川越の徳川ゆかりの地「仙波東照宮」の歴史と豊かな文化

 埼玉県川越市の寺社巡りが続きます。「川越駅」から近くの「川越八幡宮」を参拝した後に「仙波東照宮」に向かいます。

 

仙波東照宮の由緒

 仙波東照宮(せんばとうしょうぐう)は、徳川家康の遺骸が久能山から日光へ移葬した元和3年(1617)に喜多院で供養したので、天海僧正が寛永10年(1633)にこの地で創建しました。

 喜多院の南側に隣接して鎮座し、川越の徳川ゆかりの地を象徴する存在で、天海の関与のもと社殿が造営され、東照社(のち東照宮)として成立。 寛永15年(1638)川越の大火で仙波東照宮も焼失したと伝えられます。

 その後、徳川家光の命により復興が進められ、寛永17年(1640)に現在に伝わる主要社殿が整えられました。現在は社殿群の一部が文化財として保護されています。

御祭神:徳川家康

 境内の説明書きです。

 

入口から鳥居へ

 仙波東照宮の入り口です。

 参道の先には、紅い「随身門」が見えます。随身門は「ここから先が神域」という区切りを示し、東照宮表門にあたります。門に安置してあった随身像は、現在拝殿に、後水尾天皇の勅額は幣殿に飾ってあります。

 

 随身門は「朱塗八脚門」とされ、脚柱を持つ構えが「格式ある入口」の印象を強めます。本殿・唐門・瑞垣(みずがき)などと並び、随身門も国の重要文化財に含まれます。

 

 この隋身門から入ると向こうに鳥居が見えます。

 

 石造りの鳥居です。石鳥居は、寛永15年(1638)に川越城主・堀田正盛が奉納した明神鳥居で国指定重要文化財です。

 

拝殿、幣殿

 石段の上に朱色の拝殿が見えます。

 

 参拝前に清めようとしましたが、手水鉢は使われていないようです。

 

 仙波東照宮の拝殿です。桁行三間、梁間で単層入母屋造、正面は向拝一間付き、銅板本葺。

 

 拝殿手前の阿吽の狛犬です。

 

 また、拝殿の背面に幣殿が直結して一体化しています。背中合わせに近い形で連結し、外観上も「拝殿+幣殿」でひとまとまりの礼拝空間として成立しています。

 拝殿の長押(なげし)には絵師岩佐又兵衛勝似の描いた「三十六歌仙額」が掲げられています。幣殿内部正面に後水尾天皇自筆「東照大権現」の勅額が掲げられ、左右の長押には狩野探幽作と伝えられる「鷹絵額十二面」を配しています。拝殿と幣殿が一体として重要文化財の対象になっているようです。

 

本殿

 仙波東照宮の社殿配置は、拝殿、幣殿が本殿と一体化した権現造ではなく、本殿は唐門と瑞垣(みずがき)に囲われています。本殿側には入ることが出来ません。

 拝殿の左側から撮った本殿、唐門、瑞垣。

 

 拝殿の右側から撮った本殿、唐門、瑞垣。

 本殿は三間社流造、銅瓦葺の社殿で、本殿の正面には唐門が置かれ、左右から瑞垣が延びて本殿を囲みます。唐門は本殿へ入る正門で、唐破風の曲線と黒・朱・彩色の部材が近い距離に集まります。

 瑞垣は総延長30間の透し塀で、朱塗の柱列と緑の竪格子が本殿の周囲に境界をつくります。

 右側の柵の隙間から撮った本殿です。国の重要文化財で極彩色が強いです。

 

 説明書きです。汚れてよく読めませんが。

 

石灯籠

 仙波東照宮の石灯籠は、単なる照明ではなく、徳川家康を祀る東照宮へ「献灯」した奉納品としての意味合いが強いです。石灯籠は、歴代川越城主が東照宮を修理した時に奉納したもので、2基一組、全部で26基あります。

 

 本殿前の石灯篭の献備者は、松平伊豆守家3代の6基です。松平3代は、新河岸川舟運を開いたり、町割り(都市計画)を作ったり、川越を発展させた大功労者です。

本殿左側の石灯籠3基。

 

本殿右側の石灯籠3基。

 

 拝殿横の灯籠は、奉納者や年代が刻まれた「歴史資料」としても見所になります。灯籠が左右に置かれるのは、参拝の正面性を強め、場を整えるための配置として考えられます。

拝殿左側の石灯籠14基。

 

拝殿右側の石灯籠6基。

 

 最後に拝殿の前の扉に付いている「徳川葵」の社紋です。

 

 また来た石段を下り次の待望の「喜多院」に向かいます。

 

 説明書きを見ますと喜多院に行く途中に境内社の「厳島弁財天」と書かれていますのでそこに寄ります。

 

 途中に説明書きには社務所と書かれていますがカフェのようです。

 

 更に行くと「厳島弁財天」が見えて来ます。全体が社を取り巻く「葵庭園」のようです。

 

 太鼓橋を渡ると先に鳥居と祠があります。

 

おわりに

 仙波東照宮は喜多院の南側にあり、徳川家康を祀る由緒ある東照宮で、日光、久能山とともに日本三大東照宮の一つとも云われています。

 今回の仙波東照宮を巡って先ず感じたのは、規模は決して大きくはないのですが、歩くほどに歴史の重みが伝わってきました。なぜなら最初の随身門から石の鳥居そして社殿の本殿・拝殿及び幣殿・唐門・瑞垣まで国の重要文化財に指定されています。重要文化財(建造物)は、歴史的・芸術的価値が高い建造物を国が指定して保護する制度です。仙波東照宮は、江戸初期の東照宮建築としての歴史性と、装飾豊かな意匠・技術がまとまって残る点が、指定の根拠になっているようです。特に川越大火で焼失後、寛永17年(1640)に再建され、江戸初期の東照宮建築の姿を伝える資料性が高いとされています。

 社殿以外でも随身門は、八脚門の落ち着いた構えで社殿の豪華さとは違う端正さがあります。そして石灯籠は、社殿の華やかさとは別の形で歴史を語っているように思えます。拝殿前や本殿前に並ぶ灯籠には歴代の川越藩主による奉献の歴史が刻まれています。建物だけでなく、それを支えた人々の存在まで想像させます。

