杉並区の寺社散策が続きます。前回は、丸ノ内線新高円寺駅」近くの「猿田彦神社」に参拝しましたが、今回は、「馬橋(まばし)稲荷神社」です。

 

 猿田彦神社から真北へ数分の住宅街を歩くと突然立派な一の鳥居、社号碑が現れます。

 

鳥居の左に御由緒書き、右に社号碑です。

御由緒書き。

 

御由緒

 創建の年代は不詳ながら、鎌倉時代の末期の創建と伝えています。

天保2年(1831)、氏子が京都白川神祇伯家御役所に上申し、正式に「正一位足穂稲荷(たるほいなり)大明神」の御神号を拝受したということです。

明治40年、本殿改築後、村内の御嶽神社白山神社、天神社、水神社を相殿として合祀します。

 昭和40年住居標示の改正に伴い、馬橋の地名を保つため神社名を「馬橋稲荷神社」と改めました。

主 神

 宇迦之魂神(うかのみたまのかみ)(稲荷神社)

大麻等能豆神(おおまとのづのかみ)(御嶽神社

相 殿

伊弉册神  (いざなみのかみ)(白山神社
美都波能賣神(みずはのめのかみ)(水神社)
菅原道真朝臣(すがわらみちざねあそん)(天神社)

末 社

美都波能賣神(みずはのめのかみ)(水神社)
市杵島姫神 (いつきしまひめのかみ)

 

社号碑。

神社名に馬橋の名称を冠し、正式に馬橋稲荷神社となった記念に建立された社号碑です。

 

一の鳥居

 木製で上の部分の笠木が反り、その下に台輪がついた明神鳥居系の「台輪鳥居」です。現在では珍しい大鳥居です。

 

双龍鳥居

参道を進むと二の鳥居は、「双龍鳥居」です。

 昇龍と降龍が鳥居の左右の柱に巻き付くように彫刻されており、大変に見事な造形です。龍の巻いた鳥居は珍しく、「品川神社」「高円寺内稲荷社」と合わせて東京3鳥居と呼ばれています。

 

左側の昇龍。

 

右側の降龍。

 

続く参道

美しく整備された長い参道が続きます。

 

三の鳥居です。平成御大典を記念して建立されました。御影石作りの台輪鳥居です。

 

両脇の狛狐さん、玉持ちと子持ちです。

 

 参道の左手に手水舎です。龍神、伊予の青石、苔などを組み合わせた見たこともない手水舎です。

 

随神門

 随神門です。昭和50年、創建700年を記念して建立されました。奥に拝殿が見えます。

 

右大臣、左大臣と呼ばれる

「豊磐間戸命(とよいわまとのかみ)」

「櫛磐間戸命(くしいわまどのかみ)」という

戸守りの神像を祀っています。

 

随神門の天井には都内最大の「開運鈴」が吊るされています。この鈴の真下を通ると幸運がやって来るとのことです。

 

社殿

随神門を通ると朱色の鳥居に囲まれた社殿が現われます。

 

社殿の前の鳥居は、「三ツ鳥居」で、明神鳥居の両脇に、小さな二つの鳥居があります。

 

そして、拝殿です。昭和13年建立、総檜造の銅板葺き流れ造りです。

 

拝殿の前の阿吽の神狐像です。

 

「願かけ狐」が、神狐像の周りにたくさん奉納されています。

 

扁額です。中央に稲荷宮、そして左右に天満宮、御嶽宮です。

 

 社殿の左側に恩頼(みたまのふゆ)の勾玉があります。神様のチカラを頂く御神霊(おみたま)石です。

 

社殿の左手の「神楽殿(舞殿)」です。

 

境内社

社殿の左側に、境内社が並んでいます。拝殿左奥に「厳島神社」と「水神社」の合祀殿があります。

 

合祀殿の左手には斎霊殿です。戦没者と神社物故者等の霊をお祀りしています。

 

 小さな稲荷社や祠も多数祀られています。近隣の庭に祀られていたものを、この神社でお祀りしているようです。

 

