NHKのBSで「英雄たちの選択」という歴史番組がある。
日本の運命を決める岐路に立った英雄たちが、どの「選択」を行ったかを古代史、考古学、歴史学などの専門家により、英雄たちの心中を探るという歴史番組である。
歯切れのよい司会の磯田道史氏は、歴史学の申し子のような人で、『武士の家計簿』など著書多数である。
最近見たのは、杉田玄白の『解体新書』についてである。
江戸時代18世紀頃のことで、医療は、中国医学系の漢方医学中心であったが、唯一開国していた出島で、オランダから解剖学書『ターヘル・アナトミア』が入ってきた。
その『ターヘル・アナトミア』を見た杉田玄白らは、それまでの漢方の図「五臓六腑人体内景図」と大きな隔たりがあることが分かって驚いた。
そこで、幕府に腑分け(解剖)見学を願い出て認められる。
玄白らは、小塚原の刑場で刑死者の腑分けを見学し、『ターヘル・アナトミア』の図版が精確なことで翻訳を決意するのである。
明和8年(1771年)のことである。
当時、死刑となった人間を、腑分けしていたことも驚きであり、一体何のため解剖を行ったか不思議に思う。
前野良沢だけが、長崎でオランダ語の蘭学を学んだが、辞書すらない当時の環境下で、どのように翻訳を進めたか、困難を極めたのは想像に難くない。
そして、不完全な翻訳である『解体新書』の一刻も早く出版するか、それとも完璧な翻訳かの「選択」であった。
結局、世に早く知らせるという事で出版するのである。
3年5か月かけ翻訳し、安永3年(1774年)に『解体新書』として刊行した。
その翻訳の困難さというのは、当時の漢方に存在していない概念がある。それに名前をつ けようとしたのである。
例えば「神経」は、それまでの漢方の経絡「神定経脈」からとっている。今までの存在しない概念が神経、動脈、軟骨など多数ある。
そのとき初めて、玄白らによって命名された医学用語が、現在も使われていたのである。
また『解体新書』を読んだ人が、後に「解体人形」と呼ばれる精巧な人形も作られている。
『解体新書』刊行後、医学が発展したことはもちろんであるが、オランダ語の理解が進み、鎖国下の日本において、西洋の文物を理解する下地ができたことは重要である。
さらに、明治政府により日本の医療に西洋近代医学が採用され、漢方医学は衰退した。
しかしながら、東洋医学(漢方)は、中国、韓国とは違った形で発展し、西洋医学との融合をも模索して、今もなお続けられているのである。