平城京再遷都

奈良大学のスクーリングは全て受講しましたが、常宿から大学への往復で、必ず近鉄奈良線の電車から見えるのが、平城宮です。

復元された朱雀門大極殿が左右に見えますが、今はコロナ禍で奈良には行けておりません。

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平城宮の復元した第一次大極殿朱雀門

桓武天皇が、長岡京を経て、平安京への遷都を行ったのが延暦13年(794)です。

その16年後に新都の京都から再び奈良の平城京に戻そうとするクーデターが勃発するのです。「薬子(くすこ)の変」です。

父親の桓武天皇崩御して平城(へいぜい)天皇に代わるのですが、3年後に同母弟の神野親王(後の嵯峨天皇)に譲位します。この平城天皇嵯峨天皇の争いです。

 

平城天皇には、既に高岳・阿保の両親王がいたことから、弟の神野親王擁立の背景には、桓武天皇の意向が働いたと云われています。

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桓武天皇像 延暦寺

平城天皇が早くに譲位して平城太上天皇となり、平城京に赴いたのは神経系の病のため(『日本後紀』によります。編年体の歴史書で『日本書紀』、『続日本紀』に続く書)と云われています。

しかし、病気が回復したため再び政治への意欲を持ち始めるのです。詔勅を出すなど平安京と二所朝廷といわれる対立が起きます。

平城太上天皇の復位をもくろんだのは、その寵愛を受ける藤原薬子と兄の藤原仲成でこの対立を大いに助長しました。

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桓武天皇系図   この時代の藤原氏系図

平城太上天皇のもとで詔勅を発する尚侍を務めたのが薬子で、仲成も平城派の高官でした。

そして、「平城太上天皇の指示により、平安京を廃して平城京へ遷都することになった。」と嵯峨天皇を無視し、一方的な詔勅を発します。

これに嵯峨天皇は遷都を拒否し、伊勢、近江、美濃の国府や各地の関を兵で固め、藤原仲成を捕らえて佐渡権守に左遷し射殺します。

平城は、手勢を失い薬子とともに東国を目指しますが、嵯峨天皇は、坂上田村麻呂に平城の東向阻止を命じ、大和国(奈良)を出ないうちに、嵯峨天皇側の軍勢に阻まれ降伏します。

遷都の詔勅からわずか6日後のことでした。

平城は、平城京に戻って剃髮して出家し許されましたが、薬子は毒を仰いで自殺しました。

ここに「薬子の変」(「平城太上天皇の変」とも云います。)はあえなく終わったのです。

 

藤原薬子という女性は、中納言藤原縄主の妻で三男二女の母です。

幼少の長女が、桓武天皇の皇太子安殿親王平城天皇)の宮女となるのに伴って宮仕えに上がり、東宮宣旨(東宮付きの女房の筆頭)となります。

やがて、妃となる娘を差し置いて自身が安殿親王と親密になるのです。

桓武天皇から怒りをかい追放されるのですが、桓武天皇崩御され、平城天皇となると再び召されます。

夫の縄主は大宰帥として九州へ遠ざけられ、天皇の寵愛を一身に受けます。

そして薬子は、政治に介入するようになり、兄の藤原仲成と共に専横を極めるという、怖いですね。

いつの世にも、このような女性が小説のように出てくるという悪女列伝のお話でした。

 

平城太上天皇は、薬子の変のときは三十代半ば、晩年まで平城宮の地で静かに暮らしたということです。50歳で逝去。

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平城天皇陵 平城宮跡の北側にあります。

日本後紀』には、この薬子の変に関係する記録はよく残っていて、平城遷都の「薬子の変」は、薬子のたくらみだとする書き方のようですが、真相はどうなのでしょうか。

平城太上天皇の変」とう云い方は、平城の主体的な意志を重視した呼び方です。

 

因みに、この平安初期の時代は、空海最澄橘逸勢(たちばなのはやなり)と共に遣唐使として唐に渡っております。

そして、嵯峨天皇は帰国した空海に京都の東寺を与えます。まさに同じ時代を生きていたのです。

また嵯峨天皇は、空海橘逸勢とならんで「三筆」と呼ばれる書道の達人でもあります。

                                                                                                              おわり