等々力渓谷散策が続きます。等々力渓谷の「横穴墓」、「等々力不動尊」からの続きで、今回は、古墳を廻ります。浮彫りの蔵王権現の御岳山古墳、そして大規模な野毛大塚古墳です。
等々力不動尊の山門を出ると目黒通りです。信号を渉って向こう側にこんもりした小山に木々が茂っている所が御岳山古墳です。
入口の所に「東京都指定史跡 御岳山古墳」の石標と東京都教育委員会の説明の看板があります。
説明の看板の内容は以下です。
「御岳山古墳は、多摩川の左岸、標高31mの舌状台地先端部に位置しており、西側には等々力渓谷を臨んでいます。世田谷区野毛から大田区田園調布にかけて多摩川左岸の台地縁辺部一帯、50数基から成る荏原台古墳群が形成されており、本古墳はその一つです。
全長57m、現在高7m、野毛大塚古墳と同じく帆立貝形古墳です。河原石による葺石、円筒埴輪を伴い、5世紀後半から6世紀中葉の築造と考えられています。
副葬品として内行花文(ないこうかもん)を文様とする七鈴鏡、短甲、直刀等が出土しています。
平成22年3月建設 東京都教育委員会」
入口は、固く閉まっているようですが、施錠はしていません。立入禁止の紙も破れてハッキリしません。せっかく来たので、閉まっている閂棒をずらして入らせていただきます。
古墳の中に入ると、石の階段状のものが墳頂まで続いています。
そして目に付くのが、その通路の両脇の小さな石仏です。二、三十の石像が並んでいます。
それらの石仏には、よく見ると名前、日付などが刻まれています。墓標と思われますが、それぞれ表情が豊かです。宝暦という文字が読めますが、江戸時代に造ったというということが分かります。
これが古墳の頂上まで続きます。
そして墳頂に着きますが「社」があります。そこには浮彫りの蔵王権現が鎮座しています。
蔵王権現(ざおうごんげん)は、日本独自の山嶽仏教である修験道の本尊です。古墳を山とみなしたのでしょうか。
蔵王権現の像容は、密教の明王像と似ており、激しい忿怒相で、怒髪天を衝き、右手と右脚を高く上げ、左手は腰に当てるのが通例です。
全くその通りで、右手には三鈷杵を持ち左手は刀印を結び、左足は大地を力強く踏ん張り、右足は宙高く掲げられています。
静かな古墳は、思いがけず、真言密教の世界に帰ったみたいな神秘的な気分になります。ここは、満願寺が管理しているそうですが、古墳でこのようなものを拝めるとは思っても見ませんでした。
扨て、これから最後の目的地、「野毛大塚古墳」へ向かいます。等々力不動尊に戻って、渓谷を横切るようなルートを行くと10分程で着きます。
第三京浜と環八通りが交わった場所にあり、「玉川野毛町公園」内にある古墳です。公園管理事務所もある広大な公園です。
とにかく、墳頂へと階段を上がります。墳頂は、かなり広く平になっており、この古墳の広大さが分かります。
そして、そこに「世田谷区文化財ボランティア」の女性が1名おり、皆に説明していました。わたしもその輪に入り説明を聞き、質問などしましたが、丁寧な対応をして戴きました。
その方は、多摩川一体の野毛古墳群、田園調布古墳群などが書かれた地図を持っており、分かり易い地図で説明されていました。多摩川もその古代の想像された流路が書かれています。
野毛大塚古墳は、御岳古墳と同様、国分寺崖線上の高台、上野毛から尾山台にかけて広がる野毛古墳群の中で最大規模の古墳です。
古墳の形は、御岳山古墳と同じく帆立貝形古墳(全長82m、後円部直径67m、高さ11m)です。
周囲には馬蹄形の濠がめぐられ、古墳の表面は葺石で覆われていました。
後円部の頂上には遺体を埋葬する施設である主体部が50年ほどの間に4か所設けられています。
中央の第1主体部からは関東地方最古の鉄製甲冑や石製品など、多種多量の副葬品が出土しています。
これらの副葬品から、5世紀初め頃に造られた古墳で、畿内王権と深く結びついた南武蔵地域の大首長墓と考えられています。
今回の等々力渓谷添いの散策は、寺院、神社そして古墳と、それぞれが近くにあり多くの文化財を見ることが出来ました。都心でこのような素晴らしい景観を興味深く廻ることが出来、都内でも有数の遺跡密集地であることを実感しました。
それにしてもGoogle Mapsは、本当に便利です。経路の検索で目的地を入れると、今回は9か所でしたが、最短で結んでくれます。迷うことなく短時間で廻ることが出来ました。有難うございます。
参考:世田谷区ホームページ
各所の説明板
おわり