JR東中野駅から山手通り沿いの散策が続きます。中野氷川神社から次に向かったのが「白玉稲荷神社(しらたまいなりじんじゃ)」です。
中野氷川神社から、山手通りの反対側を数分歩くと着きます。直ぐその先は、山手通りと青梅街道と云う二つの大きな道路の交差点です。近くに地下鉄の中野坂上駅があります。
白玉稲荷神社は、中野坂上駅の手前にあり、幟(のぼり)旗をはじめ朱色が派手で目立つ神社です。
全体を見渡すと、何とビルの谷間にひっそりと佇む、異質な感じの小さな朱色の神社です。
創建の年代や詳しいご由緒は不明です。かつては、近くの中野氷川神社の別当寺であった「宝仙寺」の境内にありました。明治維新後の神仏分離令の際に、ここに分社されたようです。
御祭神は、五穀豊穣の神様で、商売繁盛のご利益がある宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)です。
殆ど朱色の白玉稲荷神社の正面です。扁額は白玉稲荷。
この鳥居の左脇に馬頭観音の石像があります。
シンプルな手水舎です。
祠の手前に二つ目の鳥居があります。扁額は「正一位 白玉稲荷大明神」です。
祠にて参拝します
祠の前に1対のお狐さんが怖い顔で見守っています。
そして、祠の直ぐ後ろの神社の外に、鳥居と一対のお狐さん、常夜灯などが見えます。これは、明治期に奉納された鳥居などと思われます。
横から廻って神社の後ろを見ます。
中野区教育委員会の説明掲示板「白玉稲荷神社の鳥居」が在ります。
中野区教育委員会の説明掲示板「白玉稲荷神社の鳥居」によると次のように記されています。(要約)
「白玉稲荷神社は、もとは宝仙寺境内にありましたが、明治維新後の神仏分離の際に、ここに分社され、以後、この地で崇められてきた社です。
この石の鳥居には、「奉納 歳豊饒 子下中」「明治十四年巳十月」、そして願主として浅田甚右ヱ衛門以下五十人の氏名が刻まれています。
青梅街道に面した家々は江戸時代末期、半商半農の生活を営んでおり、村内は上・中・下の三宿に分けられていました。鳥居に刻まれた「小下中」というのは、下町をさらに大・小にわけたうちの小下組中という意味で、この近辺が小下に属していたのでしょう。
この鳥居に刻まれた金石文によって、指名の移り変わりがわかるとともに、この地に住んでいた有力者たちの姿を想像することができます。」
昭和五十八年三月
つまり、明治期の鳥居が祠の裏に鳥居、お狐さんなどが一式そのまま保存されていることになります。
横にも幟旗が所狭しと立てられています。
このような小さな神社でも神仏分離令による移転、半商半農の生業など地域に根づいた歴史があることが分かります。大きな山手通り沿いにありながら、異質の空間を醸し出す白玉稲荷神社、小さいながら、なかなかインパクトのある神社でした。
山手通り沿いに中野氷川神社、白玉稲荷神社と続けて神社を2社参拝してきましたが、次は待望の寺院です。白玉稲荷神社から数分西側に「宝仙寺」、そして山手通りに戻って少し先に「成願寺(じょうがんじ)」があります。両寺院とも見所の多いお寺で楽しみです。また次回へ。
「白玉稲荷神社の鳥居」
おわり