 残念ながら拝殿の前の扉は日曜・祝日以外は閉じており、また常時本殿への一画は隔てられています。本殿は拝殿側から遠く眺めるだけで、間近に拝見することは出来ません。本殿へも開放される日があるのなら是非再度拝見したい神社です。有難うございました。

                       以上

 

小江戸の守護神「川越八幡宮」の歴史探訪

 今回から埼玉県川越市の寺社巡りが始まります。JR川越線あるいは東武東上線の「川越駅」から近くの「川越八幡宮」に向かいます。

 

川越八幡宮の由緒

 川越八幡宮は、第68代後一条天皇の時代の長元3年(1030)に甲斐守源頼信によって創始されました。源頼信は、長元元年(1028)に下総国の城主前上総介平忠常が、安房、上総、下総の三か国を従わせて起こした謀反を鎮圧した人物で、この地で必勝祈願を行ったことから、八幡宮が建てられました。

 中世から近世に川越は、城下町として発展していきますが、川越八幡宮は地域の守護的な存在として崇敬されます。現在も「小江戸」川越の散策圏にある古社として親しまれています。由緒が「戦勝祈願」に結びつくため、川越八幡宮は現在も勝負運・必勝祈願の神社として知られています。

御祭神:誉田別命 (ほむだわけのみこと)第15代応神天皇

 

鳥居から境内へ

 川越駅から八幡通りを行くと大きな紅い鳥居と社号標が見えてきます。

 

 川越八幡宮大鳥居の説明書きがありました。大鳥居の御神号「河越八幡宮」は文化9年(1812)、姫路城主の奉納した「向鳩文字」の神号軸を写したものです。この大鳥居は創建千年を奉祝し、令和7年に建て替えられました。扁額の八幡宮の八の字が向鳩文字になっています。

 

 この入口は工事中のようで入れません。参道左手から境内へお入りくださいとの説明書きです。

 

 こちらが仮の入口のようです。

 この入口は社殿の左側の裏参道のようで社殿の正面の鳥居は別にありました。社殿の左側をすり抜け東方向へ戻った所に一の鳥居と社号標がありました。

 

 表参道の社号標です。八幡宮の「八」の文字は向鳩文字です。向鳩文字の元祖は鳩サブレーの「鶴岡八幡宮」と思っていましたがどうなのでしょうか。

 

 社号標から一の鳥居までは相当距離があります。一の鳥居を一揖して潜りますと二の鳥居、社殿が見えます。

 

 二の鳥居です。石段の上に社殿です。

 

 右手に手水舎です。参拝の前に清めます。花手水が清々しい。

 

社殿

 少し石段を上った所に拝殿がありますが、石段前の狛犬です。

 

 拝殿です。社殿は紅色を基調とした建物です。参拝します。左三つ巴の社紋。

 

 拝殿の前の狛犬。

 

 拝殿の奥に本殿も見えます。

 

厄除桃(やくわりもも)

 拝殿の左手に、「厄割桃」があります。

 神話「古事記」には、伊弉諾命(いざなぎのみこと)が魔物に桃を投げつけて追い払ったそうで、桃玉を厄割石に投げつけて厄を祓うのだそうです。以来、桃は「意富加牟豆美命(おおかむづみのみこと)」という名の神様としてお祀りされ、人々に尊ばれています。

 

 厄割石と説明書き。

 

御神木 

 拝殿の左手前方に、御神木の夫婦銀杏があります。

 平成天皇・明仁上皇陛下がお生まれになった記念として昭和8年(1933)、男銀杏と女銀杏を植樹しました。植えた当初は別々の2本でしたが、成長するにつれて、まるで1本の木のように寄り添う姿になったことから「夫婦銀杏」「縁結びイチョウ」と呼ばれるようになりました。

 

 御神木の周りの石碑、石像。

 

境内社

 川越八幡宮の境内にはたくさんの境内社があります。

民部稲荷神社

 拝殿前の石段の左手に、境内社の「民部稲荷神社」です。

御祭神:倉稲魂神(うかのみたまのかみ)五穀や食べ物、特に稲や農業をつかさどる神

    として知られ、稲荷神と結びつけて語られることが多い神です。

 「相撲稲荷」とも呼ばれ、特に足腰の健康に御神徳があるとされています。

昔、八王子に住んでいた老狐が、人間に化け「民部」と名乗り暮らしていましたが、老僧に正体を知られたため、川越の梵心山に移り住みました。この民部は相撲が得意で、老僧に「捻挫や打ち身」の手当ての仕方を教えて去って行ったとの伝説があり、「まんが日本昔話」でも「民部稲荷」として紹介されたそうです。

 

目の神様

 民部稲荷の裏にも境内社が並びます。兄弟のように力を合わせて国作りをし、医薬の道を授け、病に苦しむ人を救いました。

「眼病平癒」の神様としても、広く信仰されています。

御祭神:大国主命、少彦名命(すくなびこなのみこと)

 神代の昔、兄弟のように力を合わせて、国作りをした神様です。国の内外をめぐって、生きるための技術や医薬の道を授け、病に苦しむ、特に「心身の目」に悩む人をお救いになりました。

 

菅原神社

 御祭神: 菅原道真公

 

こころの小径

 本殿左側の「こころの小径」を行きます。創建千年記念事業の一環として、整備されたようです。

 

 直ぐ右側の再会(サイカチ)の木です。

 応神天皇の母・神功皇后は、サイカチの木を植えて、親しい人々との再会を祈念されたと伝えられています。

 

宗像神社

 本殿の左端に宗像(むなかた)神社があります。

 御祭神:田心姫神(たごりひめのかみ)

    :湍津姫神(たぎつひめのかみ)

    :市杵島姫命(いちきしまひめのかみ)

 宗像三女神は、天照大御神と須佐之男命との誓約によってお生まれになり、天と地とをつなぎ、国の安寧を守るために、宗像の地(現在の福岡県)に天降られました…。 説明書きです。

 

祠と手水鉢です。

 

ぐち聞きさま

 こころの小径を進むと一番奥の「ぐち聞きさま」です​。

 御祭神:聖徳太子

ぐち聞きさまは、聖徳太子のお姿です…。説明書きです。

 

