博物館実習全て終わる

 先週末から始まった、奈良大学での博物館実習(二)が全て終了しました。前半は1か月前に終わっていましたが、後半部分の3日間の実習です。始まる前日に寺巡りもしましたが、最初は暑く、最後は寒く寒暖の激しい日程でした。

 そして、コロナ禍の状況は、1か月前とは一変していました。ホテルも土曜日の夜は空いていなく、旅行者も戻っている気配です。奈良大学も日曜以外は売店、食堂が開いており、学部もオンライン講義から対面に変わりつつある状況のようです。

 コロナ感染者が急激に減っていても、新幹線、奈良の電車の中ではマスクをしていない人は皆無で、日本人の真面目さが伺え、これが、急激に減った欧米と違う要因の一つに違いありません。

 今回の実習は、総勢20名、福岡、名古屋、千葉など様々な所から集まった熱心な方々で、男性が僅かに多いようです。最初、彫刻の仏像班と絵画の掛軸班10名ずつに分かれてそれぞれの講義、実技を受けます。講師は、変わらず関根館長と岡田教授です。

その後、自分の好きな仏像と掛軸の班に分かれて、班の人達同士が相談し、奈良大学博物館の展示室に作品のラベルなどを作って展示、評価しようというものです。

 わたしは、仏像の講義のときに10数点の仏像の中からガンダーラ美術の石像を選択しそのまま展示の仏像班に入りました。

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菩薩立像 ガンダーラ美術の石像 

というのも、わたしの卒論の「半跏思惟像の伝搬」の中にガンダーラ地方の石像があったのですが、これもビーチサンダルみたいのを履いていて、3世紀にサンダルという履物があったという事で印象に残っていたからです。

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3世紀のガンダーラの菩薩半跏思惟像 松岡美術館所蔵

頭部にはターバン冠飾を被り、装身具を付け、籐の台座に腰掛け思索する姿の石像です。ガンダーラ地方の現ペシャーワル周辺に三世紀頃に造られました。

 

 話しを講義に戻して、一応仏像、掛軸の内容を紹介します。

仏像の取扱において、移動の際に梱包するときに使う綿ブトンの作り方と仏像の養生を行いました。

先ほどのガンダーラの菩薩立像を綿ブトン、薄葉紙を使い養生の過程です。

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・窪んだところに薄葉紙をあてがいます。

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・まず頭部を薄葉紙で覆い、紐で縛ります。

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・体全体を薄葉紙で覆い、紐で縛ります。

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・その上から綿ブトンで覆い、紐で要所を縛って完成です。

運搬する際は、これを綿ブトン、薄葉紙などを使いダンボールに入れ運搬し、開梱もこの逆の順序で行います。

 そして、仏像の名称、時代、所蔵者、所在地、法量、材質そして特徴などを調査用紙に記入します。これが展示の際のラベルを作るときの元となります。

一般的な文化財の寄贈品及び購入品の台帳登録の仕方を学んだあと、掛軸に移ります。 掛軸の持ち方、箱の開け方、取扱の講義を受け、仏像のように各自自由に掛軸を選びます。そして壁に掛ける実習をして、それぞれのキャプションを皆に説明します。わたしの説明したのは、「雪中南天小禽図」でした。

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雪中南天小禽図 前川文嶺作 明治~大正時代 絹本着色

 最終日に、各自名称、解説文などのキャプションを印刷したラベルを作り、作品を博物館の展示室に運びます。

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ラベル作り 学芸員が要領を示す。

のり付きの発泡スチロールに、印刷したキャプションを書いた用紙を貼るのですが、これが難しい。何でもノウハウがあるのが分かります。

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完成したラベル

 そして、予め相談していたのですが、仏像を全体的にどうレイアウトするか、時代順、形状など展示の仕方などを確認しながら、展示する位置を決めていきます。ラベルなどを置いて全体とバランスをとり、完成させます。

