3世紀前半~4世紀前半の刀剣の柄(つか)や鞘(さや)などの
未完成品が出土されたとの発表がありました。
纏向遺跡は、九州の吉野ケ里遺跡と並んで、邪馬台国の有力候補地
の一つであり、大和王権発祥の地とされます。
古墳時代の武器に詳しい豊島直博奈良大教授(考古学)によりますと、
「未完成品が見つかったことが重要である。前方後円墳が纏向遺跡で
築造が始まり、各地に広まったと同様に、武器もこの地で作られ、
各地に有力者の権力の誇示や祭祀に用いたのだろう。将来の発掘調査で、
纒向から武器工房が出てくる可能性がある。」と話しています。
纏向遺跡の発掘調査は1971年以降、現在までに180次を超える調査が継
続的に行われ、調査面積は南北約1.5km、東西約2kmにもおよぶ広大な
面積の2%にも足りず、未だ不明な部分も多く残されており、新たな
発見が期待されます。
遺跡内に箸墓(はしはか)古墳があり、これは墳丘長280mにおよぶ巨大
前方後円墳です。
宮内庁によって、倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと:
『日本書紀』の表記)の墓として管理されていますが、この古墳を卑弥呼
の墓とする研究者もおります。
今から1800年以上前の弥生時代、日本は「倭国」と呼ばれており、
この国を治めた人物が日本最古の女王・卑弥呼とされます。 ところが、
卑弥呼という名は日本の歴史史料には一切記載されておりません。
その名が登場する最も古い史料は、中国の歴史書『三国志』の一部、
「魏志倭人伝」です。
3世紀前半に中国・魏の皇帝に使いを送った邪馬台国がどこにあった
のかをめぐり、北は岩手から関東、近畿、中国、九州全域、南は沖縄
まで、今なお多くの議論をよんでいます。
奈良を中心とした近畿説と、吉野ケ里遺跡などの九州説が有力とされ
ていますが、それの中間をいくような「二王朝並立論」あるいは
九州からの「東遷説」なるものを唱える人もいるのです。
(ぎしょとういでんわじんじょう)で、3世紀後半の成立とされます。
「倭人は帯方の東南大海の中にあり、山島に依(よ)りて国邑(こく
ゆう)をなす」で始まり、邪馬台国への経路が登場するのですが、
問題になるのが距離と方角なのです。
魏(中国)から朝鮮半島の「狗邪韓国(くやかんこく)」を経て、
海を渡って「対馬(つしま)国」「一支国(いきこく)」へ、さらに
北部九州の「末盧(まつら)国」「伊都(いと)国」「奴(な)国」
「不弥(ふみ)国」まで九州説も畿内説も、ほぼ一致するところです。
問題はその後の「投馬(つま)国」までの「南水行20日」、さらに
「邪馬台国」までの「南水行10日」「陸行1月」の行程です。この
通りに南へ進むとはるか南海の洋上に位置することになります。
距離が誤りならば九州のどこかにあり、方角の「南」が「東」の
間違いなら畿内にたどり着きます。
九州説、畿内説を唱えるの研究者は、それぞれの説に都合の良い
解釈をしており、300年続く邪馬台国論争が続いているのです。
わたしは、当初、全国各地の土器の出土、三角縁神獣鏡、大量の桃
の種の発見など物証が多い「畿内説」であると確信していました。
までの道のりが、あまりにも遠いため「九州説」のほうが自然で
あると思うのです。
そして、決定的な物証が見つかるかどうか分かりませんが、解明さ
れないということが、逆に多くの人々を惹きつける魅力へと繋がっ
ている、と考えるようになったのです。