大分県国東半島の神社、寺院についてのテレビの放映が
ありました。
それは、神仏習合の古代の歴史を伝える、見応えのある
ものでした。
国東半島には、摩崖仏が多いことは、知っていましたが、
が、宇佐神宮であることは知りませんでした。
しかも宗廟と呼ばれる皇室がご先祖を祀る場所として、
伊勢神宮に次ぐ第二の存在ということです。
ここの八幡神が、神でもあり、菩薩という仏でもあると
いう、神仏習合の原点があるのです。
を招いて建てられた、ものなのです。
神仏習合とは、日本人が千年をかけて、神と仏を一
つの信仰体系として融合されたものです。
まさに、おおらかな祈りの宗教の形を作り上げてきた
のです。
日本に仏教が伝来しましたのは6世紀のことです。今まで
の、神への信仰を否定することはなく、神と仏をたてた
独特の信仰を作り上げたのです。
日本書紀によりますと、552年(538年説もあり)、
欽明天皇の時代です。
それから200年間は、新しく入った仏と今までの神は、
交わることはなかったのです。
ったためです。
始まりました。
律令制の導入により社会構造が変化し、従来の神祇
(じんぎ)信仰は行き詰まりを見せていました。
豪族たちに新たな精神的支柱として仏教が受け入れ
られ、寺院の分布が、全国に広がったのです。
に帰依したのを気に入ったからです。そして、738年に
弥勒寺を建てさせたのです。
神社に同居する寺、ここに神仏習合が誕生したのです。
さらに743年大仏造立の詔(みことのり)を出します。
大仏造立には大量の銅と金が必要です。特に金は、
その頃日本では産出しておらず、唐から求めよう
としていました。
金の国内からの産出のお告げ(続日本紀巻17より)
が届きます。
そしてお告げどおりに、東北の陸奥から金が産出
し大仏は完成します。
したとして、東大寺の転害門(てがいもん)か
受け、中央に進出したのです。
この転害門は思い出があります。
奈良大学の最初の年の考古学の現地講義で、唐招
そして終わった後に、希望者だけ転害門を見たい
人は案内します、と云われたのです。
暑い日であったのですが、参加したのですが、こ
んなに由緒のある門であったのかと、初めて気付
かされました。
確かにこの門は、大仏殿に遠く北西にあり、東大
寺で唯一戦火による焼失を免れた堂々たる門だっ
たのです。
今夏に奈良に行く際に、あらためてこの門を見に
行こうと思うのです。
八幡神は、神であり、菩薩という仏という原点が
あるのですが、古代の有力な寺院は、守護神を持
つようになりました。
東寺と伏見稲荷大社などです。
寺と深く結びついていきます。
春日大社の本殿の直ぐ近くに、僧侶が、お経を
読む建物「御廊」があったのが「春日権現験記絵」
(かすがごんげんげんき)に描かれています。
神に対してお経をあげているという不思議な空間
です。
御廊で居眠りしている僧を別の僧に蹴られている
絵も描かれています。
御廊で居眠りしている僧を別の僧に蹴られている絵
また「本地垂迹説」というのがあります。
本地とは、変身前の本来の姿で、垂迹は、変身
後の仮の姿と云われています。
春日大社の神々の本地はどんな仏であったのか
と云いますと、第一殿の神、武甕槌命(たけみか
づちのみこと)は、鹿島神宮から鹿に乘ってやっ
て来たと云われています。
武甕槌命(たけみかづちのみこと)
そしてこの神に変身した仏は、興福寺に祀られて
いるのです。それは、南円堂の不空羂索観音菩
薩(ふくうけんじゃくかんのん)像で、神鹿の
衣をつけているのです。
不空羂索観音菩薩
のものとなっていったのです。
関東において、鎌倉の鶴岡八幡宮は、神が
仏教に帰依し、八幡神は武士の守り神とな
ったのです。
扁額には、現在、新しくなりましたが、オリ
ジナルのものは、八幡宮の下の「寺」の字が
明治になって消された痕跡があります。
江戸時代まで、神社でもあり寺でもあったのです。
因みに「鳩サブレー」は、参詣した人の土産とし
て、「八」が鳩の向き合わせであることからとっ
たものです。
このように日本における神仏習合は、寺の中に
神社があるもの、神社の中に寺があるもの、また
神社と寺が一体であるものなど形を変え、千年の
歳月をかけ、日本人の心に入っていったのです。
そして150年前に日本人の信仰を揺るがす大事件
がおきるのです。
長くなりましたので、続きは次回です。
否定してきた歴史が、今なお続いていますが、
他の宗教に日本のような習合した例があるので
しょうか。 続く