稲荷神社

 御祭神:倉稲魂神(うけのみたまのかみ)

 

御朱印

 最後に御朱印です。境内の右手の社務所で頂きました。

社務所

 

おわりに

 川越八幡宮を訪れたとき、社殿の裏の方から入り、しかもそこの裏参道が工事中ということで戸惑いました。

 

 遠回りして先ず一の鳥居から境内に入ると、平日ですが何か参拝者で賑わっている印象でした。川越という歴史ある街の中に、神聖な空間で気軽に神社で参拝するという信仰の深さが伺えます。あらためて神社の持つ魅力を感じました。

 順に追っていくと先ず参拝前の手水舎です。最近花手水が神社と寺院でもよく見受けられます。この神社でも花が水に浮かぶ様子はとても美しく、参拝者の目を楽しませてくれます。

 拝殿の前では長い歴史を持つ川越八幡宮の中心となる場所だけに、静かに手を合わせ、これまでの無事への感謝と、これからの健康を願いました。

 境内で特に興味深かったのが、御神木の夫婦イチョウです。二本のイチョウが寄り添う姿は、本当に良縁をはこぶ縁結びの木として参拝者の思いが重なると思い感心しました。

 川越八幡宮は、民部稲荷神社や宗像神社など境内社が多数ありますが、それの一つ一つに御祭神など丁寧な説明書きが加えられてありました。これは他の神社や寺院にはあまりなく参拝者にとって有難いことです。これは何の祠なのかと疑問に残る寺社が多くありますから。そういう意味でも夫々の場所に込められた意味を知りながら巡ることで、神社そのものをより深く感じることができた参拝となりました。ありがとうございます。

                     以上

 

古都奈良「興福寺」の歴史と文化の魅力を回顧

 秋雨前線と台風の影響で、寺社散策に行けない日が続きます。やっと天気がよくなりそうですが、予てから過去に散策した寺社をふり返ろうと思っていました。今回は奈良「興福寺」を取り上げます。以前よく奈良に行ってブログにも何度も登場しますが、部分的なので全体をふり返り歴史、伽藍などを記述したいと思います。

興福寺(こうふくじ)

 寺号:興福寺

 宗派:法相宗

 寺格:大本山

 創建:天智8年(669)

 開基:藤原不比等

 本尊:釈迦如来

 

 奈良を訪れたなら、一度は歩いてみたい寺院の一つが「興福寺」です。近鉄奈良駅からも近く、猿沢池のほとりから五重塔を眺めながら境内へ入ると、奈良を代表する歴史的な景観が広がります。

 

 興福寺は、単に古いお寺というだけではありません。藤原氏の氏寺として古代の政治・文化と深く関わり、度重なる火災や戦乱、明治時代の廃仏毀釈を乗り越えながら、現在まで多くの歴史や文化を伝えてきました。

 今回は、興福寺の歴史を振り返りながら、現在の伽藍の中金堂、国宝館、五重塔などを探ってみたいと思います。

 

1.興福寺の歴史

①興福寺のはじまり 山階寺から興福寺へ

 興福寺の歴史は、飛鳥時代にまで遡ります。藤原鎌足が亡くなった後、その夫人である鏡大王によって、天智8年 (669)に山階寺(やましなでら)が造られたことが興福寺の前身とされています。その後、山階寺は飛鳥へ移され、さらに厩坂寺(うまやさかでら)と呼ばれるようになります。

 そして和銅3年(710)、都が平城京へ移されると、藤原鎌足の子である藤原不比等によって厩坂寺が現在の奈良の地へ移され「興福寺」になりました。

 藤原不比等:藤原鎌足の次男。大宝律令や日本書紀の編纂に関わり、文武から元正に至る3代の天皇の擁立に貢献した人物。

 

 つまり興福寺は、平城京の成立とほぼ同じ時代から奈良の歴史を見つめてきた寺院で、藤原氏の氏寺でした。藤原氏はその後、平安時代の政治の中心で大きな力を持つようになります。そのため興福寺も大きく発展し、平安時代には多くの僧兵を擁するなど、大和国に大きな影響力を持つ寺院となりました。

②何度も焼失、復興の興福寺

 興福寺の歴史は、「火災と再建」の歴史です。奈良時代から何度も火災に遭い、そのたびに伽藍が再建されました。特に大きな出来事が治承4年(1180)の「南都焼討」です。平重衡の軍勢によって興福寺を含む奈良の寺社が焼かれ、興福寺の伽藍も大きな被害を受けました。

 しかし、その後の鎌倉時代には再建が進められ再び復興していきます。その中には、運慶やその一門など、鎌倉時代を代表する仏師たちによる作品が含まれています。現在の興福寺が「仏教彫刻の宝庫」と呼ばれる理由の一つです。

 そして享保2年(1717)の火災では金堂、講堂、西金堂、南円堂、中門、南大門などが焼失します。火災後、幕府、朝廷、藤原氏から支援を得られず、再建は長く停滞します。さらに明治の初め慶応4年(1868)の神仏分離令により苦難の道が始まり、明治3年(1870)に全ての寺地を没収されます。

 明治10年代になると興福寺再興の動きも出て、明治13年(1880)には内務省に「興福寺復称宗名再興願」が提出され、明治30年(1897)の古社寺保存法の発布で北円堂、三重塔、五重塔が特別保護建築物に指定されます。

 平成10年(1998)から第1期境内整備が着手され、同年「古都奈良の文化財」としてユネスコ世界文化遺産に登録に至ります。

③現在の興福寺の伽藍

 現在の興福寺には、中金堂、東金堂、五重塔、三重塔、南円堂、北円堂、国宝館、大湯屋、菩提院大御堂などがあります。特に建造物として国宝に指定されているのが、北円堂、三重塔、五重塔、東金堂です。南円堂は重要文化財です。

 そして2018年に、中金堂が約三百年ぶりに復元されました。

 

2.興福寺の伽藍

 興福寺の伽藍配置図です。

 

