東京都中野区の山手通り沿いの、寺社散策が続きます。中野氷川神社、白玉稲荷神社を巡りましたが、次は、両神社と関係が深い宝仙寺です。
宝仙寺は、中野氷川神社の旧別当寺であり、白玉稲荷神社から少し西側です。宝仙寺の境内には、寺号の由来となった宝珠を祀った白玉稲荷の祠があります。
宝仙寺の歴史は、『武州多摩郡中野明王山聖無動院宝仙寺縁起』によると、平安後期の寛治年間(1087~94)源義家によって創建されました。
このとき義家は、奥州・後三年の役を平定して凱旋帰京の途中にあり、陣中に護持していた「不動明王像」を安置するための一寺を建立したのです。
江戸初期の寛永13年(1636)には、三重塔が建立され、歴代将軍の尊崇もあつく御鷹狩りの休憩所としても有名でした。
宝仙寺の大伽藍は昭和20年の戦禍により焼失し、 現在の伽藍は昭和23年より順次復旧したものです。
山門の前には、「宝仙寺・宝仙学園案内図」の説明掲示板があります。宝仙寺の西側に墓地、そして北側一帯に宝仙学園があります。宝仙学園は、幼稚園、小、中、高校とあるようで教育にも力を入れていることが分かります。
また、山門の前に寺号標があり「真言宗豊山派 明王山 宝仙寺」とあります。山門の左右に仁王像が配置されています。
山門を入ると意外に広い境内が目に入ります。参道の左側に御影堂、三重塔など、右側に大書院、大師堂そして正面に本堂です。
左側の伽藍を見ながら本堂に向かいます。三重塔の手前に不思議なものが見えます。
石の臼塚です。
神田川には、江戸時代から水車によりそば粉を挽いていました。そばの一大消費地となった江戸に向け、全国から中野に集められ製粉の拠点となっていたのです。
その後、機械化により使われなくなった石臼を供養するため、境内に「石臼塚」を建て供養しています。
石臼塚の隣に三重塔があります。
三重塔は、江戸初期の寛永13年(1636)に建立され、廣重の浮世絵「江戸名勝図会」にも描かれたほど有名でした。
しかし、昭和20年の戦火により一切を焼失してしまい、現在の三重塔は平成4年に再建されたものです。奈良・法起寺の塔に範をとった飛鳥様式の木造建築で、大きさは焼失した塔とほぼ同じ約20mです。
塔内には、大日如来を中心に宝幢、無量寿、開敷華王、天鼓雷音の胎蔵界五智如来の彩色された木像が安置されています。
左から無量寿如来(むりょうじゅにょらい)と天鼓雷音如来(てんくらいおんにょらい)
左から宝幢如来(ほうどうにょらい)と開敷華王如来(かいふけおうにょらい)
平成4年の興教大師850年御遠忌記念として再建されています。
三重塔の隣は御影堂です。御影堂も三重塔と同じ平成4年に建立されたもので、屋根を宝形造り(ほうぎょうづくり)に外壁を蔀戸(しとみど)にしています。
堂内には背丈が2.4mの弘法大師像が安置されており、この像は脱活乾漆技法で平成4年に完成しました。脱活乾漆技法は、興福寺阿修羅像や唐招提寺鑑真和上像などと同じ技法です。
御影堂は、「みえどう」というようですが、他の寺院では「みえいどう」、「ごえいどう」という寺院もあります。
そして、参道の正面の本堂です。関東で鴟尾(しび)のある寺院を初めて見ました。
本堂内陣の壇上には秘仏の御本尊に代り、鎌倉時代の作と伝えられる不動明王の立像を中心に、降三世、軍荼利、金剛夜叉、大威徳の五大明王像が安置されています。
左から
①五鈷杵と金剛鈴を持った金剛夜叉明王
②水牛に跨がる大威徳明王(だいいとくみょうおう)
③不動明王
④左右の足で大自在天(シヴァ神)と烏摩(ウマー)妃を踏みつけている「降三世明王(こうざんぜみょうおう)」
⑤蛇を装身具のように巻き付けている「軍荼利明王(ぐんだりみょうおう)」
本堂前に弘法大師像があります。
そして、墓地が西側に広くありますが、墓地と境内との境の三重塔の裏側に鐘楼、石像、石碑などがあります。
山門に近い所に鐘楼があります。平成28年に再建されています。
三重塔の裏に石仏群があります。その中に引導地蔵尊坐像(見送り地蔵)という珍しい石仏が安置されています。
引導地蔵尊坐像(見送り地蔵)は、宝仙寺36世祐厳師が自らの墓標と弟子祐雅・卍瑞の墓標を兼ねて、明和9年(1772)の夏に予修(生前にあらかじめ造立)したものです。
高野山の延命寺にある引導地蔵尊を模刻したものといわれています。光背裏の銘文に引導地蔵尊の縁起が記されており、これによると弘法大師が自分の代わりに末世の衆生を引導するようにと、入定の前々日の承和2年(835)3月19日に刻まれた尊像であるとされています。
六地蔵も並んでいます。
弘法大師御遠忌の際に造立された2基の供養塔があります。天保4年(1833)の一千年御遠忌供養塔と明治16年(1883)の一千五十年御遠忌供養塔です。
石川正清顕彰碑も三重塔裏にあります。
石川正清の門人が師正清の業績を讃えるために、正清に二行の書と畧画を乞い造立したものです。石川正清は武芸・書画に通じており、特に書では千餘人もの門弟を有していたといい、宝仙寺にも幕末の四国八十八ヶ所に関する石塔に多くの書画を残しています。
中野町役場跡碑があります。明治28年から昭和の初期まで中野町役場が、また区役所が境内に置かれたためです。
墓地には、境内の西側には、宝仙寺歴代住職そして堀江家の墓所があります。
堀江家は、歴代の当主が中野村の名主をつとめ中野とその近郷の指導者として活躍されました。堀江家の功績によって中野村は次第に発展し、その事績は明治以後にまで続きます。この発展が現在の中野区の繁栄の礎となったといわれます。
尚、宝仙寺の寺紋は笹竜胆(ささりんどう)です。
最後に御朱印です。
山門の直ぐ東側に、教化活動のお堂である「大師堂」があります。ここで御朱印を戴きました。
彼岸の墓参りのためか本堂、三重塔など解放されており素晴らしい仏像を見ることが出来ました。特に脱活乾漆技法にて平成に制作された大師像には驚きました。
奈良、京都の寺院の古びた仏像も素晴らしいですが、このような彩色がまだ剥落していない仏像も趣きがあると感じました。三重塔、本堂以外にも臼塚、見送り地蔵など見所満載の寺院で堪能しました。
参考:宝仙寺公式ホームページ
おわり