中野区の山手通り沿いの寺社散策、今回は中野長者、鈴木九郎が開いたという成願寺(じょうがんじ)です。山号を多宝山と称す、曹洞宗の禅寺です。
山手通りを沿って神田川方面に行くと、右手にびっしりと竹が立ち並ぶ壮観な姿が見えて来ます。この竹垣は、成願寺のシンボルのひとつで数年に一度、青竹を入れ替えているようです。
そしてその先に、縦5m、横11mの達磨大師の大看板です。
達磨絵の左側にある書、莫妄想(まくもうぞう)とは、「周りの物事にとらわれず、妄想をたくましくして、真実を見誤ることないように。」という意味で、静岡県興聖院住職青野俊孝師によります。
これだけでもインパクトがありますが、山門もまた異色です。
黄檗宗( おうばくしゅう ) という中国の禅宗独特の様式を取り入れており、一見龍宮城を思わせる珍しい山門です。山門楼上には梵鐘が安置されています。
山門から入ると直ぐにたくさんの地蔵さん、不動明王などの石像があります。
そして正面に6体の地蔵菩薩、墓地の入口に立つ「六地蔵」です。それぞれ名称が掲げられています。大定智悲地蔵大徳清浄地蔵、大光明地蔵、清浄無垢地蔵、大清浄地蔵、大堅固地蔵の六地蔵です。
境内には、あちらこちらに16人の羅漢さんの石像があります。何かユーモラスな感じの羅漢さん達です。
羅漢は、「尊敬を 受けるに値する聖者」という意味の尊称です。
参道を真っ直ぐに本堂に向かいます・
正面が本堂、その前に香炉堂、左側に圓通閣(百観音堂)、龍鳳閣 (開山堂)などです。
本堂の前の香炉堂の中に大香炉があります。
香炉堂は、総檜づくり二重の屋根が特徴で、平成8年に完成しています。香炉堂の内部には十二支の彫り物が施されています。
大香炉の支柱は、三邪鬼が支えていますが、平成20年にお参りし易いように、高さを低く造り替えています。
そして本堂(法堂)です。
成願寺の開基、中野長者鈴木九郎の歴史です。
開基である鈴木九郎には「中野長者伝説」があります。紀州出身の鈴木九郎は、約600年前の室町時代に当地にやってきた貧しい馬売りでした。
馬売りの途中で浅草の観音さまに「馬が高値で売れますように。売れたお金の中に大観通宝があったたら全て観音さまに差し上げます」と祈願しました。
馬市で思わぬ高値で売れましたが、手に入れたお金は全部大観通宝でした。鈴木九郎は、約束を守り手にしたお金を全て観音様に奉納したのです。
その後、この信心深い行いが報われたのか、一帯の開拓に成功して、中野長者と云われる大富豪となったそうです。
鈴木九郎は、財を成し「中野長者」と呼ばれ、成願寺付近に邸宅を構えていましたが、一人娘が若くして病死した事に深い悲しみを受け、残りの人生を仏門に入る決意をしました。
小田原の大雄山最乗寺の春屋宗能の教えを受けた後、名を正蓮に改め僧侶となり、1438年に邸宅を寺院にしたのが成願寺の始まりでした。
寺院名は、娘の戒名からとり当初は「正観寺」でしたが、江戸時代に「成願寺」と改められたと云います。
成願寺の御本尊は、仏教の開祖お釈迦さま、「釈迦牟尼佛如来」です。
正面の額『大雄宝殿』の書は、成願寺三十三世舜学義尭大和尚によるものです。また、浄財箱の 『功徳無量』の書は、師家鈴木格禅先生によるものです。
お堂の入り口の両脇にかかる木製の板を聯(れん)と云います。書や絵を描いたり彫ったりして左右対称に掛け、飾りとしたようです。
本堂の聯には、「去年の梅本年の柳、 顔色馨香旧に依る」とあります。
これは室町時代初期の名僧であり、開基鈴木九郎の師、小田原大雄山最乗寺第五世舂屋宗能(しょうおくそうのう)禅師の言葉です。
境内の西側に圓通閣(えんつうかく:百観音堂)があります。
鈴木九郎の中野長者伝説から観音さまと縁が深いようです。西国三十三ヶ所、板東三十三ヶ所、秩父三十四ヶ所の、合わせて百の観音霊場の御本尊さまと、同じ姿の観音さまが安置されています。
江戸時代、諸国を自由に旅することが難しい時代です。百の観音さまを一堂に安置し、そこへ参ると百の観音霊場を巡礼するのと同じ功徳が得られるとされたのです。
圓通閣の聯には、「菩提本無樹 明鏡亦非台 佛性常清浄 何処有塵埃」
菩提もと樹なし 明鏡もまた台にあらず 佛性常に清浄なり 何れの処にか塵挨あらん、とあります。これは、中国唐代の傑僧大鑑慧能(だいかんえのう)禅師の詩文です。
龍鳳閣中央には、開祖川庵宗鼎(せんあんそうてい)大和尚、そして両脇に曹洞宗をひらかれた道元禅師、塋山禅師を祀っています。
聯の文字は、「不二の法門祖脈を傳え 大千世界宗風を仰ぐ」
住職が、平成13年に中国 普陀山、天童山に巡拜した際、天童山山主廣修禅師に揮毫お願いしたそうです。
境内の東側に洗心閣、長者閣があります。
長者閣は、彼岸会やお盆先祖祭りの休憩所として使用されています。また御朱印もここで戴きました。
境内には十六羅漢像をはじめ多くの像があります。本堂の近くに大迫力の馬頭観音像があります。
本堂の前にどなたか分かりませんが、立派な銅像があります。
そして、境内の西側に墓所が広がっています。中野長者の鈴木九郎の墓もあります
また、大名・蓮池鍋島家の墓地もあります。中野区の寺院で大名家の墓所があるのはこの成願寺だけとのことです。中野区弥生町に下屋敷があり、二世直之の子千熊を寛文9年(1669)に葬ったことに始まったと云います。
墓所には、鍋島家の子女の為に建立されたと伝えられる「鍋島地蔵」があり、「真如院殿一切妙覚童女之霊」の法名が刻まれています。
この地蔵尊は延宝二年(1674)、幼くして死んだであろう少女の供養のために建立されたものです。 その「童女」は肥前佐賀藩主鍋島家にゆかりの少女と伝えられています。中野区指定の文化財です。
因みに、境内の至る所に「大観通宝」をあしらった寺紋が使われています。中野長者伝説の鈴木九郎が馬市で得た宋銭(大観通宝)を奉納したという縁起に因んだものと思われます。
最後に御朱印です。また、「なかのちょうじゃとじょうがんじ」という栞も戴きました。中野長者の鈴木九郎の伝説を漫画化したもののようです。
中野区の寺社散策で、中野氷川神社、白玉稲荷神社、宝仙寺、そして今回の成願寺と巡りましたが、歴史の変遷がよく分かります。
当所、江戸時代まで神社と寺院が神仏習合で密接に結びつき調和していましたが、その後、新政府の神仏分離令で寺院が衰退します。そして徐々に復興していきますが、大戦、特に東京大空襲による焼失、甚大被害、それから今日までの目覚ましい復興と、寺社の、時代に翻弄された姿がよく分かりました。
復興した姿は、寺社共に素晴らしく、よくここまで復興したと感動しました。
参考:成願寺公式ホームページ
おわり