①中金堂 興福寺伽藍の中心

 境内に入ってまず目を引く大きな建物が中金堂です。中金堂は、その名前の通り興福寺の伽藍の中心となる金堂です。

 興福寺では創建以来、伽藍の中心に中金堂が置かれてきましたが、1717年の火災によって焼失。その後、本格的な再建が実現せず、長い間、仮金堂などで対応されてきました。2018年、ついに約300年ぶりに中金堂が復元されました。

 この復元は、発掘調査によって確認された基壇の規模や位置、古い文献、建築史の研究成果等により復元計画が作られました。中金堂の前に立つと、長い年月を経て興福寺の中心が再び姿を現したことを実感できます。

②国宝館 興福寺の多くの文化財

 興福寺を訪れたら、ぜひ立ち寄りたいのが国宝館です。現在の建物は、奈良時代に建てられていた食堂(じきどう)の外観を復元したもので、地下には旧食堂の遺構も保存されています。

 館内には、興福寺が長い歴史の中で守り伝えてきた仏像、絵画、工芸品、経典、古文書などが収蔵されています。中でも有名なのが、天平時代の仏教彫刻を代表する「阿修羅」像です。

 阿修羅像(国宝・奈良時代)像高153.4cm

 

 他に八部衆像、十大弟子像、金剛力士像、天燈鬼・龍燈鬼像、板彫十二神将立像、銅造仏頭など非常に多くの重要な文化財を見ることができ、興福寺が「仏教彫刻の宝庫」と呼ばれてきた理由を実感できると思います。

 銅造仏頭 国宝 98.3cm

 

 木造天燈鬼・龍燈鬼立像(国宝・鎌倉時代)78.2cm、77.8cm

 

 板彫十二神将立像(国宝・平安時代)

 

③南円堂 西国三十三所第九番札所

 中金堂から南西方向へ進むと、八角形の特徴的なお堂、南円堂です。813年藤原冬嗣が、父内麻呂の追善供養のために建立したのが始まりです。

 現在の建物は江戸時代の1789年に再建されたもので、重要文化財に指定されています。興福寺と春日社、そして藤原氏との関係を考えるうえでも興味深いお堂です。

本尊の不空羂索観音が鹿の皮を身につけていることも、鹿を神の使いとして信仰する春日社との関係を考えさせます。

 

④北円堂 運慶の仏像で知られる国宝建築

 南円堂に対して、北側にあるのが北円堂です。北円堂は、興福寺の中でも特に歴史的・建築的価値の高い建物です。その起源は721年藤原不比等の一周忌に、不比等の追善供養のために建立したとされます。現在の北円堂は鎌倉時代前期の1210年頃に再建されたものです。八角円堂、本瓦葺で、日本に現存する八角円堂のうち、最も美しいと云われて国宝に指定されています。

 そして北円堂を有名にしているのが、堂内に安置されている仏像です。特に運慶の作として知られる無著・世親(むじゃく・せしん)菩薩立像は、鎌倉時代の仏教彫刻を代表する作品として知られています。

 無著、世親は北インドの兄弟の僧侶で、二体一組で対照的な表現をしています。兄の無著は、優しく人々を守る姿、弟の世親は、遠くを見つめる意思の強い姿で表しており、運慶が理想的な仏教の求道者の姿として表現しています。

 本尊の弥勒如来坐像 

 

⑤五重塔 奈良の町を象徴する塔

 興福寺と聞いて、まず思い浮かべるのが五重塔ではないでしょうか。猿沢池の水面越しに見える五重塔は、まさに奈良を代表する風景です。五重塔は730年、光明皇后の発願によって建立。

 その後、火災によって何度も焼失・再建され、現在の塔は室町時代、1426年頃に完成したもので、国宝に指定されています。高さは約50m。現存する古塔としては、京都東寺の五重塔に次ぐ高さです。

 また、南円堂の近くに三重塔も残っています。康治2年(1143)に皇嘉門院(こうかもんいん)聖子が建立。治承4年(1180)に焼失し、間もなく再建。北円堂と共に興福寺で最古の建物で平安時代の建築様式を伝えます。

 

 五重塔の現在は、残念ながら大規模修理中です。明治時代以来約120年ぶりとなる保存修理工事が行われており、工事のための覆屋が設置されています。考えてみれば、文化財が何百年も残っていくためには、定期的な修理は欠かせません。今回の修理も、五重塔を次の世代へ伝えていくための大切な作業なのだと思います。

 

3.興福寺を歩く楽しみ

 興福寺を訪れるなら、わたしは一つのお堂だけを見るのではなく、境内をゆっくり歩いて全体を散策することをお勧めします。先ず猿沢池から五重塔を眺め、52段を上って境内へ入る。中金堂の大きさを実際に感じ、東金堂と五重塔の並びを見る。

 

 そして国宝館で阿修羅像をはじめとする仏像を見て、南円堂へ足を延ばし、更に北円堂まで歩く。そうすると、夫々の建物が独立しているのではなく、一つの大きな伽藍の中で位置づけられていることが分かってきます。

 特に北円堂付近から中金堂や五重塔、南円堂を眺めると、興福寺の伽藍を立体的に感じることができます。

 北円堂から見た中金堂、五重塔

 

 北円堂から見た南円堂

 

おわりに

 興福寺は、藤原氏の氏寺として始まり、平城京と共に発展し、何度もの火災や戦乱を経験しながら、そのたびに再建されてきました。現在残る建物にも、奈良、鎌倉、室町、江戸時代など、夫々異なる時代の歴史が刻まれています。

 そして2018年には、中金堂が復元され、現在は五重塔の大規模保存修理が進められています。つまり興福寺の歴史は、過去のものではありません。古い文化財を守りながら、新しい時代へ受け渡していく現在進行形の歴史でもあります。数年前、興福寺を訪れた時も発掘調査をしていました。中金堂と宝物館の間辺りで発掘の工事が行われており、まだまだ色々な調査、発掘があると感心した記憶があります。

 

 写真だけでは分からない建物の大きさや、周囲の伽藍との位置関係を実際に歩いて確認できるのも、お堂巡りの面白さです。阿修羅像などの仏像を見るために国宝館を訪れるのも良いですし、五重塔や中金堂などの建築を見るのも良いです。