東西南北の鳥居

表参道の鳥居は南ですが、社殿の左手裏に続く参道には、北参道鳥居があります。

 

東参道にも鳥居があります。ここは龍の手水舎もありました。

 

そして、西側の鳥居です。東西南北全てから境内に入ることが出来ます。

 

御朱印

最後に御朱印です。随神門の右側に社務所があり、御朱印を頂きました。

 

可愛らしい子狐の置物も頂きました。

 

おわりに 

 都区内で印象的な神社が幾つかありますが、この馬橋稲荷神社もその一つとなりました。神社の規模はそれ程大きくは無いのですが、拝殿への参拝に行く前から、双龍鳥居、随神門の開運鈴、龍神の手水舎、三ツ鳥居の社殿など見所満載でした。

 長い参道に「桃園川の流れに思いを馳せて」と、かつての清く澄んでいた桃園川を再現し、小さなせせらぎを作っていました。

このことからも地域に親しまれる鎮守なのが伝わってきます。

 

 綺麗に整備された長い参道、境内全体が落ち着いた雰囲気で清々しい空気感が溢れていた印象に残る神社でした。

 

 杉並区の寺社散策、これからJR高円寺駅の方へ東上し「高円寺氷川神社」そして同じく双龍鳥居のある「高円寺」へと続きます。

                     以上

東京都杉並区「猿田彦神社」と「太道教」 天孫降臨の神話

 杉並区の寺社の散策を行っています。前回まで「京王井の頭線」沿線、永福町駅近辺でした。今回は、その北側の「丸ノ内線」「中央線」沿線高円寺駅近辺の寺社散策となります。

 先ず、丸ノ内線新高円寺駅」から数分の所にある「猿田彦神社」に行きました。

 

 住宅街の「馬橋通り」に面しており、朱色の鳥居が目立ちます鳥居の後ろ直ぐに拝殿です。

 

猿田彦神社の御由緒

鳥居の右に説明掲示板があります。

 猿田彦大神天孫降臨(てんそんこうりん)の時、天野八衢(あめのやちまた)に迎えて啓行され、天孫高千穂峰に導きました。 その後、天宇受売命(あめのうずめのみこと)に送られて、伊勢の五十鈴の川上に来られ、ここを中心に広く国土を開拓指導された地主の神と伝えられております。

 猿田彦大神の大本社として、猿田彦大神の墳墓近くの御船磐座(みふねいわくら)付近に椿大神社(つばきおおかみやしろ)が造営されています。 

猿田彦神社は、この椿大神社より猿田彦大神の御霊を勧請して創建されました。

御祭神  猿田彦大神(さるたひこのおおかみ)

 

社殿参拝

 鳥居から一揖して入り、先ず右手にある手水舎で清めます。コロナの影響で柄杓が無く流し放しの手水舎が多いようです。

 

扨て、拝殿です。

 

拝殿正面です。社紋は、五七の桐(ごしちのきり)。秀吉が使用していました。

 

拝殿の柱に「猿田彦神社」と書かれた木札です。

 

社殿の右側面です。

 

 境内全体ですが、住宅街の一画に鎮座したこぢんまりとした境内です。左に鳥居、その奥に社殿、中央に御神木のマツです。右手に社務所があります。

 

道教(たいどうきょう)

 そして、中央の参道を進むと、「太道教本部」があります。

 

 猿田彦神社と同じ敷地内に「太道教本部」が置かれています。太道教本部は、鹿児島県霧島市にある霧島神宮より天孫(てんそん)降臨の瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)の御霊を勧請して創建されました。

道教本部の傍に説明掲示板があります。

 御祭神の瓊瓊杵尊は、『古事記』『日本書紀』の天孫降臨の段に登場する神です。天照大御神の孫である事から天孫と称されています。

 太道教は、天理教から派生して、中村しげが開いた神道系教団です。霧島神宮の関東における講社として、昭和15年(1940)に宗教結社太道教として届出が認可されました。戦後新たに施行された宗教法人令の元で、昭和21年(1940)、宗教法人太道教としてあらためて立教宣言しました。

