今回は、東急大井町線の等々力駅から南の等々力渓谷に沿って横穴墓、等々力不動尊への散策です。
等々力渓谷は、武蔵野台地の国分寺崖線、最南端に位置しています。この台地面を谷沢川が浸食してできた、延長約1kmの東京23区内唯一の渓谷です。
等々力駅傍にある道順を参考に渓谷の方向へ行きます。
2,3分で着きますが、その前にスーパー成城石井に名木百選のケヤキがあります。建物が、ケヤキを避けて上手く建てられています。
「ゴルフ橋」のたもとから渓谷への階段を降りるのですが、ゴルフ橋から見た渓谷です。
等々力渓谷の案内板があります。そこから下って行きます。そこは、まさに別天地の自然風景が広がっています。
ゴルフ橋の下をくぐり、案内板を見ながら暫く渓谷沿いの遊歩道を歩いていきます。
また、頭上に橋があります。「環八通り」を通る玉沢橋です。
そして左手に階段が現れ、登った先に「等々力渓谷横穴墓群」が現れます。
渓谷の東側崖面では、古墳時代末期から奈良時代にかけて構築された横穴墓が6基以上発見されています。
中でも昭和48年に発見された「三号横穴」は、典型的な横穴墓の形態を留めていて、埋葬人骨や副埋葬品も良好で保存措置が講じられました。
横穴墓とは、古墳の横に穴を掘り、遺体を納める玄室への通路(羨道)を作り、石積みの墓室を指します。奥行きが13mで、内部はとっくりを半分に割ったような形をしています。
横穴は、谷間の崖地の横に穴を掘って造られており、玄室と羨道で構成されています。泥岩の切石で塞 がれた玄室の床には河原石が敷かれ、3体の人骨が見つかっています。
副葬品は、須恵器の平瓶、横瓶、刀子、金銅製耳環などが出土しており、その副葬品の豊富さから、被葬者は当時の等々力周辺の有力者であると推定されています。
1号、2号も看板はありますが、横穴の位置は定かではありません。
再び渓谷の方に戻り、また暫く渓谷に沿って歩いて行くと、右手に、緑に囲まれた小さなお堂があります。「稚児大師御影堂」です。
「稚児大師さま」という題で説明の立札が立っています。
内容は、小さい手を合せているお姿は、弘法大師の幼いときのお姿です、から始まり、弘法大師の創設した大学や智恵のことなどが書かれています。最後に平成11年1月、満願寺の貫首、阿部龍文氏の名前があります。
それから、橋を渉って左側に行くと現れるのが、等々力不動尊発祥の元となっている「不動の滝」です。
崖にある龍の口から湧水が流れ落ちています。滝と云うほど水量はありませんが、湧水が途絶えることは無いそうです。
滝の上をよく見ると、不動明王の像が睨んでいます。その左右にも小さな像が。
また、弘法大師像と観音像も並んでいます。
甘味処「雪月花」を右に、少し階段を上がると不動様を祀った稲荷堂があります。
そして、そこから崖線上の堂宇への急階段の参道が、「等々力不動尊」へと続きます。渓谷の自然と一体となった寺院です。
等々力不動尊は、満願寺の別院で、関東36不動尊霊場の第17番でもあります。山号が滝轟山(りゅうごうさん)、院号は明王院です。
鎌倉時代、真言宗を中興した興教大師覚鑁(かくばん)が、霊夢に従い当地に至り、役行者自刻の不動明王像を安置して開創したと云われています。覚鑁は、真言宗において、空海以外では唯一の仏教哲学「密厳浄土」思想を打ち立てた僧として高く評価されています。
渓谷からの参道を上がると見晴台の方に着きます。
直ぐに、迫力ある龍の手水舎で清めます。
山門は、目黒通りに面した所にあります。見晴台の方から山門に行きます。山門の扁額の文字は、瀧轟山。
この山門は、昔の満願寺の山門を移築したものだそうです。
山門をくぐると正面に本堂です。本堂前は広々として、綺麗に整備されています。
そして、本堂で、御本尊は不動明王です。一見すると神社のようで、本堂の前に拝殿があるように見えます。確かに、本堂で住職が祈願のようなことを行っており、右側に絵馬が多数あります。
見晴台から見た、境内全体の景観と反対側の渓谷の森です。
また、見晴台の近くに草木供養碑があります。
扨て、この等々力不動尊は、目黒通りに面しているので、ここから御岳山古墳が近いので、そちらに行きます。長くなりましたので、この続きは後で。
それにしても、東京都区内で、環八通り、目黒通りが通っている近くに、このような樹林が茂り、渓谷の景観が素晴らしいところがあるとは驚きです。
また、ペットも連れてきて良いようで、肉球のペットの御守りも買い求めました。
参考:満願寺ホームページ、世田谷区ホームページ、各所の説明板
おわり