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仏像を養生して展示室に台車で運びます。

以下、展示した作品です。大きさ、地域、時代などを考慮して並べています。

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掛軸の展示も見事です。

 最後に先生から評価をいただいて終了です。概ね評価は良かったのではないでしょうか。

 

さて、科目レポート、試験はまだ残っていますが、来年度に持ち越しとなりそうです。

6年間通った奈良大学には、これからは来ることはなく、車窓からの平城宮跡大極殿朱雀門も、もう見ないのではと一抹の寂しさも覚えます。

                          おわり

対馬藩の国書偽造

 最近、財務省の公文書改竄問題などがありますが、今回は、中世の日朝交流の際の国書偽造の話しです。対馬藩が行った歴史の汚点とも云うべき事件で、徳川家康の国書を偽造して家光の時代に発覚したものです。

 長崎県対馬は、韓国からわずか50キロの国境の島です。対馬については、2年前に歴史などをブログに書いております。

古代から大陸の窓口「対馬」 - クマケア治療院日記 (hatenablog.com)

 対馬藩は、日朝の板挟みとなった立場には同情すべき点もありますが、国のため、事を荒立てないという理屈をつけて公文書をないがしろにする姿勢は、決して許されるものではありません。

この辺の経緯が、ズバリ『国書偽造』というタイトルの本があったので読んでみました。時代小説はあまり読んでいませんが、江戸時代の上下関係のしきたりや作法などが細かく描かれてよく分かります。

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『国書偽造』

 あらすじは、対馬藩の家老柳川調興(やながわしげおき)を中心に書かれています。実際に偽造したのは調興の実父の時代ですが、この調興こそが家老の身でありながら、また実父対馬藩家老の柳川智永(としなが)や前藩主らが改竄したにもかかわらず国書偽造を幕府に直訴し、藩主宗家の義成(よしなり)と対立するのです。

 登場人物は、三代将軍家光の時代で裁定する幕府側は、知恵伊豆こと松平伊豆守信綱はじめ老中の土井利勝酒井忠勝などです。対馬藩主側は、藩主宗義成、僧の規伯玄方(きはくげんぼう)らです。

 物語の発端は、豊臣秀吉朝鮮出兵で、対馬藩が、今まで日朝の交易を一手に引き受けて藩の財政を支えてきたのが一気にくずれたのです。朝鮮とは争いたくない対馬藩でしたが、時の流れに逆らえず、朝鮮上陸の第一陣の先鋒に、義成の父、対馬島宗義智が命ぜられます。結局、秀吉の死で朝鮮の役は、終結します。

その後、朝鮮と修好回復しましたが、対馬が生きるのは、対朝交易を蘇生させねばなりません。耕地に乏しく自給自足できない島にとって、朝鮮との通交は生命線だったのです。

 朝鮮王朝は、通商条約を結ぶための条件として、第一にこの朝鮮の役の折、日本に強制連行された被虜人の返還、第二に朝鮮王の陵墓を荒らした墓盗人を捕らえる事、そして第三、新たな日本の統治者となった徳川家康に朝鮮王への詫び状を書かせよという事です。

第一は、二千人かき集め、第二は盗人をでっちあげて形を整え何とか成功します。難題は第三です。

徳川家の大御所が詫び状を書く筈はなく、事実徳川は、朝鮮出兵に反対し一兵たりとも玄界灘を渡っていません。そこで国書偽造が行われたのです。

朝鮮王朝の求めに応じ大権現徳川家康公の謝罪の国書を偽造して朝鮮に示し、日本側がへりくだって修好を求めてきたように装います。

そして朝鮮国王使が来日すると、今度は朝鮮の国書をつじつまが合うように改竄したのです。

 物語は、代が替わって三代将軍家光の時代に偽造が発覚するのですが、実はそのような事は、秀吉の時代、その前の室町時代から続いていました。1990年代に国書偽造、偽使派遣の決定的な物証が見つかっています。

 宗家が旧蔵していた印章37点で、架空の名義のほか実在する守護大名、そして室町将軍や朝鮮王朝の印まで揃えています。現在、九州国立博物館の文化交流展示室では、対馬宗家文書の展示コーナーを常設しています。