 

 正面左の柱の木札に「太道教本部」、右に「天孫降臨顕彰會本部」の木札が掛かっています。

 

正面内部です。

 

神水

 拝殿の右手に糺水宮(きゅうすいのみや)という祠があります。井戸の神として祀られています。

 

糺水宮御神徳の看板。

 

 横に「御神水所」の矢印の看板があります。その方向に行くと、社殿の脇に狭い通路があります。

 

狭い通路の先には手押しポンプ式の御神水所があります。

 

レバーを下げると御神水が出ます。

 

御朱印

 最後に社務所にて御朱印をお願いしました。

 

御朱印は「猿田彦神社」、「太道教」の御朱印の2種類です。

 

 

猿田彦神社天孫降臨の「御神徳略記」と栞も頂きました。

 

おわりに 

 「猿田彦神社」の境内に、天理教から派生した神道系教団の「太道教」という社殿もあるのに、こういうケースは初めてなので少し違和感がありました。

 天照大御神が、孫である瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)に国土の統治、繁栄を命じます。瓊瓊杵尊は、三種の神器・稲穂を持ち、高千穂へ降臨。その途中、瓊瓊杵尊の道案内をしたのが猿田彦大神です。

 このような天孫降臨にまつわる瓊瓊杵尊主祭神とする「太道教」、その瓊瓊杵尊を導いた猿田彦大神を御祭神とする「猿田彦神社」という繋がりがあることが分かりました。

 この神社は、こぢんまりとしたコンパクトな造りですが、し境内は綺麗に整えられていて、落ち着いた雰囲気です。近所の方でしょうか、絶えることなく参拝していく姿を見かけました。宮司さんの対応も丁寧で、わたしも気持ちよく参拝することが出来ました。有難うございます。

                     以上

東京都杉並区 歴史と自然の共存「和泉熊野神社」

 東京都杉並区の寺社の散策が続きます。今回は、京王井の頭線沿線「龍光寺」の直ぐ北側にある「和泉熊野神社」です。

 

 正面の一の鳥居の前です。右側に「熊野神社」と刻まれた社号標があります。

 

和泉熊野神社の御由緒の説明板です。

 

和泉熊野神社の御由緒

 和泉熊野神社は、旧和泉村の鎮守です。社伝によれば、文永4年(1267)に紀州熊野神社の分霊を祀ったのが当社の創建で、弘安7年(1284)に社殿を修造し、その後北条氏綱が上杉朝興と戦い江戸城を攻略した際にも、大掛かりな改修を加えたと伝えられています。
 江戸時代には寛永16年(1639)と元禄9年(1696)の両年に社殿の改修をおこなったことが、棟札によってわかります。現在の社殿は文久3年(1863)の造営で、明治4年に修覆したものです。

御祭神

 天御中主命(あめのみなかぬしのみこと)

 伊弉諾命(いざなぎのみこと)

 伊弉冉命(いざなみのみこと)

              以上 杉並区教育委員会掲示より

 

鳥居から境内へ

 一の鳥居です。直ぐに2つ目の鳥居が見えます。扁額は「熊野神社」です。

 

二の鳥居です。奥に石段の上、三の鳥居が見えます。

 

三の鳥居です。木製のこの鳥居をくぐると石段があり、その奥に社殿が見えてきます。

 

石段を上がると直ぐに狛犬がいます。

 

今来た参道を振り返ると、高台になっているのが分かり、狛犬、三の鳥居が見えます。

 

社殿にて参拝

そして、社殿の方へ進みますが、先ずは手水舎で心身を清めます。

 

拝殿です。手前の狛犬がしっかりとした大きな造りです。

 

拝殿正面です。社紋は「左三つ巴」。上部の龍の彫刻が見事です。

 

右側から社殿を撮ると、庫裡と棟続きになっています。

 

御神木のクロマツ

 社殿の左側には大きな御神木がそびえ立っています。「クロマツ」で、徳川家光が鷹狩りの途中に休息した時に植えたと伝えられています。右側が直ぐ本殿です。

 