 あるいは、特別開扉の時期を狙って南円堂や北円堂を訪れるのも良いと思います。奈良を訪れた際には、ぜひ時間をかけて興福寺の境内を歩き、1300年以上にわたる歴史を自分の目で感じてみて欲しいものです。

 また1日のうちでも朝や夕方に訪れるのもまた一興です。朝早くに鹿と戯れる、あるいは夕方の猿沢池を眺めるのも良いと思います。色々な楽しみ方があるお寺だと感じました。

 朝早くは観光客がいないため、鹿煎餅が貰えず草を食べる鹿。

 

 黄昏の猿沢池

 長くなりましたがありがとうございました。 次回からは新しいシリーズとなります。

参考にした資料

・興福寺公式サイト

・奈良県「歴史文献で訪ねる奈良・興福寺」
・奈良市「世界遺産・興福寺」
・文化庁「国指定文化財等データベース」
・クマケア治療院日記「奈良興福寺の五重塔」
・クマケア治療院日記「興福寺の北円堂特別開扉」

・クマケア治療院日記「黄昏の興福寺」

・クマケア治療院日記「奈良のシカ」              

                    以上

秋の気配の「生きものたち」と生態系の変化

 今年の夏は、関東地方にとって台風に幾度も見舞われ大変な夏となりました。9月は例年残暑が厳しいのですが、秋並みの気温となっています。わたしの周りの生きものたちもだいぶ様相が変わっていますが、この気温の変化をどう凌いでいるのでしょうか。

 

多肉植物たち

 多肉植物は百鉢くらいありますが、全て室内に置いてあります。

 

 先ず夏には毎年ピンクの花が咲くサボテンがあります。その名前は、「マミラリア属サボテン」です。去年は幾つもの花を何度も咲かせていました。しかし、今年は気温が低いせいか一つしか咲かず、数日で咲かなくなりました。

 去年のサボテン。幾つも花が咲いています。

 

 今年のサボテン。寂しく花は一つです。

 

 しかし1年で大きく成長しました。ぼこぼこと芽が出ており来年に期待できます。

 

 次に脱皮する多肉植物です。この代表は、「リトープス」や「コノフィツム」などのメセン類です。これらは古い葉の内側で新しい葉を育て、古い葉がしぼんでから新しい葉に入れ替わります。

 リトープスです。葉が石のように見えるので、生きた石とも呼ばれます。南アフリカ周辺の乾いた地域が原産で、周囲の石にまぎれるような姿をしています。この夏かなり変形しました。

 よく日に当たり、風通しのよい場所が向いています。日光が不足すると、間延びして形がくずれやすいです。

 

 次に脱皮する多肉植物は「コノフィツム」です。

 これも日当たりの良い場所が良く、11月から4月の冬に生長する多肉植物です。秋くらいから、花芽をつけて開花することもあるようなので期待しています。

 

 いつもの多肉植物で、プニプニとした姿を見せる「ハオルチア」です。変わらず元気です。

 

 これもハオルチアだと思いますが、葉が小さく勢いがあり元気に育っています。

 

 デロスペルマ属の多肉植物で、1年で大きく伸びました。茎立ちし春から夏に花を咲かせるようでこれも来年に期待です。

 

 通称「上海ローズ」で、ベンケイソウ科センペルビウム属の多肉植物です。耐寒性の強い多肉植物で小さい芽を出し増え続けます。

 

 多肉植物の代表格「エケベリア」です。葉が重なってバラの花のように見え、生命力が強く数多くの園芸交配種が存在します。

 

 「ハオルチアスーパーファスキアタ」という多肉植物です。ハオルチアと名前がつきますが、とげとげしてサボテンに近い感じです。しかしこれも枝を伸ばし花が咲きましたが、確かにハオルチアと同じような地味な花です。

 

 そして「ウチワサボテン」です。背が大きく伸びています。ウチワサボテンは、特定の一種ではなく、平たい茎節をもつサボテンの仲間の総称です。園芸では主にオプンチア属の仲間として扱われます。

 

 通称「銀手毬」マミラリア属のサボテンです。造形が綺麗で、黄色い花を咲かせるのですが、今年は気温が低いせいか咲きませんでした。

 

 時々、丸い部分が下に落ちています。これを鉢に置いておくと根付いていきます。生命力が強いです。

 

 その他サボテン。

 

庭の草木

 「金木犀(きんもくせい)」ですが、一度花を咲かせていつもの甘い香りが漂いました。しかし先日の台風の大雨で一気に花を散らせてしまいました。僅か1週間くらいの命でした。この様なことは今まで経験したことはありません。

 

 柿の木は、実を付けているのですが元気がない様子です。

 

 椿の実ですが、椿の花が咲いたあとにできる果実です。緑から赤茶色へ変化し熟すと殻が割れて、黒くて丸い種が出てきます。椿油はこの種からとれるようです。

 

 千両、万両は暑さに弱いのですが、今年の夏の涼しさで頑張っています。冬にかけて赤くなります。

 

 秋明菊(しゅうめいぎく)です。秋になると忘れずに咲き出しますが、早くも一輪咲いています。

 

 お茶の花ですが暑さには強いようです。咲くと直ぐ散って次々と咲きます。

 

 キンカンの葉に虫が止まっています。てんとう虫の一種でしょうか。今年の夏の低温でコガネムシなど昆虫類はあまり見かけません。

 

 最後に柴犬チロリの墓です。亡くなって1年半、2匹の番犬が守っていますが長雨で花も無くなり、淋しいので雨が落ち着いたら秋の花でも植えようかと思います。

 

おわりに

 この夏は長雨で気温が低いせいか、キアゲハがなかなか来ません。柑橘類の生育が悪いせいで、来ても直ぐに飛び去ってしまいます。従っていつもならミカンや柚子にいるキアゲハの幼虫も全くいなくこんな夏は記憶にありません。爬虫類のニホントカゲやヤモリも今夏は見かけません。命を繋いでいると良いのですが。

 やっぱり夏は適度に暑くなければ小動物、植物の生態系が狂ってしまうようです。セミの鳴く季節も長く続きませんでした。これはセミの脱け殻ですが、柚子の木の相当高い所にあります。ここまでよく上って来て脱皮したなと感心しました。

 