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朝鮮国王の外交文書用印鑑「爲政以徳」の偽造木印。

 豊臣秀吉に宛てた国書(1590年)に押された印影と、朱の成分まで完全に一致していたことから判明しました。

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 室町将軍の印「徳有鄰」(偽造木印)4顆

足利将軍の名義の遣朝鮮国書に捺される「徳有鄰」が4つも含まれることが朝鮮に渡ったことを示します。

 

 話しは物語に戻って、偽造が発覚したのは、対馬藩家老柳川調興寛永元年(1624)の朝鮮国書の偽造印と日本国書の原本を、御公儀に差し出したときから始まります。

その動機は、宗家を捨て御公儀に直に仕官し、直臣の旗本になりたいという思いでした。戦国、秀吉の世の中から徳川家の家康、秀忠、家光と繋いでやっと世の中が安定していった時代であったのですが、調興の父親の智永もまた家康の国書偽造のあと、前藩主義智(義成の父)に対馬藩から去ることを約束していました。小説では、智永が藩主義智に殺されたとされていますが真偽はどうでしょうか。

調興は、宗家を飛び出すときは今をおいてないとし、国書偽造を暴露し、画策したとおり幕閣に大きな衝撃を与えたのです。

 そして、老中松平伊豆守は、対馬に家臣を派遣し関係者を調査させます。印を偽造した者、それを発注した者、国書を改竄した者などがあきらかになり詮議するため江戸に連れて来るよう指令を出します。偽造に関わった者は極刑も免れません。証人および家族総勢20名ほど、その頃は対馬から大阪までは海路、大阪から江戸までは陸路を辿って相当日数が罹ったと思われます。

いよいよ松平伊豆守信綱の詮議に対する、宗家と柳川家の対立がメインの見せ場となります。

詮議の結果の知恵伊豆は、裁定をくだします。家康の詫び状関係者は、没しているので詮議保留。対馬藩宗義成と家臣柳川調興は直接関与していないが監督責任があり、いずれに監督責任を問うべきか迷いますが、伊豆の結論は、対馬宗家の取り潰しです。

日本が太古の昔から営々と築き上げて日朝関係の交易は、御公儀が直に行い、調興を対馬奉行とするというものでした。

 そして、御城本丸大広間においての家光の最後の裁定です。

家光は、「宗義成を勝たせよ。」という一言でした。宗義成方の僧、規伯玄方の「今は乱世ではない平和である、今こそ乱世の夢を捨てさせるべき」と云う言葉に心を動かされ、全てがひっくり返ったのです。

 これで伊豆の裁定もやり直して、宗義成は御咎め無しとし、1両年中に朝鮮国使を来聘、外交力を試すため万が一失敗すれば調興を呼び戻すというものでした。しかし翌年朝鮮国使を招聘に成功します。

調興は、津軽藩流罪です。僧の規伯玄方は流罪南部藩に預かりの身となります。

また、宗家と柳川家の実際に改竄に関与したそれぞれの長老の家臣とその男子に死罪となり、結局両成敗という結果でした。

 流罪となった調興は、老中土井利勝の配慮で、家臣7名の供を許され、弘前城南西に広大な屋敷を与えられます。以後半世紀近くを津軽の地で過ごし、対馬に還れることを待ちましたが、赦免されることなく82歳で没します。

 徳川3代目で安定した平和が訪れた家光の時代に、時代遅れの夢を持ち続け、世の不条理に憤り、そしてあがいた柳川調興の生きざまで、何事も波たたせず穏便に済ませようとする財務省官僚の公文書改竄問題と似たような国書偽造の物語でした。