杉並区指定「天然記念物」の標柱が建っています。

 説明欄には、「和泉熊野神社クロマツ1本」の表題です。

 社殿横の本クロマツは、幹周3.1m、根元周囲6.3m、樹高(目測)は17mあり、樹齢は350年以上と推定されています。クロマツは俗に雄松と呼ばれ、アカマツに比べて大形で葉は大きく、樹皮が黒褐色をおびています・・・云々。

 

 境内全体の景観です。左側の社殿の左側の木が「クロマツ」です。

 

境内の東側には神楽殿があります。

 

この神社の東側に幼稚園が併設されていて、園児が境内を見て回っています。

 

境内社

 社殿の両脇には境内社があります。
左側に「北野神社・御嶽神社・山神社」の三社が合祀されている末社があります。

 

祠の前に狛犬です。

 

祠です。中に小さな狐さんもいます。

 

社殿の右側に「稲荷社」があります。

祠の前の狛狐です。

 

 

御朱印

最後に社務所にて御朱印をお願いしました。社務所はこちらです。

 

御朱印は、熊野神社ということで、「八咫烏」が右上にいます。

 

パンフレットも頂きました。

 

おわりに 

 和泉熊野神社の創建は、文永4年(1267)と云いますから北条氏の鎌倉時代と古いです。しかも、境内からは縄文時代の土器、石器、古墳時代の土師器などが出土しています。この地域は、神田川沿いの高台であり、古代から人間の生活に適した地形と思われます。

 現在は、都心の住宅街にありますが、境内は広く、樹木が豊富でここだけ別世界のこんもりとした森の中です。近くの幼稚園の園児が境内を庭のように歩き回り、本当に神域を感じさせるような神社でした。

                    以上

東京都杉並区の古刹 神田川沿いの「龍光寺」

 東京都杉並区の寺社散策が続きます。今回は、真言宗室生寺派の「龍光寺」です。

 

 前回の「永福稲荷神社」から北東方向へ、京王井の頭線を越え「神田川」沿いに歩いて10分位の所にあります。神田川は、区内の散策で中野区から新宿区、文京区、千代田区とよく出会います。神田川の源流は、井の頭公園の池です。

 

石柱門から山門へ

 山門の前に、龍光寺の石柱門が建っています。右側に山号の「泉涌山」、左側に寺号の「龍光寺」の文字が刻まれています。

 

石柱門を入ると直ぐ左には石庭があります。

 

巨大な石燈籠があり、「大師灯籠」と呼ばれているようです。

 

石柱門の直ぐ右の二階の建屋が、大師堂です。

 

参道を進むと石段があり、山門まで少し距離があります。

 

石段を登ると山門です。

 

龍光寺の縁起

山門の脇に、由緒書きがありました。

 

 龍光寺は泉涌山医王院と号する「真言宗室生寺派」の寺院です。開創は、明治10年の書上げによると承安2年(1172)とされ、開山は寺伝によれば「龍観和尚」と伝えられています。
 山号の「泉涌」は、和泉の地名の由来ともなった貴船神社の泉に、院号の「医王」は、本尊の薬師如来に因むものといわれています。

また寺号の「龍光」は、当寺のすぐ下を流れる神田川の源、井之頭池にすんでいた巨大な竜が、川を下ってきて、この付近で雷鳴をとどろかせ、光を放って昇天したことに由来すると伝えられています。
 江戸時代、当寺の本尊は難病に御利益がある薬師如来として信仰あつく、護摩の煙が絶えなかったといわれています。

 

本堂

山門をくぐり本堂に行きます。

 

本堂です。

 

本堂の扁額は「瑠璃殿」です。

薬師如来の正式名は、「薬師瑠璃光如来」と云うので「瑠璃殿」と名付けられます。

 

本堂の前に「当山本尊薬師如来」と刻んだ石碑が建てられています。

 

 本堂の左手前には観音堂があります。如意輪観音を祀ってあるようです。

 