 今まで見て来たように植物も昆虫も他の生きものも、各々の一生を次の世代に繋げるため、健気に懸命に生きています。その姿は、外来種も害虫も益虫も関係なく心を打たれます。皆頑張って生きて欲しいです。わたしもこのような生きものたちと触れ合うことで癒され、健康に過ごすことが出来ている気がします。

 先日襲った台風25号は、千葉県、神奈川県他に甚大な被害をもたらしました。今年は他にも熊本県、北陸などそして海外にも地球規模の気候変動がもたらされています。将来の地球が心配されます。しかしこれまでも幾度も地球の危機を乗り切ったように何とか人類の知恵で乗り切ることを信じたいです。

                     以上

 

 

 

札幌の歴史を感じる「北海道神宮頓宮」参拝記

 札幌市に滞在中、「北海道神宮頓宮」を参拝しました。札幌市の中心部にあり北海道神宮の末社です。頓宮とは一般に、神社の祭礼で神様が神輿で出御する際に、途中で滞在する御旅所を指す言葉です。北海道神宮頓宮も、北海道神宮例大祭の渡御で神輿が立ち寄る場所として、その役割を担ってきました。

 

北海道神宮頓宮の由緒

 北海道神宮頓宮は、元々札幌神社(現在の北海道神宮)へ参拝しにくかった時代に、札幌中心部で拝めるように設けられた遥拝所として始まりました。交通が未整備で冬の参拝が困難だったことを背景に、明治11年(1878)に「札幌神社遥拝所」として誕生したとされています。
 その後、北海道神宮の祭礼で神輿が巡行する際に立ち寄る場所、「御旅所(おたびしょ)」として機能し、昭和22年(1947)に分霊を奉斎して北海道神宮の末社となりました。

御祭神:北海道神宮の御祭神をお祀りしており、次の四柱です。

   :大國魂神(おおくにたまのかみ)

   :大那牟遅神(おおなむちのかみ)

   :少彦名神(すくなひこなのかみ)

   :明治天皇

 境内の由緒、御祭神の説明書きです。

 

鳥居から境内へ

 札幌市街から少し東に行くと創成川があり、そうせい橋を渡ると直ぐに北海道神宮頓宮です。創成川は人工河川で、豊平川から分流しています。

 

 頓宮の鳥居です。真っ直ぐ先に社殿が見えますが、鳥居を潜って直ぐに狛犬が出迎えてくれます。恋愛成就や子宝のパワースポットとして人気の狛犬です。

 

 境内の左側の龍の手水舎で清めます。

 

社殿

 北海道神宮頓宮の社殿です。明治43年(1910)に北海道神宮(当時は札幌神社)の古材を用いて社殿を造営しました。

 

 垂れ幕に皇室の紋章、十六菊の「菊花紋章」、扁額は「北海道神宮頓宮」。

 

 拝殿前の阿吽の狛犬です。素材は札幌軟石で、地域の石材文化を感じます。

 阿形の獅子が小さな玉を銜え、子獅子がまとわりついています。安産・子授け・家内安全として参拝者が撫でてお参りする方も多いようです。

 

社殿の周辺

 社殿の両脇に注連縄をしているイチョウの木の御神木があります。右側の御神木。

 

 社殿の左側の神輿庫。

 

 社殿の右側の神楽殿。

 

 社殿の後ろ脇に大木、石灯篭などがあります。

 

 精巧な彫りの石灯籠です。台座に狛犬とは珍しいです。

 

 天皇、皇后両陛下御来道記念の石碑などです。

 

御朱印

 頓宮社務所にて頂きました。広い社務所で展示室を兼ねており色々なものが展示してあります。

 

 かつての市電「一条線」で使われていた駅名看板。一条橋、丸井前と懐かしい。

 

 酉の市の貼り紙や頓宮の歴史の新聞記事。

 

御朱印とパンフレット

 

北海道神宮

 前日に「北海道神宮」に参拝しています。詳細は昨年の弊ブログに載せていますので省略します。

公園口鳥居から入ります。

 

 社殿前の神門です。神門には巨大な注連縄(しめなわ)がかかっています。丁度社殿に向かう新婦さんの一行に出合いました。

 

 神門を潜り、社殿前には七五三のお祝いの人たちなどで賑わっています。

 

 新婦さんたちもやって来て本殿に入って行き、式を挙げるようです。

 

 拝殿の右側の社務所にて御朱印、しおりを頂きました。

 

 昨年の「北海道神宮」に参拝したときの弊ブログです。暇なときにでもご覧ください。

札幌市「北海道神宮」開拓精神と北海道の自然 - クマケア治療院日記

 

おわりに

 頓宮は、北海道神宮の遥拝所として1878年に創建され、雪深い時期でも参拝しやすいよう街中に設けられた背景があります。境内は広くはないですが、鳥居から拝殿までの短い時間に参拝したという手応えが残りやすい印象です。

 頓宮の社殿の建築様式も、北海道神宮と同じ神明造、屋根は切妻造・平入と同じです。しかしながら建造時期については、頓宮は北海道神宮より古いのです。北海道神宮は、伊勢神宮の古材を用いた大正期の造営と昭和期の復元ですが、頓宮は明治初期の旧札幌神社拝殿を移築したものです。それだけに頓宮の社殿は木の質感や佇まいに歴史の重みが感じられました。

 頓宮と北海道神宮

 

 また、頓宮は狛犬が特に有名です。鳥居側と拝殿側で造形がかなり違いますが両方とも立派な造りです。御利益が異なると伝えられており、鳥居側は恋愛成就、拝殿側は安産・子授かりとされています。特に拝殿前の狛犬は明治23年奉納・札幌軟石製で石の柔らかな質感が表情を優しく見せる点も見どころです。故郷の札幌でまた気持ちの安らぐ神社を参拝出来、懐かしさを感じ癒され良かったです。有難うございました。

                    以上

 

札幌市「円山八十八か所」山歩きと巡礼の歴史

 毎年この時期に両親の墓参り、小学校のクラス会などで札幌に行っています。例年まだ東京の暑さは酷いのですが、台風のせいかそれ程でもなく、札幌もからりと晴れ涼しかったです。

