前回まで立川市の寺社散策でしたが、今回は更に都心を西に離れ昭島市の寺社散策です。JR立川駅から青梅線の三つ目の中神駅で降り、多摩川に向かい南下します。十数分程で今回の目的地、見晴らしの良い段丘上に立地する「福厳寺(ふくごんじ)」に着きます。

福厳寺(ふくごんじ)
山号:智勝山
寺号:福厳寺
宗派:臨済宗建長寺派
創建:寛永元年(1624)
開基:万松和尚
本尊:観世音菩薩
福巌寺の縁起
福厳寺は、夢窓国師を勧請開山として、万松和尚により寛永元年(1624)に創建されました。
一方、『新編武蔵風土記稿』に「当院の境内は天正以前、立川宮内少輔が一族の居住せし跡なり」の記述があり、創建される以前の戦国時代末期には、立川氏(立川市の普済寺附近に居館を構えていた豪族)が館を構えていたとも考えられます。
林の馬頭尊
中神駅から南方向の福厳寺へ向かう途中、駅から程なく馬頭尊と刻まれた石碑があります。

都道152号のY字路にあり、道しるべの役目も果たしているようです。林とは、かつてのこの辺りの地名で、馬頭尊は馬の守護と村の安泰を祈願し、慶応4年(1868)正月に建立されたものです。自然石に「馬頭尊」「世話人馬持中」などの銘文が彫られています。
山門
そして、福厳寺の入口に到着です。寺号標に「臨済宗建長寺派智勝山福厳寺」と刻まれています。両側に石積みの参道を上ります。福厳寺は、石垣が特徴のようです。


山門です。本堂が見えますが、どうやら大規模な工事を行っているようです。


山門の右側に、入口と同じ字が刻まれた寺号標もあります。

山門前の左側に鐘楼があります。この鐘楼は、大戦の類焼を免れ今日に至っていますが、梵鐘は戦時中に供出したため昭和36年に再鋳しています。

山門前の左手には石像、石碑があります。

山門の直ぐ左側に「中神の教育発祥地(中神学校のおこり)」と彫られた石碑が建っています。江戸時代後期、福厳寺には寺子屋が開設され、明治中期になると小学校が置かれたということで、この地域の教育とは深い関わりがある場所だったのです。
その隣には穏やかなお顔の石仏です。この辺りからは多摩川方面が見渡せ、高台からの見晴らしはよく、それを楽しんでいるような様子です。

本堂
工事中の本堂です。昭島市のサイトに依りますと、文化13年(1816)に中神村の豪商により寄進再建された本堂は、昭和20年(1945)の米軍空襲により全壊したため、昭和36年(1961)に再建されたとあります。白い近代的な建物でしたが、更に再建されたようです。


賽銭箱の寺紋は、「加賀梅鉢」ですが、加賀藩前田家と関係があるのでしょうか。

境内の石仏、石碑
山門の方に戻って、境内の西側に石碑、石仏などを拝見します。

大きな石碑は「日露戦役忠魂碑」です。

また「表忠碑」という 日露戦争の戦病没者を表忠する碑もあります。表忠とは忠義をあらわすという意味です。この辺りは見晴らしがよく天気が良ければ多摩川が見えそうです。

不動明王尊です。

その後ろに石仏やよく寺院で見かける卵型の無縫塔(むほうとう)もあります。主に中世期以降の僧侶の墓塔として使われたようです。


そして祠もあります。


祠には、2体の仏様と真ん中に極小さな地蔵菩薩尊。

最後に御朱印ですが、残念ながら御住職が不在のため頂くことが出来ませんでした。
おわりに
本堂及びその周囲一体は、まさに大規模と思われる工事中でした。本堂は、まだ昭和36年(1961)に再建されたのですが、近代的な建物から和式の建築様式の寺院になったようです。工事が完成し境内がどう生まれ変わっているか見たいものです。
福厳寺の境内を出て墓地の裏手の道路沿いに石碑が残されています。

私有地と思われる所ですが、自然石に「石経塚」と刻まれています。石に経文は刻んではいませんが、何かの供養のために築いたと思われます。
この福厳寺に来る途中の「林の馬頭尊」やこの石経塚など昔から守っており、この地域の人たちの信心深さが伺えます。
以上