鐘楼

 鐘楼です。戦時中の供出があった梵鐘に寛保2年(1742)銘がありましたが、現在の梵鐘は、昭和29年に造られたものです。

 

四国八十八箇所和泉霊場

 龍光寺の境内の西側に、「新四国八十八箇所和泉霊場」があります。四国八十八ヶ所霊場巡りを模して作られたものです。

 

しかし、開放されるのは土、日曜日のみのようで閉まっていました。

 

中を隙間から見ると、こんな感じです。

 

石仏群 供養塔と庚申塔

 新四国八十八箇所和泉霊場の北側には、多数の石仏があります。供養塔、庚申塔のようで刻まれた年代から江戸時代のものと思われます。

 

この中で目をひくのが地蔵菩薩坐像です。顔の表情が石造とは思えないリアルさです。

 

 また、庚申塔もあります。笠位牌型の庚申塔で、元禄14年の文字が刻まれて、下に三猿が彫られています。

 

 もう一つ駒型の庚申塔があります。お地蔵さんの後ろです。四臂の金剛像が、邪鬼を踏みつけており、その下に三猿が彫られています。これは、珍しいです。

 

如意輪観音の石象もあります。

 

御朱印

 最後に御朱印です。庫裡に伺います。若い僧侶が丁寧な対応をして頂きました。

庫裡玄関。


庫裡の内部。

 

 

おわりに

 杉並区という都心にありながら、予想以上に大きい寺で驚きました。御本尊の「薬師如来立像」は、平安時代末期(12世紀前半)に造立されたもののようで、拝観したいものです。

 境内は、清掃も行き届き気持ちよく参拝することが出来ました。庫裡の中も綺麗にランの花が飾られ整頓されており、若い僧侶は、この上なく丁寧な対応をして頂きました。わたしが去るまで深くお辞儀をしていたのが印象的でした。
                     以上

永福寺と隣接した「永福稲荷神社」秀天和尚の創建

 都区内の寺社の散策、杉並区の続きで永福寺の直ぐ西側にある「永福稲荷神社」です。

 

 既に記述した永福寺「五輪庚申供養塔」の向かいに永福稲荷神社の社殿が目に入ります。

神社の東側ですで、正面の鳥居のある西側に回ります。

 

 正面の一の鳥居の前です。右側に「永福稲荷神社」と刻まれた社号標があります。

 

永福稲荷神社の御由緒

 永福稲荷神社は、社伝によれば、享禄3年(1530)永福寺の開山、秀天(しゅうてん)和尚が、永福寺境内の鎮守として京都伏見稲荷大社より「宇迦之御魂大神(うかのみたまおおかみ)」を勧請創建しました。

 寛永16年(1639)の検地の際に、永福寺村持ちの鎮守になったと云われています。

明治維新後、永福寺から分離して一社となり、今日に至っています。

 御祭神宇迦之御魂大神 食物の神

杉並区の歴史の書かれた説明掲示板がありました。

 

鳥居から境内へ

 一の鳥居です。扁額の文字がよく見えませんが、稲荷神社と書かれています。

 

一揖して入ると、向こうに紅い「二の鳥居」が見えます。

 

二の鳥居です。正面に社殿です。

 

二の鳥居を入ると、左手に手水舎です。

 

社殿

永福稲荷神社の社殿です。

 

社殿の前、子狐を抱えたお狐さんです。

 

拝殿です。

 

拝殿正面、社紋は、稲紋です。

 

拝殿に掲げられている扁額です。

 

左側から見た社殿全体景観で、稲荷神社らしく紅い幟が目を引きます。

 

こちらは、永福稲荷神社の本殿です。

 

社殿の前の御神木です。イチョウの木のようです。

 

境内社

 永福稲荷神社には、幾つかの境内末社があります。社殿の傍に「天神社」が鎮座しています。

御祭神:菅原道真公、

御神徳:学問の神

 

境内北側には、三社並んで境内社があります。

 

左から白鳥社。

 

そして、天王社、白山社です。

 