 3年前に藻岩山を登りましたが、今年は円山を登山しました。登山と云っても低山の標高225mですが、円山八十八ヶ所といって、四国八十八ヶ所を模した巡礼道のようなもので、登山道沿いに石仏が並んで円山登山と信仰文化が結びついています。

 

円山公園から入口へ

 円山は、札幌市中央区「円山公園」の園内 にあります。朝9時前、気温20.9度。地下鉄東西線「円山公園駅」から徒歩数分で円山公園に着きます。

 

 そこから円山動物園 方面へ向かいます。「八十八ヶ所登山口」は円山動物園に向かう途中にあります。

 

 熊出没注意の看板がありました。やはりなと思いましたが、今や日本中都会といえども、どこでも熊との遭遇はありえます。ましてやここはヒグマの宝庫北海道です。私は一人でしたが、午前中で登る人が多く鈴などをつけており、無防備のわたしには助かりました。

 

 登山口の起点の「円山八十八ヶ所大師堂」の周りです。川のせせらぎが気持ち良いです。

 

 円山八十八ヶ所大師堂です。

 

 大師堂の堂内です。中心に弘法大師、左右に大日如来、不動明王と豪華な三尊像です。

 

円山八十八ヶ所の歴史

 大師堂の入口横に、円山八十八ヶ所の歴史の説明書きです。

 「四国の八十八ヶ所は、真言宗の祖 弘法大師(空海)が修行を積んだ遺跡で、信仰者が巡礼する霊場として広く知られています。

 大正三年(1914)に円山村の開拓功労者である上田万平・善七兄弟が円山登山道を開き、四国から本道に移住してきた札幌近郊の信仰者有志に観音像の寄進を呼びかけ、八十八体の像が建立されました。

 八十八ヶ所登山道の入り口から頂上付近まで並ぶ観音像はその後も信仰者の献像により、今では二百体以上が奉安されています。

 大正四年には登山道入り口に大師堂が建立され、弘法大師の像が祀られるようになりました。その後、境内には大日如来像・不動尊像・大師いろは歌碑・開山碑などの仏像や石碑が建ち、弘法大師が残した徳をたたえています。」

 

 この大師堂の周りにも多数の仏像や石碑などが建っています。

 

馬頭観音像

 

弘法大師像

 

その他観音像など

 

「円山八十八か所」山歩き

 山道に入ります。ズラリと並ぶ石仏。

 

 山道に石仏は続きます。

 

 途中、稲荷社もあります。

 

 祠もあります。

 

 山道の石仏には漢数字で一 ~ 八十八までの番号が振られています。石仏は頂上付近まで続きます。

 

 例えば三十番の観音像。

 

 原始林らしい大木が幾つかありました。木の根が蛇のように凄い。

 

 番号の無い石仏も多く二百体は遥かに上回っていると思われます。

 

 そして、八十、八十五、八十六番

 

 八十七

 

円山山頂へ

 札幌周辺自然歩道 円山山頂への看板

 

 八十八番目の最後の観音像を見過ごしてしまったようで、最後の登り。

 

 「天然記念物 円山原始林」の説明書きです。「この原始林は、北海道、温帯北部の代表的な天然林で学術上非常に貴重なものである。大正十年に天然記念物に指定された。」

 

 山神さまに挨拶。

 

 札幌の市街が見えてきます。

 

 円山山頂に着きました。三等三角点がありました。

 

札幌市街

 ゆっくり札幌市街を見る人たち。

 

 見下ろす札幌の市街地の光景は壮観そのものです。

 

 札幌ドームもよく見渡すことができます。

 

 しばし秋の気配は感じながら山頂からの景観を眺めました。その後に早々、今来た道を引き返し下山しました。低山ながらわたしには丁度良い、北海道らしいなかなか満足した山歩きでした。

 

おわりに

 円山八十八ヶ所は、山歩きと巡礼の空気が重なるので、普通の登山とは少し違う満足感が残りました。道そのものは長いわけではなく登山と云うより山歩きと行った方が合い、その一方で、石仏を辿り、撮りながら進んだので気持ちはゆっくりと巡礼のような雰囲気を味わえました。

 しかも四国八十八ヶ所の各札所に本尊を表す観音菩薩だけでなく、如来や地蔵菩薩など、様々な石仏が祀られていました。お大師さま、不動明王などもあります。

 

 そのため、石仏を一体ずつ見ると、姿勢や持ち物、表情、台座の銘文などに違いがあり、寄進者の名前や建立年が刻まれたものもあります。信仰の歴史だけでなく、当時の地域住民や移住者の繋がりを知る手がかりにもなり、色々想像し楽しませて頂きました。

 ここまで多くの石仏が並んでいる光景は非常に珍しく、上田万平・善七兄弟の発想と実行力は素晴らしいものがあります。また山頂での札幌の市街を眼下に見渡すことが出来たのは本当に良いルートであったというのが私の実感でした。

 

 最後にヒグマのことですが、一番ヒグマの恐ろしさを体験しているわたしが迂闊でした。何も準備することなく無防備で山歩きをしたことに反省しきりです。幸いにも登山者が多く、しっかり鈴など準備している登山者が殆どで助かりました。

 わたしは、一度日高山脈の幌尻岳でヒグマと遭遇しています。その模様を6年前に弊ブログで載せていますので、暇の時にでも御覧ください。

半世紀前の出来事 - クマケア治療院日記

                       以上

お台所の神様を祀る品川区「海雲寺」とその歴史

 東京都品川区の寺社巡りが続きます。旧東海道沿いの品川寺を拝観した後に続いて、近くの「千躰荒神(せんたいこうじん)」を祀る寺「海雲寺」です。

 

海雲寺(かいうんじ)

 山号:龍吟山(りゅうぎんざん)

 院号:瑞林院

 寺号:海雲寺

 宗派:曹洞宗

 本尊:十一面観世音菩薩

 開山:祖耕

 開基:不山東用

 

海雲寺の縁起

 曹洞宗の龍吟山海雲寺は、建長3年(1251)僧不山によって開基、はじめは庵瑞林(あんずいりん)といい、海晏寺(かいあんじ)境内にあって臨済宗でした。慶長元年(1596)海晏寺五世分外祖耕大和尚を開山とし、曹洞宗に改められ、寛文元年(1661)に海雲寺になったものです。

