄寺ゆかりの梵鐘は、銘文から宗氏の注文で筑前芦屋の工人が、1469年に鋳造したことが分かりました。取り付け部分の竜頭は双頭の竜があしらわれた日本式、胴体は朝鮮半島式の天人や竜の浮彫がデザインされた日朝混合様式で、国境の島を象徴する文化財です。

清玄寺ゆかりの梵鐘

 江戸時代の対馬藩は、朝鮮王朝が徳川将軍に派遣する外交使節(通信使)の窓口を担ったため、宗家文庫には膨大な外交資料が含まれます。

朝鮮の通訳、朴俊漢の書簡は、対馬藩の通訳小田幾五郎に宛てたもので、当時の公式文書は漢文表記ですが、現場ではハハングルが用いられていたことが分かります。

朴俊漢の書簡 左側

 また、日本と朝鮮の中間に位置する対馬藩は地理的条件から、経済を朝鮮との交易に依存していた背景があります。朝鮮との国交回復のために使用した「徳有隣」印や、「為政以徳」印などの偽造印の複製が展示されています。

偽造印のレプリカ  国書の改竄に用いられました。本物の偽造印は九州国立博物館にあるようです。

「交流ゾーン」は、ワークショップができる体験学習室や昆虫標本などが見られる講座室を備え、ギャラリーやミュージアムショップも設けられています。

 以前、対馬仏像盗難事件があり、2体の仏像が韓国に持ち去られました。対馬博物館は、対馬市内に点在している文化財を一括して管理することになり、このような盗難事件なども無くなると思います。尚、仏像の2体のうち1体は、戻っていません。

 

 そして、もう一つのニュースは、対馬のトンボ「緊急指定種」に、というニユースです。環境省が、長崎県対馬に生息するトンボの一種「チョウセングンバイトンボ」を、種の保存法に基づく緊急指定種に指定したというものです。

 このトンボは、全長3~3.7cmという小さなトンボで、朝鮮半島や中国などに生息していることが知られていました。

昨年、国内では初めて対馬で見つかり、今年3月に専門誌で報告されたということで、発見して撮影した方は、感激でしょうね。

チョウセングンバイトンボ

 緊急指定種とは、絶滅のおそれのある野生動植物の種の保存に関し、特にその保存を緊急を要する種について、生きている個体の捕獲、販売などを禁止する緊急的な措置です。指定期間は、5月21日から3年間です。 緊急指定後は、生物学的知見を集積し、国内希少野生動植物種への指定の要否を検討するようです。

近縁のグンバイトンボは、中足と後足の白い葉っぱのようなものが、軍配状に広がっていることから、この名前がついています。関東から西の本州、四国、九州に生息しています。

グンバイトンボ

 チョウセングンバイトンボは、このグンバイトンボと同様ですが、雌雄ともに腹部第10節が黒色で、頭部の後頭条が左右に分かれる点、オスの中・後脚の跗節が白色となる点が区別点として挙げられています。写真を見ても区別がよく分かりません。

 それにしても対馬ツシマヤマネコといい希少な生物がいますね。大陸に近いため、日本本土にいない生物が、まだまだいるということでしょうか。対馬が近くにあれば、直ぐにでも行きたいところです。

参考資料:読売新聞

     対馬博物館ホ-ムページ

     環境省ホ-ムページ

                    おわり

梅雨入り前の動物たち

 前回は、植物でしたが、今回は動物編です。植物が育つと花が咲き、昆虫がよく来ます。今年は、あまり見たことのない昆虫がやって来ました。

 クレマチスの花に付いていますが、「シロテンハナムグリ」です。初めて見ましたが、コガネミシ、カナブンの仲間です。

シロテンハナムグリ

 焦げ茶色の体に、小さな白点を散りばめた模様を持ち、カナブンと同じぐらいの大きさです。飛び方に特徴があります。飛翔時に前翅を内側に傾けると、開かなくても側面に隙間ができ、この状態で後翅を伸ばせます。前翅を閉じたまま後翅を羽ばたいて飛ぶのが、多くの甲虫と違う特徴です。

「ツマグロオオヨコバイ」は、黄緑色で、頭部と胸部に黒班があり、翅端が黒くなっています。

ツマグロオオヨコバイ サクランボの葉に付いています。

体長13mm位で、頭部の黒斑が人の顔のように見えます。また、色彩や形状がバナナに似ているため、俗に「バナナ虫」とも呼ばれます。

 ホタルに似た虫は、「クロウリハムシ」です。体長6,7mm位の小さな昆虫です。

クロウリハムシ この虫もサクランボの葉についていますが可愛い顔をしています。

全体に黒く、頭部、前胸部、腹部が黄色く、触角は体長の半分程度の長さです。様々な植物の葉を食べます。特にウリ類の害虫として知られていますが、全体が茶色の「ウリハムシ」ほど数が多くありません。