この作品は、読み応えがありましたが、史実ももう少し詳しく知りたいので、関連する他の書籍も読んでみたいと思います。

                                                                                                          おわり

日本人の起源とアイヌの歴史

 以前、ブログで世界文化遺産に登録が決まった北海道の縄文遺跡について書きましたが、実際にその時代に北海道に生活していたのはどのような人たちでしょうか。

縄文人あるいは和人か、そんな疑問から日本で唯一先住民族と認められているアイヌの歴史について調べてみました。北海道出身の者として。

 日本列島に人類が足を踏み入れたのはどのくらい前のことでしょうか。ヒトの歴史について紐解かねばなりません。

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ヒトの移動ルート 

 ホモ・サピエンスは、7万年前にアフリカから外へ移住し始めます。そのルートはアフリカ東部の突端からアラビア半島を経由したものだと考えられています。

 日本列島に人類が住みはじめたのは、今から約3万数千年前とされています。南北両方から人類が、渡ってきています。南からは、朝鮮半島や南の島々を渡って南から移動してきた人々です。

また、北からは、シベリアの大陸の方面から移動してきた人々です。彼ら二つのグループは、高度な石器づくりの技術をもちこみます。

 当時は、約3万数千年前ですから「氷河期」で、ユーラシア大陸とつながっており、マンモスなどが生息していたと考えられています。人々は、打製石器を使い、狩猟により生活をしていた、いわゆる旧石器時代です。今から約1万年前までは、このような時代が続きます。

 そして、日本人の起源は、約1万5千年前から約3千年前にかけて、北海道から沖縄まで広く居住していた縄文人です。その後に大陸からの渡来集団が混血して弥生人となり、現代の日本人につながったとする説が定説とされています。

北海道にも多くの旧石器時代の遺跡が各地にあります。北海紋別郡遠軽町の「白滝遺跡」などです。

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白滝遺跡群から発掘された黒曜石の石器

 結局、アイヌも和人も縄文人という共通の祖先を持つということが分かり、アイヌ縄文人の末裔と想定されるということです。和人とは、アイヌ以外の日本人が自分たちをアイヌと区別するために用いた自称です。初出は、江戸幕府が当時のアイヌに対して用いています。

 アイヌに対するイメージは、美しい大自然に囲まれ争いをせず、閉じた世界で自給自足の生活を、のんびりとしていたというのが一般的です。しかし、アイヌはそうではなかったのです。

縄文時代が終わり、アイヌは、稲作を始めた和人との分化が始まりますが、その後も和人との交流を続けます。

 4~5世紀頃、オホーツク人の北海道の南下に伴い、次第に北海道南半や東北地方へ移動します。10世紀以降、商品として和人に供給するため、高級なオオワシの尾羽根を求めてオホーツク海沿岸に進出します。

このように、10世紀以降のアイヌは異境の産物を求めて海を越え、異文化と融合や衝突を繰り返してきた「交易民」であることが近年の考古学の成果で分かってきました。

 11世紀頃にサハリン、南千島に進出して、サハリンでは13世紀に入って先住民族であるニブフと対立します。ニブフは元朝に助けを求めたことから、半世紀近くにわたってあのチンギスハンの元とアイヌが交戦を繰り返したのです。 

元の兵力1万人に対し、アイヌは数百の兵で激しく抵抗を続け、ときには大陸に渡って先住民の村を略奪したこともあったようです。

 結局は1308年に毛皮の貢納によりアイヌが元に服属したのですが、閉じた世界に安住していた民では無かったのです。

 アイヌが道内をはじめ、サハリンや千島列島との交易により入手し本州へ移出したものは、オオワシの尾羽根だけでなくクマやキツネ、ラッコなどの毛皮など多岐にわたっており、それらにより、米、絹織物、鎧冑、刀などを手に入れていました。また、15世紀には明朝に交易を求め、北千島にも進出しています。

 このように、アイヌは単純に自給自足の生活をしていた「自然と共生する民」ではなく、交易が狩猟採集と同様、彼らの重要な生業でした。

 その後1669年に、アイヌ民族間の対立に端を発した「シャクシャインの戦い」で松前藩に敗れ、和人がアイヌに軍事的にも優越していき、幕府、松前藩側の主導権が確立していきます。