北側の鳥居

境内の北側にも鳥居があります。

 

鳥居の両脇にもお狐さんがいます。少し不気味な感じがしますが。

 

御朱印

最後に社務所にて御朱印をお願いしました。

序に竜の置物も頂きました。

 

おわりに 

 江戸時代までは隣接する永福寺の境内に鎮座していたという永福稲荷神社です。永福寺を開山し た秀天和尚が、伏見稲荷より、永福寺の伽藍鎮守として勧請したと云います。

 それが神仏分離令により独立し、立場が逆転、明治11年(1878)村全体を護るようにと社殿が西向きに建て直されたのです。その当時の永福寺は、全国の寺院と同じように衰えたと思われます。

 しかしながら現在は、永福寺、永福稲荷神社ともに成り立ち、やはり日本の寺社は神仏習合が合うようです。

 このような寺社の形態は、日本のいたる所に見受けられると思います。

                      以上

春のきざしの生きものたち 多肉植物の成長と柴犬の日常

 春のような暖かい日からまた冬に逆戻り、という寒暖差が激しい日が続いています。身近の生きものたちも少し戸惑っていると思いますが、どうでしょうか。

 

元気いっぱいの多肉植物

 今年の冬は天気の良い日が続き、家に入れた多肉植物は、大きく成長しました。水は殆ど与えていませんが、太陽の光だけで成長するのには驚きです。小さな鉢に育てて来ましたが、鉢も小さくなったので大きな鉢に幾つか集めて、寄せ植えをしました。

 

中央の上部に「エケベリア」という多肉植物です。

 ベンケイソウ科エケベリア属で、メキシコなど中南米が原産です。まるで花びらのように広がる肉厚な葉が特徴です。一株が二株に増えています。

 

左にぷにぷにとした姿が可愛い半透明の「ハオルチア」です。

 

 下の方にまるっとした葉がコロコロついているのが、「セダム ジェットバース」です。葉がぽろっと取れ易いのが難点ですが、落ちた葉がまた根付くのです。

 

寄せ植えは、配置、土の入れ方など、なかなか難しいものです。

他の多肉植物です。銀手毬(ギンテマリ)に可憐な花が咲きました。

銀手毬は、小さなサボテンで白いとげに覆われ、造形が綺麗です。

 

 他の「ハオルチア」です。葉の中から枝を伸ばそうとしています。これがぐんぐん伸びていき、薄いピンクの地味な花を咲かせます。

 

 カネノナルキ(金のなる木)が白い花を咲かせました。これも、薄いピンクの花です。葉が硬貨に似ているのが、名前の由来のようです。

 

 子宝弁慶草(コダカラベンケイソウ)も多肉植物ですが、これもたくさん花を咲かせました。

 

 寒さに強い「上海ローズ」です。小さい芽が幾つも出て大きくなり、大きな鉢に植え替えました。

 

福娘」という多肉植物です。ふっくらとした白味がかった葉の多肉植物です。去年の夏には橙色の花が咲きました。倍以上大きくなっており、勢いがあるので今年も咲くことでしょう。

 

用心深い「ヒヨドリ

 庭にやって来る野鳥たちも、冬の少ない餌を求めて逞しいです。万両に止まった「ヒヨドリ」です。左端に止まっていますが、右の先の赤い実を狙っています。

 

注意深く右の赤い実に近づいています。

 

暫く時間をかけ周りを伺い、遂にサッと実を取に行きます。

 

赤い実をゲットします。

本当に用心深いトリ、ヒヨドリです。気配を察知すると直ぐに逃げていきます。

 

冬鳥の「ツグミ

 いつも冬の今頃現れる「ツグミ」です。保護色でよく分かりませんが、矢印のところです。10月ごろ、シベリアから大群で渡ってくる冬鳥の代表です。

 しきりに、地面をはねるようにとんで、つついています。虫か何かをさがしているようです。このトリはいつも木の上ではなく、地面にいるところを見かけます。

 