 「ナミテントウ(並天道)」は、ナナホシテントウムシと並んでよく見られる普通種で、大きさは同じくらいです。

ナミテントウ 水を飲みに来たのか、水溜めの容器に止まっていました。

色や斑紋に変化が多く、このナミテントウは、黒地に橙色の4紋です。紋の無いものから19個のものまでおり、2~4紋型は九州方面に多いようです。

 成虫は集団で越冬し、気温が高くなると夏眠を行うと云います。人間みたいに暑い、暑いと云わず、眠ってしまうとは何と合理的な生き方でしょうか。

幼虫も成虫もアブラムシを食べることで、農業上、害虫であるアブラムシ類の天敵です。年二化で、秋に羽化した成虫は越冬します。春にアブラムシが活動を始めるころに産卵が行われ、それを食べた最初の世代が晩春にあらわれ、二世代目は夏に出現します。

 水を飲みに来て溺れているところを助けました。アブとクモです。

アブは、ハエの仲間でよく似ていますが、生物学的には殆ど違いがありません。成虫になる前のサナギの縫い目が違うだけです。

吸血するのがアブで、吸血しないのがハエという分類が一般的ですが、吸血するハエもいます。見た目は、アブの方が大型で、細長い感じです。

この溺れていたアブは、ネットの画像から「​​ナガレシギアブ」です。「シギアブ」の名前は、野鳥のシギの足の長いところが似ているので付けられたようです。

ナガレシギアブ 溺れていました。

網で助けた、ナガレシギアブ

 同じく溺れていたクモですが、本当に小さく5,6mm程度です。クモは種類が多く種別は分かりません。

溺れていたクモ

助けたクモ

さらに、ハチも溺れていたのを助けました。毒針を持っていますが、おとなしい、アシナガバチです。

アシナガバチ ひっくり返って溺れています。

助けたアシナガバチ

 アブ、クモそしてハチは、助けた後、動きませんでした。暫くたっていなくなっていましたので、命拾いをしたようです。

このように、注意深く見ると興味深い昆虫が結構いるものです。昆虫ワールドは実に面白いと感じます。

 珍しい鳥もやって来ました。めったに見かけないのですが、ジョウビタキのメスと思われます。

ジョウビタキのメス 全体が薄茶色でオスに比べ地味な色です。

メダカは変わらず、気持ちよさそうに泳いでいます。

楊貴妃

白メダカ

黒メダカ

 柴犬チロリも元気です。

エサが欲しい時は、しつこくやって来ます。

散歩はもういい云うチロリ。

散歩は、直ぐ帰ります。

令和4年の春から梅雨、そして夏の到来を予感する平和な日々の出来事でした。

 

                    おわり

梅雨入り前の植物たち

 関東の梅雨入りの平年は、6月7日頃だそうですが、今年の東京の梅雨入りはどうなるのでしょう。段々蒸し暑い日も増えていますので、来月早々に入るかもしれません。

 わが家の庭の植物たちは、日光もほどほどで、雨は適度に降っており、生育も早く植物にとって最も良い季節のようです。

今月早くから咲いていましたが、大輪のシャクナゲ(石楠花)です。花の蜜に誘われて、蜂や蟻がやって来ます。

クレマチス(テッセン)、シランも同じ時期咲きます。

シャクナゲ

シャクナゲと蜂

シャクナゲと蟻

クレマチス

シラン 年々増えています。

 少し遅れて、カルミアもたくさん花を咲かせます。ツツジ科で、五角形の浅いお椀のような形の花を、ボール状にたくさん咲かせます。幾何学的にも正五角形で非常に珍しい形です。

カルミア

正五角形の花のマクロ撮影

 サツキもこの時期です。ツツジとは、花や全体の樹形もとても似ているため、区別がつきません。サツキもツツジと同じツツジツツジ属の植物です。サツキは、ツツジに比べ1ヶ月程度遅く咲きます。

サツキ ピンクが多いようです。

 花は見たことはありませんが、今頃の季節に葉が、緑と黄色の縦縞で心地良く美しいのが、フウチソウ(風知草)です。読売新聞の園芸ゼミ欄に、そよ風に揺れる多年草と載っていました。

フウツソウ(風知草) イネ科の多年草

 この葉と茎が、つけ根でねじ曲がっていて、表が裏に、裏が表になっているので別名ウラハグサ(裏葉草)とも呼ばれます。晩秋になると葉は枯れて、茶色になるのですが、翌年4月には、いつも新芽が勢いよく発生します。

 コバンソウは、小判に似た形の小穂をつけることから名付けられました。植えたことは無いのですが、いつの間にかあちこちに生えています。

コバンソウ

イネ科の植物で、小花をたくさんつけた小穂ができ、 それが細い柄につり下がった形となって、面白い形です。

 まだ早いのですが、アジサイ(紫陽花)も少し咲いてきました。セイヨウアジサイです。やはり、梅雨の時に似合う花です。

セイヨウアジサイ

 植えたこともないのに、種が風で運ばれいつの間にか、名も知れず咲いている花もあります。

名も分からない花々です。ひっそり咲いています。

 それから植木鉢ですが、1本から紫と白い花が咲いています。確か去年は、紫が白に変わっていた不思議な花です。

不思議な花

 道端にもたくさん咲いていますが、ドクダミです。庭にも密集しています。

玄関の階段の隙間に生えて花を咲かせています。チロリもびっくりです。

こんな所にしぶとく咲くドクダミ

驚くチロリ

 

 これらの花々は、特に世話をしていないのですが、毎年、咲いて癒してくれます。植物は、本当に律儀に健気で、有難いものです。

                          おわり