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蜂起の指導者シャクシャイン

 そして明治維新後、戊辰戦争箱館戦争終結し、開拓使が設置され、北海道と改称、本格的な開拓が始まります。アイヌは「平民」に編入され、独自の風習を禁じ、日本語教育を含めた同化政策を始めます。

 近年では、1994年にアイヌ初の国会議員が誕生、2008年 「アイヌ民族先住民族とすることを求める決議」が可決され、アイヌ民族を日本の先住民族として認定されます。

 わたしが札幌で過ごした小学生のとき、クラスにアイヌ男児がおりましたが、あまりアイヌ人だと意識することなく過ごした覚えがありますが、アイヌは、自然と共生する民というイメージと海を越えて融合や衝突を繰り返してきた歴史があったのだとあらためて思います。

                         おわり

夏の終わりの生きものたち

 コロナの蔓延も全国的に急激に収まり、全ての宣言解除となりましますが、専門家の理由も明確ではありません。このままコロナは自滅していくのでしょうか。

過去の日本古代の流行、スペイン風邪などなどワクチン、特効薬が無くても収まったように。

 

 残暑も長続きせず涼しい季節がやって来ました。わたしの周りの生きものたちは、夏をどう過ごしたのでしょう。庭に住みついているニホントカゲは、何を食べて生きているのか不思議でした。小さいながらやはり肉食の爬虫類です。

たまたまバッタを捕まえて食べているところをみつけました。驚きの写真です。

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バッタを食べるニホントカゲ

 先日、奈良の大神神社にお参りに行きましたが、その境内でミミズを食べているニホントカゲを見かけました。同じように肉食の動物は、強烈です。

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ミミズを食べるニシニホントカゲ

 遺伝子的には東日本と西日本に生息するニシニホントカゲは違うようですが、形状はそっくりです。寿命は5年~10年で、気温が15度を下回ると冬眠するようですから、もう1,2ヵ月もすると姿をみせなくなると思います。

 メダカも、いつも元気です。夏には水槽の中の温度は、お湯のようになり、涼しくなった今は冷たくなりましたが、平気です。直ぐに苔で水は青くなるので、水替えは結構大変です。でも替えた後は、見ていて爽やかな気分になります。

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白メダカ 一番夏向きな、色です。

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黒メダカ 食欲旺盛、水槽に近づくと餌をねだって集まります。