柴犬チロリ

 そして、柴犬チロリ14歳の現在です。認知症の兆候で昼夜逆転の生活、徘徊、緩慢な動作など続いていますが、元気いっぱいです。散歩ではぐいぐい引っ張り、散歩から帰って来ても、家中高速で走り回ります。

 

 この前の雪が降った時の散歩です。雪が積もったのは何度か経験していますが、少しいつもと違うとテンションが下がるようです。

 

今から眠るところです。

平和な寝姿に癒されますが、寝ていない時は、始終徘徊みたいに歩き回っています。

 

 そして、餌が欲しいか、構って欲しい時に、わたしの座っているテーブルの下にやって来ます。

柴犬14歳チロリの最近の表情でした。

 

おわりに

 健気に一生懸命生きる身近な生きものたち、それがわたしにとっての癒しであり、健康法なのかもしれません。

 多肉植物は本当に手間がかかりません。水も忘れたころやるだけで、いつの間にか育って増えています。不思議な植物で、その成長が楽しみになっています。

 柴犬チロリは、小さい頃から人の云うことは聞かず、気の強い子でした。成長して少しは穏やかになったのも束の間、老犬になって、また性格が子犬に戻ったような感じがします。それでも、世の中の厭な出来事を吹き飛ばしてくれ心が和む存在です。長生きして欲しいものです。

                    以上

 

東京都杉並区の古刹「永福寺」 心安らぐ境内

 都区内の寺社の散策で、今回は、杉並区の「永福寺」です。京王井頭線、「明大前」から次の駅、「永福町」駅から北の方向へ歩いて数分の所にあります。

 

山門

住宅街を歩いて程なく、永福寺の山門が見えて来ます。

 

扁額は、山号の「萬歳山」です

 

山門の左に寺号標「曹同宗 永福寺」があります。

 

山号:萬歳山

寺号:永福寺

宗派:曹洞宗

御本尊:十一面観音像

 

永福寺の縁起

 寺伝によれば、開創は大永2年(1522)で、開山秀天慶実と伝え、永福寺村の村名もこの寺名に由来します。

 永福寺の名は、永禄2年(1559)に北条氏康が作成した「小田原衆所領役帳」にも見え、開創は寺伝の伝える時期に近い頃のことであったと思われます。小田原落城後、北条氏の家臣、安藤兵部丞は、当寺の住職を頼ってこの地に帰農して永福寺の檀家となり、村の開発に努めたといわれます。

 境内に説明掲示板があります。

 

また、山門の前に「禁葷酒」と刻まれた石碑があります。



禁葷酒(きんくんしゅ)とは、「酒やニンニク類など刺激の強い野菜の持ち込みを禁止する」という意味です。

 

山門から境内へ

 山門はいつも閉じているようで、その右側から入ります。

 

境内は、中央に本堂と庫裡(くり)、左側が墓地になっています。

 

本堂

本堂です。

 

本堂の扁額は「永福禅寺」、寺紋は、「丸に三つ星」です。

 

本堂内陣です。

 

鐘楼と三層塔

境内の右側です。鐘楼、三層塔などがあります。

 

鐘楼です。

 

 鐘楼の傍に三層塔があります。その前の石碑に「九世紀造」と刻んでいるので、相当古い三層塔のようです。

 

石像群

 そして、境内の西側は、墓地が広がっています。その入口にある「六地蔵尊」です。

 

 六地蔵尊の近くに、大掛かりな無縁仏を集めた無縁塔があります。

 

如意輪観音の石像が多いようです。

 

御朱印

 最後に御朱印です。庫裡に伺いますが、生憎、御住職が不在で頂くことが出来ませんでした。

 

そして、寺院の境内の外ですが、西側に杉並区の指定文化財、五輪庚申供養塔があります。

正保三年銘五輪庚申供養塔です。

 

おわりに

 境内は、綺麗に整頓され、六地蔵、無縁仏などいたる所に花が添えられていました。庫裡の中も綺麗にランの花が飾られており、不在でしたが御住職の気遣いが伺えました。気持よく参拝出来、有難うございます。

                    以上