文京区ほうろく地蔵の「大圓寺」迷える魂の安息地

 文京区本駒込界隈の散策が続きます。吉祥寺、浄心寺、圓乗寺と巡って今回は、「大圓寺」で、この寺院も八百屋お七と縁のあるお寺です。お七の墓のある圓乗寺から東へ数分行くと大圓寺の寺号標が見えて来ます。「禅 曹洞宗 大圓寺」の文字ですが、この側面には「ほうろく地蔵」と書かれています。

 

大圓寺の朱色の山門です。江戸三十三観音霊場二十三番札所にもなっています。

 

扁額は、山号の「金龍山」です。

 

大圓寺(だいえんじ)

 山号:金龍山

 寺号:大圓寺

 宗派:曹洞宗

 本尊:聖観世音菩薩

 創建:慶長2年(1597)

   開山;久山正雄

 開基:石河勝政

 

大圓寺の縁起

 大圓寺は、慶長2年(1597)に上州茂林寺十二世久山正雄大和尚(寛永7年1630年寂)を開山、石河土佐守勝政が開基となり、神田柳原に創建されたと云います。

その後、慶安2年(1649)現在地へ移転しました。

 

ほうろく地蔵

 山門を潜ると直ぐ正面に地蔵堂があり、「ほうろく地蔵」の説明書きがあります。

 

以下説明書きの抜粋。

 八百屋お七にちなむ地蔵尊。天和二年(1682)におきた天和の大火後、恋仲になった寺小姓恋しさに放火の大罪を犯し、火あぶりの刑を受けたお七を供養するために建立されたお地蔵様である。お七の罪業を救うために、熱した焙烙(ほうろく:素焼きのふちの浅い土鍋)を頭にかぶり、自ら焦熱の苦しみを受けたお地蔵様とされている。頭痛、眼病、耳、鼻など首から上の病気を治す霊験があるお地蔵様として有名になった。

 

 ほうろく地蔵はお堂中央の少し奥まった所に鎮座しています。

 なるほど、お地蔵様が頭に焙烙(ほうろく)を乗せています。お堂の前には何かと思ったのですが、幾段もの焙烙です。

 

 ほうろく地蔵尊の左に庚申塔が2基あります。両方とも状態は良く邪鬼を踏みつけ下部に三猿です。

特に左の駒形の庚申塔ですが、六臂の青面金剛で、左手にショケラを持つ珍しいものです。

 

本堂

 山門から左側は本堂への参道です。

 

 直ぐ左手には句碑です。群馬県出身の松野自得という僧侶で俳人の句です。「花の匂いは母のにおいよ甘えたし 自得」と刻まれています。

 

 

本堂の手前左側には子育て地蔵、観音菩薩像です。

 

子育て地蔵と基部の彫刻。

 

観音菩薩像。

 

 本堂です。扁額は山号の「金龍山」。堂内には七観音が鎮座しています。昭和の初め、高村光雲によって「七観音」の尊像が造立されましたが、戦災で焼失、後に門下生によって復元されました。

 

境内

境内は、意外に広く石碑、石仏などがあります。

筆塚です。

 

祠もあります。

 

石仏、石碑。

 

御朱印

 最後に御朱印です。本堂に繋がる庫裡にて御住職に対応頂きました。

庫裡。

 

受付の内部。興味深いものが飾ってあります。

 

御朱印。直書きで、「七観音」の御朱印

 

おわりに

 この曹洞宗の寺院、大圓寺は、ほうろく地蔵、庚申塔など見所が多くありました。特にほうろく地蔵が、「八百屋お七」の供養のために建立されたとは興味深かったです。

 熱したほうろくを頭にかぶり、自ら焦熱の苦しみを受けたお地蔵様とは驚きました。享保4年(1719)の造立と云いますから、江戸時代の人は発想が豊かです。それだけ八百屋お七の火あぶりの刑を悲しんだことが伺えます。

 

 また、ほうろく地蔵の隣にあった駒形の庚申塔も興味を珍しいものでした。六臂の青面金剛は、左手に「ショケラ」の髪の毛を掴み、邪鬼を踏みつけている姿です。

 右の三臂には宝剣、矢、三叉鉾、そして左の三臂にショケラ、弓、宝輪を持っています。上部に日、月、下部に二鶏、三猿という庚申塔で見事なものです。

 今まで数多く庚申塔を見てきましたが、風化が進んでいたり、彫刻が簡単なものなどが殆どで、このようなフル装備で彫刻が明確な庚申塔は初めてでした。

「ショケラ」とは、精螻蛄の字があてられ、青面金剛が左手で頭髪を掴んでいる半裸女人像の姿で表わされており、青面金剛が、三尸虫を征伐する姿に変化していったと考えられています。

 

 墓域には、幕末の先覚者であり砲術家高島秋帆、小説家であり樋口一葉を終生助けた斉藤緑雨が眠っているという説明書きがあったのですが、失念してしまいました。

 本堂にある七観音聖観音不空羂索観音、千手観音、如意輪観音准胝観音馬頭観音、十一面観音)も拝観したく再び訪れようと思います。

                      以上