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楊貴妃 いつも綺麗です。

 トンボやチョウも時々やって来ます。まだまだ自然が残っている多摩の南です。

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シオカラトンボ

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キアゲハ

 金木犀は、今年は芳しい香りが早くに漂いましたが、あっと云う間に散ってしまいました。

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金木犀

サルスベリの花はしぶとく長く咲いています。

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サルスベリの花

 ミカン、ブドウ、柿など果物の木を植えているのですが、毎年不作と沢山なる木が異なります。今年はブドウと柿が、たくさん実をつけました。

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たくさん採れた葡萄

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柿の収穫はもう少し先です。

 柴犬チロリは、相変わらずマイペースの生きかたを貫いています。散歩に行っても直ぐに帰りたがります。健康のためにもっと歩こう、と云っても絶対に聞き入れません。

こういうチロリも9月2日で12歳の誕生日を迎えました。

 いたって元気で、獣医にはここ10年以上行ったことがありません。ただ決まって1~2ヵ月するとお腹が鳴ってその日は朝から食べません。

夜にやっと食べるのですが、その後はケロッとしていつもの通りです。何年も前から繰り返していますが、自分の体調を、自分で調整しているみたいです。

夜寝る前には、必ずわたしのところに来て、遊びたいのか足元に纏わり付きます。

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悪戯しようと近づくチロリ

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すぐ足を舐めるチロリ

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舌出してこちらを見るチロリ

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耳の向きが替わるチロリ

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普通のチロリ

 極端に暑さに弱いチロリですが、今年の暑い夏も乗り越えました。これからは涼しくなるので安心です。いつまでも元気でね。チロリ。

 こんなふうに、我が周りの生きものたちは、それなりに暑い夏を乗り越え、わたしに癒しと穏やかな生活を与えてくれます。いつまでも続いてくれることを願うばかりです。

                             おわり

奈良大学「博物館教育論」結果

 本年度の学芸員資格のためのレポートは、あまり進んでいません。前年度は、5科目合格でしたが、今回、唯一博物館教育論のレポートが再提出のすえに合格でした。

やはりこのコースは、厳しいですね。博物館概論に次いで再提出で、通信学部では、再提出は無かったのですが、これで4勝2敗です。

 この学芸員資格の判定は、全体的に及第点に達していても特定の設問が誤っていると再提出になると思われます。

 それが概論では「特色ある学習支援活動」であり、この教育論では「ワークシート」です。今回の教育論のレポートの評価項目が、AとBが半々でしたが、ワークシートの出来が悪いということで再提出となりました。再提出の結果は、評価項目オールAで合格でした。ワークシートは、小学生向けに作ったのですが、今一つ1ひねりする必要があった結果と思われます。

 コロナ禍で博物館への外出もままならず、最近では7月に行ったトーハクの「聖徳太子法隆寺展」しか行っておりません。今回のレポートは、3月に行った横浜歴史博物館の常設展についてで、博物館と遺跡が併設されています。

 縄文時代の遺跡を復元し、そこから発掘された土器などを展示しているコーナーを題材にしました。参考までにワークシートを紹介します。

 ワークシートは、A4サイズ1枚として両面(表裏)を使用し、テーマと狙い、対象者、運用形態、工夫した点、予想される成果について書くこと。また分かり易く、美しさ、楽しさが感じられて、ミュージアムでの学びの意欲につながるものを作成して下さいと、色々と注釈が付いています。

 わたしのワークシートは、1ページ目に博物館と遺跡の写真10枚あるのですが、その実物を見つけて、それに関するクイズに答えるというものです。2ページ目は、土偶など古代の発掘物のペンダントの作成です。小学生は物作りが好きだからです。

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ワークシート1ページ目

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ワークシート2ページ目

 ワードで写真、文章、図形などを縦横無尽に駆使することはなかなか難しく、切り貼りで作成することになってしまいました。

 この教育論の科目試験はこれからですが、残りの科目は、博物館展示論と情報・メディア論の2科目です。なかなか取っつきにくい科目が残ってしまい、これから博物館を色々とみて行こうと思っています。まあ別に急ぐ必要は無いので、来年度に持ち越しても構わないと思っています。

 このところ祝日が多いせいか、大学から科目試験の日程や、博物館実習(二)の後半3日間の日程の連絡がありません。コロナ禍で旅行などあまり予定が入っていませんが、早く連絡が欲しいものです。

                      おわり

神の宿る山「三輪山」と大神神社

 先日、博物館実習について記述しましたが、今回は、実習の前日に出かけた日本最古の神社、大神神社(おおみわじんじゃ)についてです。以前ブログに書きました「聖林寺十一面観音」と関係が深い神社で、いつか行きたいと思っていました。

 京都からいつもは近鉄奈良線ですが、JRの奈良駅から桜井方面で三輪駅に降ります。この方面は纏向遺跡箸墓古墳など古代の見所が多数あります。

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三輪駅

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箸墓古墳より三輪山

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三輪山箸墓古墳

 駅から、三輪そうめん屋などが立ち並ぶ参道を過ぎて程なく、二の鳥居が見えます。

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二の鳥居

 二の鳥居から参道を進むと、最初に鎮座するのが祓戸(はらえど)神社で、体と心を祓い清める祓戸の神様を祀っています。神社に参拝の時は先ずここにお参りをするようです。

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祓戸(はらえど)神社

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 鬱蒼たる森の中、参道の途中に真っ赤なキノコが。

 祓戸神社の先、参道の左手に「夫婦岩」があります。二つの岩が仲良く寄り添い、縁結び・夫婦円満のご利益があると云われています。

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夫婦岩

 そして拝殿です。三輪山をご神体とするために本殿がなく、拝殿から三ツ鳥居を通して三輪山を拝む原初の神まつりの姿を留めています。御祭神は、大物主大神(おおものぬしのかみ:記紀に登場します。)です。

