以前、「河口慧海のチベット探検」を書きましたが、仏教界では、シルクロードから貴重な仏教史料をもたらした大谷光瑞という人物がおります。
仏教の源流を探るという目的は同じ二人ですが、単独でチベットに入って、それ自体が仏教修行と思える河口慧海と潤沢な資金があった大谷光瑞では、その手法が全く違っていました。
日本の仏教の水準を高めようとした光瑞ですが、その目的を『西域考古図譜』に、「此地に遺存する経論、仏像、仏具等を、蒐集し、以て仏教教義討究及び考古学上の研鑽に資せん」と書いています。
要するに最大の目的は、仏教が日本にもたらされた経路を明らかにすることです。
しかし、それには先進国である欧米諸国、そして日本の時代背景が関係していたと思われます。
日本では、明治元年(1867)、神仏分離令が出されたのを契機に、日本中に廃仏毀釈の嵐が吹き荒れます。さらに明治6年(1873)キリスト教が解禁され信者を増やし、日本の仏教界の危機的状況が関係しています。
そして、19世紀後半から20世紀初頭の欧米諸国は、帝国主義のもと、軍事、科学力をもって、シルクロード探検の黄金時代でした。多くの国際探検隊が中国西北地区の奥地に入り、考古学研究、宝探し、探検を繰り広げていたのです。
1900年、さまよえる湖「ロプノール」で有名なスヴェン・ヘディン (スウェーデン)が、シルクロードの幻の古代仏教都市「楼蘭」を発見し、1901年オーレル・スタイン(イギリス)がホータン近郊のニヤ遺跡や敦煌文書の発掘などを行っています。
大谷光瑞は、仏教界最大派閥、浄土真宗本願寺派西本願寺法主の息子で、生まれたときから1千万信徒の頂点に立つことが約束されていました。
学習院大学を卒業後、ヨーロッパに留学します。光瑞は、明治時代に入って、仏教界も文明開化の中で変わらなければならないと思ったのではないか、また留学中に、ヨーロッパが哲学研究、哲学理論を持って、仏教を整然と研究されていることに驚き、原典を研究しなければならない、と考えたのではないかと思われます。
それには、単に仏教ルートを探るというだけでなく、仏教が行きわたった地域の環境、どういう人々が仏教を信仰したのかなど、丹念に調べようとの思いがあったのです。
そして1902年、ロンドンを出発、モスクワ経由で、中央アジアに入りました。
西本願寺からの潤沢な資金のもと、測量器、高度計、カメラ、毛皮服など当時最新の装備品の準備は、万全だったのです。
パミール高原を越え、新疆ウイグル自治区のタシュクルガン、カシュガルからクチャ、トルファンなどへ入ったものと推定されます。
わたしは、このシルクロードの経路を、20年くらい前に逆にウルムチからカシュガル、タシュクルガンに入り、パキスタンに抜けるカラコルムハイウェイのバス旅を経験しておりますが、光瑞のシルクロードルートを調べて、懐かしく思い出します。
光瑞一行は、第1次踏査の1年半で、タクラカマン砂漠の北周辺に点在する古代仏教王国の遺跡のクムトラ石窟、新疆では最大の石窟であるキジル石窟を調査しました。
調査で持ち帰った、舎利容器を抱える仏陀の弟子、ドロナ像の壁画が、日本に残されています。西域人の顔立ちが印象的です。
さらに、クチャ郊外にある仏教遺跡であるスバシ故城では、華麗な彩色が施された舎利容器を発見しています。
上部の羽の生えたエンゼルの姿から、東西交流の痕跡が伺えます。
光瑞はその後、西本願寺の財力を背景に、第2次(1908年〜09年)、第3次(1910年〜14年)と2度にわたって探検隊を中央アジアに派遣します。
1903年に父・光尊が死去し、法主を継職するため帰国しましたが、探検・調査活動は1904年(明治37年)まで続けられました。
第2次隊では、ロプノール湖沿岸の楼蘭付近の「海頭」で発掘した「李柏文書」が有名です。(龍谷大学蔵)
また、トルファンの仏教石窟新疆ベゼクリク千仏洞壁画も取得しており、現在は東京国立博物館所蔵です。
東京国立博物館東洋館ギャラリーには、大谷探検隊の持ち帰った文化財が、数多く展示されております。わたしは、3年前に見ましたが、もう1度、確かめて見たいと思います。
そして、第3次隊では、新疆ウイグル自治区トルファンの墓で12体のミイラを発見しました。旅順と韓国に残っています。
その後、光瑞は法主として、教団の近代化に努め、日露戦争には多数の従軍布教使を派遣し、海外伝道も積極的に進めています。
大谷光瑞の財力は巨大だったようで、例えば、日露開戦のときに、西本願寺は、巨額の国債を引き受けています。
しかし、権勢を誇った光瑞ですが、巨額の国債引き受け、大谷探検隊が持ち帰った西域文化財を収蔵、展示した二楽荘という豪華な別邸、そして大探検隊などの出費により、教団の財政は悪化します。
そして、ついには疑獄事件にまで発展し、光瑞は1914年に法主の座から退くことになるのです。
しかし、隠退後も文化活動を続け、1919年に光寿会を設立して梵字の仏典原典の翻訳、1921年には上海に人材育成のための策進書院を開校し、太平洋戦争は近衞内閣の内閣参議、小磯内閣の顧問を務めました。
その後、ソ連軍に抑留、公職追放などと波乱万丈の生涯をおくったのです。
尚、チベットからの帰路にあった河口慧海と、仏跡調査中の光瑞は、インドで対面しています。どんな会話が交わされたか、全く対照的な二人の話は、興味深いところです。
以上