歴史は変わる「富本銭(ふほんせん)」

日本の歴史が、教科書の記述が、少しずつ変わっています。新たな発見、分析の科学的進歩、あるいは学界や研究者の間の見解の収束などで、歴史が変わるのです。

 

鎌倉幕府の成立は、昔は、「いい国(1192)つくろう鎌倉幕府」と「1192年」と覚えていたはずです。

鎌倉幕府の成立年は、古くから諸説あり、現在の高校日本史などでは、源頼朝が、守護・地頭の任命権を得て全国支配を開始した文治元年(1185年)であり、これが最も有力とされています。

1192年は、頼朝が征夷大将軍に任命された年であり、形式論であり実質的には意味が無いという訳です。

形式より実質的な支配が確立した時期を重視することで、1192年よりも前に成立した、との見方が定着しています。

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鎌倉の頼朝の墓 高さ186cmの五層の石塔

日本最大の古墳、堺市の「仁徳天皇陵」は、名づけたのは古墳を管理する宮内庁です。しかし近年、教科書では、「大仙古墳」や「大山古墳」と表記しています。

実は誰が埋葬されているのか学術的には定まっておらず、仁徳天皇ではないという説も有力なのです。

論争のある被葬者名ではなく、地名を元にした遺跡名で呼ぶことが定着し、教科書でも採用されるようになりました。

 

また、聖徳太子の呼称や肖像画についての論争があります。

歴史の教科書では、長く「聖徳太子厩戸皇子)」とされてきました。

しかし、現在使われている高校の日本史教科書(『詳説日本史B山川出版社)では、「厩戸王聖徳太子)」と表記されています。

2017年文部省は、歴史の授業に、古事記日本書紀の史料に基づいて学ぶことを明記し、「聖徳太子」の名が没後の呼称であるとの史実を踏まえ、小学校は「聖徳太子厩戸王)」、中学校は「厩戸王聖徳太子)」に改めるという内容を公表しました。しかしパブリックコメントを経て、小中学校とも「聖徳太子」の表記に戻ったということで、やはり「聖徳太子」人気がうかがえます。

また、法隆寺の「唐本御影(聖徳太子三尊像)」の肖像画が、「太子を描いたものではない」という説が強くなっています。

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聖徳太子・二王子像(唐本御影) 宮内庁

これが描かれたのは、少なくても太子の没後100年以上経た8世紀半と思われ、その頃の「太子信仰」からは、「笏」を持ち「冠帯」の肖像は生まれないという説が有力なのです。

いずれにしても「唐本御影」は、一体誰を描いたものか、誰が作者なのかなど決着はついておりません。

現在は、歴史教科書などで「唐本御影」を掲載する場合は「伝聖徳太子像」と記しています。「伝」の語がつくようになり、「聖徳太子だと伝えられている」という意味です。

さらに、太子の業績は『日本書紀』の創作だとして「聖徳太子はいなかった」という説もあり、聖徳太子に関わる議論はまだまだ収束をみておりません。

 

その他にも、幕府が隠れキリシタンを見つけるために行っていた「踏み絵」は「絵踏(えぶみ)」という表現が一般的になっています。

身分の序列を示す「士農工商」も、当時の実態を表すものではないとして使われておりません。士(武士)を除く、農、工、商の身分に上下関係はなく、その境目はあいまいだったといいます。

鎖国」という用語も慎重に使われるようになりました。江戸幕府は国を閉ざしていたわけでなく、長崎を窓口としてオランダや中国、朝鮮と交易しており、対外的な窓口は長崎以外にも対馬や薩摩などがあり、東南アジアの国ともつながりを保っていました。

そこで「鎖国」とカギカッコ付きで表したり、「いわゆる鎖国の状態」などと、するようになっています。

 

そして、教科書が塗り替えられた代表的な例として最古の鋳造貨幣「富本銭」を考えてみます。

1998年奈良県の飛鳥池遺跡から発掘された富本銭が、それまで最も古いとされてきた「和同開珎」に取って代わったというものです。

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和同開珎

尚、和同開珎の「珎」を「ほう」と読むか、「ちん」と読むかについても説がわかれています。今まで、「かいほう」と思っていましたが、いつ頃からか分かりませんが、「かいちん」の読み方が一般的なようです。

 

富本銭(ふほんせん)は、683年(天武天皇12年)頃に日本で作られたと推定され、708年(和銅元年)に発行された和同開珎より年代は古いとされました。

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富本銭 富本銭と鋳竿(複製)

富本銭の「富本」という文字は、中国の文献が出典で、字体は隷書と楷書が交じっており、中国の開元通宝(唐代において621年に初鋳)がモデルと思われます。

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開元通宝

左右に7つある点は、太陽と月と五つの惑星の七曜を表したものと考えられますが、中国では普通、流通貨幣に図を入れるデザインはなく、富本銭が流通貨幣とは考えにくいのです。

製作技法をみると富本銭は、造りが丁寧で、中心の幹の部分「鋳棹」に対して、厳密に正位置に置くようにされており、切り離す前の枝銭を意識していると考えられます。

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枝銭

製造量についても熔銅と銅滓から1万枚ぐらいと推定され、百万枚単位で作られる流通貨幣とは、この点でも考えられません。

このように、文字、デザイン、製造技法、製造量とあらゆる面で、富本銭が厭勝銭(ようしょうせん:まじない用に使われる銭)的な性格を示しています。

実際に教科書が、どういう書き方をしているか分かりませんが、鋳造貨幣として最古な貨幣は、富本銭ですが、流通していたのは、和同開珎が最古であると思うのです。

 

富本銭よりも前の貨幣として、「無文銀銭」も知られています。

無文銀銭・富本銭・和同開珎の関係、貨幣としての価値、流通範囲など、まだ不明な点が多く、今後の研究課題と考えられます。

 

以上のように歴史的な事実や人物の評価は、時代と共に移り変わります。

さまざまな歴史的事実が明らかになり、歴史は絶えず「進化」し続けています。

 

古銭といえば、蛇足ですが、東京国立博物館東洋館の中国青銅器の展示の中に、「揺銭樹(ようせんじゅ)」が展示されておりました。 初め、何かと思ったのですが、青銅製の樹が枝を四方に伸ばし、そこに銅銭をつけた結構大きなものでした。

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揺銭樹

枝には、銅銭のほか龍・鳳凰・仙人などを表わし、樹の頂部には玉をくわえた鳳凰がとまっています。緑釉陶器の台座は、羊に乗った仙人をかたどっています。古代中国の人々が信じた神仙や、めでたい物に満ち満ちた架空の樹木です。(展示の説明より)

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樹の頂部の玉をくわえた鳳凰

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枝の銅銭のほか龍・鳳凰・仙人も描かれています

後漢時代の1~2世紀のもので、中国四川省あるいは、その周辺から出土したもので、この時代に銅銭があったのです。遣唐使が持ち帰ったものなのでしょうか。完全な形で、日本にあることに驚きです。見事な作品です。

                                  以上