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拝殿 寛文4年(1664)徳川家綱公により再建。

 三ツ鳥居は、神の山三輪山と拝殿を区切る場所に立って、本殿にかわるものとして神聖視されてきました。しかし、コロナ感染拡大防止の為、残念ながら拝観中止となっています。

 拝殿の前に、ご神木があります。巳の神杉(みのかみすぎ)と云い、三輪の大物主大神の化身の白蛇が棲むことから名付けられたと云います。この神社だけでなく後から行く神社にもそうなのですが、蛇の好物の卵とお神酒が参拝者によってお供えされています。

道理でこの神社に来る途中の店々に、ゆで卵とお神酒(ワンカップ)のセットが売られていました。ヘビの好物だったのですね。

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巳の神杉

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由緒の書かれた看板

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卵とお神酒のお供え

 そして、この巳の神杉の根元にヘビならぬトカゲが棲みついているようです。根元の割れ目からチョロチョロ出たり入ったりしています。

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トカゲ 

わたしの家の庭に住んでいるトカゲと同じ種類で、ニホントカゲです。この種のトカゲは、日本の古代から生き延びているのは凄いことです。

 そして、この大神神社には数多く摂社、末社があります。狭井(さい)神社も摂社のひとつで、垂仁天皇の御代に創建されたと伝わり、御祭神の荒魂(あらみたま)を祀る延喜式内社です。

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狭井神社 ここにも卵とお神酒のセットが。

また、狭井神社は、三輪山を水源とする湧き水の「薬井戸」がある社寺として有名です。この水は古くから「くすり水」として信仰され、万病に効く御神水といわれています。近くに「清浄の音」と云われるものがあり、澄みきった水音を響かせています。京都の寺院にもありますが、水琴窟の響きです。

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清浄の音 耳を近づけると快い響きが絶え間なく聞こえます。

 狭井神社の近くに「三輪山登拝口」があります。ご神体に登拝が許されているただひとつの登山口です。しかし、ここも残念ながらコロナ禍で登拝は叶いませんでした。

登拝するときは、住所、氏名、電話番号を申し出て許可をとり、飲食、写真撮影などが禁止で厳格に守られています。標高は467mですが、いつか機会をみて登拝したいと思います。

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登拝口

 九州の宗像の神様、市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)を祀る市杵島姫神社があります。アマテラスとスサノオの神話の世界ですが、海の神、水の神であり、芸能をつかさどる弁天さんとしても親しまれています。

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市杵島姫神

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鎮女池

 市杵島姫神社の近くに、三島由紀夫の記念碑があります。三島由紀夫は、昭和41年に大神神社を訪れており、三輪山にも登拝し感銘を受け、色紙に「清明」の揮毫を残しました。それを記念碑にしています。

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鎮女池の傍の三島由紀夫の記念碑

 少し高台のほうに大神神社末社、久延彦神社 (くえひこじんじゃ)があります。御祭神の久延毘古命は、『古事記』にどこへも足を運ばなくても、世の中の事を全て知っている神様で、智恵がたいそう優れておられると記されています。受験・進学・就職等の成就をお守り下さる「知恵の神様」です。

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久延彦神社 結構登ります。

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眺望は素晴らしい。

 そして、最も見たかったのが、大神神社の摂社の若宮社です。正式には、大直禰子(おおたたねこ)神社と云うようです。神仏習合の時代は、大神寺(おおみわでら)、後に大御輪寺(だいごりんじ)として、永らく若宮神と十一面観音像(聖林寺奉安。先日まで東博)があわせて祀られてきました。

