神仏習合

大分県国東半島の神社、寺院についてのテレビの放映が

ありました。

それは、神仏習合の古代の歴史を伝える、見応えのある

ものでした。

国東半島には、摩崖仏が多いことは、知っていましたが、

大分県の片田舎に全国4万の八幡神の頂点に立っているの

が、宇佐神宮であることは知りませんでした。

しかも宗廟と呼ばれる皇室がご先祖を祀る場所として、

伊勢神宮に次ぐ第二の存在ということです。

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宇佐神宮南中楼門

ここの八幡神が、神でもあり、菩薩という仏でもあると

いう、神仏習合の原点があるのです。

 

京都の石清水八幡宮、鎌倉の鶴岡八幡宮も、八幡神

を招いて建てられた、ものなのです。

 

神仏習合とは、日本人が千年をかけて、神と仏を一

つの信仰体系として融合されたものです。

まさに、おおらかな祈りの宗教の形を作り上げてきた

のです。

 

日本に仏教が伝来しましたのは6世紀のことです。今まで

の、神への信仰を否定することはなく、神と仏をたてた

独特の信仰を作り上げたのです。

日本書紀によりますと、552(538年説もあり)

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欽明天 皇

欽明天の時代です。

 

それから200年間は、新しく入った仏と今までの神は、

交わることはなかったのです。

廃仏派の物部氏と崇仏派の蘇我氏の間で対立がおこ

ったためです。

 

しかし7世紀後半の奈良時代に、神仏習合は、地方から

始まりました。

律令制の導入により社会構造が変化し、従来の神祇

(じんぎ)信仰は行き詰まりを見せていました。

豪族たちに新たな精神的支柱として仏教が受け入れ

られ、寺院の分布が、全国に広がったのです。

 

八幡神に注目したのが聖武天皇でした。八幡神が仏教

に帰依したのを気に入ったからです。そして、738年に

弥勒寺を建てさせたのです。

 

神社に同居する寺、ここに神仏習合が誕生したのです。

聖武天皇は、その後741年に国分寺国分尼寺建立、

さらに743年大仏造立の詔(みことのり)を出します。

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奈良の大仏 盧舎那仏

大仏造立には大量の銅と金が必要です。特に金は、

その頃日本では産出しておらず、唐から求めよう

としていました。

 

そのとき、宇佐神宮八幡神から大仏造立の成功、

金の国内からの産出のお告げ(続日本紀17より)

が届きます。

そしてお告げどおりに、東北の陸奥から金が産出

し大仏は完成します。

 

そして宇佐神宮の八幡様は、東大寺建立に協力

したとして、東大寺の転害門(てがいもん)か

聖武上皇とその娘である孝謙天皇の出迎えを

受け、中央に進出したのです。

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聖武天皇孝謙天皇

この転害門は思い出があります。

 

奈良大学の最初の年の考古学の現地講義で、唐招

提寺、興福寺東大寺を回ったのです。

そして終わった後に、希望者だけ転害門を見たい

人は案内します、と云われたのです。

暑い日であったのですが、参加したのですが、こ

んなに由緒のある門であったのかと、初めて気付

かされました。

確かにこの門は、大仏殿に遠く北西にあり、東大

寺で唯一戦火による焼失を免れた堂々たる門だっ

たのです。

今夏に奈良に行く際に、あらためてこの門を見に

行こうと思うのです。

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東大寺転害門(てがいもん)

 

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八幡神は、神であり、菩薩という仏という原点が

あるのですが、古代の有力な寺院は、守護神を持

つようになりました。

最も早いのが、興福寺における春日大社ですが、

東大寺と宇佐八幡神、そして、延暦寺日吉大社

東寺と伏見稲荷大社などです。

 

春日大社は、藤原氏氏神・氏寺の関係から興福

寺と深く結びついていきます。

 

春日大社の本殿の直ぐ近くに、僧侶が、お経を

読む建物「御廊」があったのが「春日権現験記絵」

(かすがごんげんげんき)に描かれています。

神に対してお経をあげているという不思議な空間

です。

御廊で居眠りしている僧を別の僧に蹴られている

絵も描かれています。

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春日権現験記絵巻

 

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御廊で居眠りしている僧を別の僧に蹴られている

 

 また「本地垂迹説」というのがあります。

本地とは、変身前の本来の姿で、垂迹は、変身

後の仮の姿と云われています。

 

春日大社の神々の本地はどんな仏であったのか

と云いますと、第一殿の神、武甕槌命(たけみか

づちのみこと)は、鹿島神宮から鹿に乘ってやっ

て来たと云われています。

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        武甕槌命(たけみかづちのみこと)

 

そしてこの神に変身した仏は、興福寺に祀られて

いるのです。それは、南円堂の不空羂索観音

薩(ふくうけんじゃくかんのん)像で、神鹿の

衣をつけているのです。

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    不空羂索観音

 

本地垂迹説により、春日大社興福寺は、一体

のものとなっていったのです。

 

関東において、鎌倉の鶴岡八幡宮は、神が

仏教に帰依し、八幡神は武士の守り神とな

ったのです。

 

扁額には、現在、新しくなりましたが、オリ

ジナルのものは、八幡宮の下の「寺」の字が

明治になって消された痕跡があります。

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現在の扁額 オリジナル八幡宮の下に消された痕跡

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八幡宮の下寺の字があった

江戸時代まで、神社でもあり寺でもあったのです。

 

因みに「鳩サブレー」は、参詣した人の土産とし

て、「八」が鳩の向き合わせであることからとっ

たものです。

 

このように日本における神仏習合は、寺の中に

神社があるもの、神社の中に寺があるもの、また

神社と寺が一体であるものなど形を変え、千年の

歳月をかけ、日本人の心に入っていったのです。  

 

そして150年前に日本人の信仰を揺るがす大事件

がおきるのです。

 

長くなりましたので、続きは次回です。

 

またイスラム教、キリスト教など互いの宗教を

否定してきた歴史が、今なお続いていますが、

の宗教に日本のような習合した例があるので

ょうか。   続く