 本尊十一面観世音菩薩を安置し、尊像は建長3年創立当時、仏師春日の作と云われています。また、鎮守として千躰三宝大荒神王を祀っています。

 

山門から境内へ

「旧東海道」沿いに海雲寺近くに来ると「しながわ百景」の案内があり「海雲寺と千躰荒神(せんたいこうじん)」と掲げられています。

 

 山門は街道から少し奥まった所にあります。

 

 山門の前の寺号標に、「開運 千体荒神王霊場 海雲寺」とあります。

 

 山門の扁額は寺号の海雲寺が刻まれています。一礼して潜ります。

 

 山門を潜ると右側に烏枢沙摩明王堂、鐘楼、向いの三寶荒神像です。その参道を真っ直ぐ行くと本堂、そして左側にあるのが「千躰荒神堂」です。

 

烏枢沙摩明王堂

 烏枢沙摩明王 (うすさまみょうおう)は、密教における明王の一尊です。日蓮宗では「烏蒭沙摩明王」の表記を用い、火神・厠の神として信仰されます。
 烏瑟娑摩明王は「この世の一切の汚れを焼き尽くす」功徳を持ち、仏教に包括された後も「烈火で不浄を清浄と化す」神力を持ちます。

 

平蔵地蔵尊

 参道の左側に平蔵地蔵尊と後ろの如意輪観音像です。

 

 平蔵地蔵尊の由来を刻んだ石碑もあります。

 江戸末期頃、鈴ヶ森の刑場で番人をしていた平蔵という人が、大金の入った財布を拾って持ち主に返しました。ところが、その正直さのため仲間から追い出され、凍死してしまったと伝えられています。その後、落とし主が平蔵を手厚く葬り、供養のために地蔵尊を建てたのが平蔵地蔵尊の由来です。

 

 そしてその後ろには荒神像(こうじんぞう)です。昭和二年(1927)に建立。

 

力石(ちからいし)

 よく神社で見かける「力石」です。

 

 説明書きがありました。いつの頃からか、この力石は海雲寺の境内にあり、若者達の力競べに大正の中頃まで使われていました。当時、門前には大勢の漁師や親船から積荷を小舟に移し取る「瀬取(沖仲仕)」がいて、この石を何回持ち上げられるか、門と本堂の間を何回持って歩けるかと競ったそうです。

 

鐘楼

 烏枢沙摩明王堂の隣にある鐘楼です。周りの彫刻も見事です。

 

えんの行者(役行者)

 役行者は、鬼神を使役できるほどの法力を持っていたといわれ、左右に前鬼と後鬼を従えた図像が有名です。

 

本堂

 手水舎で清め、本堂に向かいます。

 

 本堂です。本堂には本尊の十一面観音像を安置しています。建長3年(1251)の創建当時からあり春日仏師作とされます。

 

 

千躰荒神堂(せんたいこうじんどう)

 本堂の左隣に建つお堂で、千躰三宝大荒神王を祀ります。荒神さまは火と水を守る神また台所の神としても信仰され、地域では「品川の荒神さま」と呼ばれてきました。

 

「お台所の守護神」の説明書きです。

 

 堂内に入ることが出来ます。堂内は、一般の寺院でみる光景とは全く違ったもので驚かされます。

 

 格天井(こうてんじょう)の中央に龍の図が、その周りに纏(まとい)図が描かれています。

 

 荒神堂内には信徒の奉納した27面の扁額があり、文久元年(1861)奉納の雌雄二鶏図の絵額は、板ガラスの裏から描いた絵を表からみる「ガラス絵」で、区内唯一の貴重なものです。説明書きもあります。

 

 そして「千躰三宝荒神王」です。

 古くからお台所に荒神様をお祀りする習わしがあります。荒神様は台所で一番大切な火と水をお守り下さる神様であります。それでお台所に荒神様をお祀りすれば一切の災難を除き衣食住に不自由しないとされています。

 品川の千躰荒神は江戸時代から竈の神様、台所の守護神として多くの人々から信仰されていました。

 

御朱印

 最後に御朱印です。庫裡にて頂きました。

 

おわりに

 品川の海雲寺は、旧東海道沿いの品川宿の寺らしい親しみやすさと、江戸の信仰の厚みが感じられる場所でした。なかでも千躰荒神堂は、ただ古いだけではなく、現在も人の願いを受け続けている場所であることを強く感じました。

 海雲寺は曹洞宗の寺院としての落ち着きがありますが、江戸時代から、かまどや台所を守る神として多くの人に信仰されてきたことを知り、次回訪れたときはまた境内の見え方が変わると思います。

 最も印象深かったのは、やはり千躰荒神堂です。海雲寺の中心的な熱量が集まる場所という感じです。本堂の脇にありながら存在感が強く、「品川の荒神さま」と呼ばれる理由がよく分かります。 火と水、そして台所の守護神として信仰されてきたため、暮らしに直結し、人々が日々の無事や家内安全を託してきた歴史が感じられ心に残りました。

 千躰荒神堂は中の奉納物も印象的です。堂内には27面の奉納扁額があり、最古は安政3年のもので、文久元年奉納の雌雄二鶏図のガラス絵を区内唯一の貴重な例です。こうした奉納物を見ると、信仰が一時の流行ではなく、江戸時代の歴史と現在も続いている人々の祈り、長く積み重なってきたことが実感できます。近くの品川寺と共にもう一度再訪したいお寺となりました。

 今回で一応品川シリーズは、終わりとなります。有難うございました。

 

追記

 先日、ネパール・中国の国境地帯で発生した氷河の崩落により大規模な土石流が発生しました。前代未聞の大災害で死者1400人以上、行方不明者が5800人を超え被害はなおも拡大しています。日本人も5人家族が行方不明のようです。

 ネパールは2015年にも大地震によって死者は約9,000人にもの災害がありました。わたしはネパールに鍼灸の医療ボランティアに8回行っていますが、大地震の直後9回目を中止したことを思い出しました。

 またしても、この貧しい国に天は試練を与えたのかと空しい気持ちでいっぱいです。被災された方々に心よりお見舞い申し上げるとともに、亡くなられた方々のご冥福をお祈りいたします。

                          以上