 本殿は、奈良時代の大神寺創建当初の部材が残っており、貴重な神宮寺の遺構として国の重要文化財に指定されています。

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若宮社

 コロナ禍ではありましたが、念願の大神神社詣でが叶いました。今度来た時には三輪山へ登拝しようと思います。

さいごに御朱印です。また、御神縁深い「卯」のお守りの土鈴と「知恵の神様」のストラップも買い求めました。

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御朱印

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「卯」のお守りの土鈴

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「知恵の神様」のストラップ

                          おわり

奈良大学博物館実習(二)始まる

 いよいよ奈良大学博物館実習(二)が始まりました。今回前半と来月予定の後半の実習が終了すれば、もう奈良大学には来ることも無くなります。

前泊していつもの高の原駅からバスで奈良大学に向かいます。入門して検温、消毒後に教室に向かいますが、大学の状況は、オンライン講義のせいか食堂、売店など開いておらず寂しい感じです。

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奈良大学キャンパス(2021年9月6日)

 今の学生は、本当に可哀そうな気がします。思い起こせばわたしの学生生活は、講義の前後、クラブの狭く薄暗い部室で、後輩、先輩たちと歓談するような毎日でしたが、今の学生はそういう交流もなく、自宅でオンライン講義を聞いてレポートを書く、そんな生活に明け暮れているのでしょうか。

そんな講義の仕方に授業料が高すぎると訴訟を起こした学生の報道もありました。

 そんな中でのリアル講義と実習です。本来5日間連続でしたが、2回に分けて今回は、2日間の座学中心でした。通信生は10数名でしたが、通学生約40名と合同です。

 講師は、奈良大学博物館長の関根教授と岡田教授が担当されましたが、お二人とも奈良大学の前に奈良国立博物館文化財研究所などにも在籍されていたようで、様々な知識と色々なご経験を積まれたことが講義の中で分かります。

 二日間の内容は、奈良大学博物館の紹介、最近終了した本年度の企画展、東大寺龍松院筒井家所蔵の「拓本展」の紹介そして博物館における環境と防災対策、展覧会の作り方など学芸員が実際関わる項目が中心に行われました。

最後に奈良大学博物館のギャラリーの見学と説明で、今回の実習は終了しました。

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奈良大学博物館のギャラリーで説明する関根館長

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展示作品の絵画、掛軸 内容は説明されましたが失念。

 博物館前の様子です。

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奈良大学博物館前

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博物館前の十二神将立像(復元模造)

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金剛力士像 吽形(型取模造)

 次回の実習3日間は、来月、奈良大学博物館にて行うとの説明もあり、少人数で、絵画と仏像の実際の文化財をギャラリーにどのように展示するかの実習を行うようです。以前、大東市の歴史民俗資料館で行う予定でしたが、奈良大学博物館に変更になりました。コロナ禍でいろいろ大学側も考えたようです。

 

 東京は冷たい雨が降り、初秋の様相を呈していますが、奈良は、まだ残暑で暑かったです。

 講義の帰りには、晩夏の奈良の風情を楽しもうと、近鉄奈良駅から興福寺の方へ足を向けます。いつもは興福寺辺りからシカが現れるのですが、観光客が殆どいないせいかシカも現れません。やっと

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奈良国立博物館前のシカ 健在

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興福寺中金堂の受付前に座る寂しそうなシカ

 奈良は観光都市ですから、さらに経済状況は厳しいと思います。ホテルを予約したととき、常宿は、閉館、もう一つはコロナの療養施設となっているようでした。本当に厳しく様変わりしているようです。

 猿沢の池から見る興福寺五重塔の風情が好きなので、それを見てホテルに戻りました。興福寺では、中金堂と宝物館の間辺りで発掘の工事が行われていました。まだまだいろいろな調査があるのですね。修復工事は伽藍のどこかで行われています。

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中金堂横の発掘工事

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晩夏の興福寺

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猿沢の池の辺り 九重塔と采女地蔵

 10月の実習の日程については、後ほど事務局から連絡があるようですが、1か月後コロナはどうなっているのでしょうか。

                            おわり