日本の鍼灸の歴史

 以前「世界の鍼灸事情」について中国、韓国の歴史、制度などを書きましたが、日本の鍼灸事情について述べてみます。

 鍼灸は、今から二千年以上前に、古代の中国で誕生しましたが、日本への伝来は、飛鳥時代6世紀半ばに朝鮮半島から伝えられたと云われています。その後701年の『大宝律令』が制定され、律令制度の整備の中で、鍼博士、鍼生といった官職が鍼灸を扱う医療職として設けられました。

 日本で初の医学書は、平安時代808年に成立した『大同類聚方』(だいどうるいじゅほう)です。平城天皇の命をうけ安倍真直、出雲広貞らにより、日本固有の医方を総集したものですが、原本を忠実に伝えるものは現存されておりません。偽本も多く、内容も疑問点が多いようです。もし現存していても、これには鍼灸に関する記述は無いと思われます。

 なぜならこの本の目的は、漢方医学鍼灸)の流入に伴い日本固有の医方が廃絶の危機にある事を憂慮した桓武天皇の遺命から編纂されたものであるからです。

 これに対して日本現存の最古の医学全書『医心方』(いしんほう)は、永観2年(984)に宮中医官を務めた鍼博士・丹波康頼により朝廷に献上されたものです。

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丹波康頼

 鍼博士である丹波康頼は、この時期の伝来医書を『医心方』という形で編纂し、現在までその内容が保存されています。

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国宝半井家本『医心包』(オリエント出版社提供)

 『医心方』は12世紀の写本が半井家の所有を経て1984年に国宝指定され、現在は東京国立博物館に保存されています。

本文はすべて漢文で書かれており、唐代の医書を参考に当時の医学全般の知識を網羅したものです。全30巻、医師の倫理・医学総論・各種疾患に対する療法・保健衛生・養生法・医療技術・医学思想・房中術などから構成されています。

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医心方第22巻。医心方の中でも唯一図を持つ巻

 奈良・平安時代は中国の鍼灸を受け入れ、学ぶことが中心であったのですが、同時に日本鍼灸の萌芽が見え始めた時期でもあったのです。

これには遣唐使の役割が大きかったと思います。現存する中国最古の医学書で、東洋医学ではバイブルである『黄帝内経』の書写が京都の仁和寺にあります。おそらく遣唐使として中国に渡った鍼灸に知識のある僧侶などが持ち帰ったのではないかと思われます。

 このような遣唐使による鍼灸技術の伝播は、単に技術面にとどまらず、医療制度としての鍼灸を日本に模倣させるものとなったと思われます。 

 そして、 鎌倉時代を経て、室町時代から安土桃山時代は、日本の独自性が育ち始め、江戸時代に特徴的に発展します。

豊臣秀吉による文禄・慶長の役(1592・1598年)の際に、朝鮮半島にあった朝鮮・中国の医学書が大量に日本に持ち込まれ、印刷技術の伝播で医学書も出版されるようになります。

 また、朝鮮出兵の直ぐ後に、李氏朝鮮許浚ホジュン)(1539年~1615年)は、『東医宝鑑』を著しています。朝鮮第一の医書として評価が高く、中国・日本を含めて広く流布しました。日本では江戸時代初の官版医書として、徳川吉宗の命で享保9年(1724年)に日本版が刊行されています。

 わたしは、この『東医宝鑑』をソウルの韓国国立博物館で展示されているのを実際に見ております。3年前位ですが卒論の仏像の調査で行っており、偶然に見つけました。

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東医宝鑑』ソウルの韓国国立博物館の展示

 2009年にユネスコが主催する「世界記録遺産」に登録されたそうです。

 

 江戸期の臨床家で、その後の日本鍼灸に大きな影響を残したのが、杉山和一です。現在の津市の武家の家に生まれた和一は、幼少期に感染症で失明し、鍼灸で生計を立てようと江戸に行くのです。

江の島弁財天で断食し「管鍼術」を発明します。これは、鍼を管に挿入した状態で刺入する方法で、初心者でも患者に痛みを与えずに刺入でき、現在でも広く日本で用いられています。

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鍼管と鍼

 そして和一は、5代将軍綱吉の持病を改善させて重用され、下町一つ目に屋敷を賜り、将軍家御医師の地位と、盲人の最高位(検校)を賜ったのです。また、私費を投じて全国40箇所以上に「鍼治講習所」を開設し、視覚障害者が鍼灸を生業にする道を開きました。

 江戸期の日本の鍼灸は、「経穴」という、効果の決まったポイントが体表面に存在するという一般的な鍼灸論に対し、「変化の起こっている部位」こそ「経穴」という治療ポイントであるという視点を導入し、今日に続く鍼灸の科学的な解明に道を開いたのです。

 明治時代になると、近代西洋文化流入に伴い、明治政府が西洋医学の導入と共に漢方医学の排斥を進めたため、明治時代から大正時代にかけて鍼灸は衰退の道をたどります。

 大正期に入ると、日本の伝統的医学の復興が叫ばれ、鍼灸・漢方の医学的研究が帝大を中心とした国の研究機関で盛んに行われるようになります。

そして、昭和初期から鍼灸の技法自体に対する復興運動が起こりはじめ、「古典に還れ」と提唱した柳谷素霊などが経絡治療として体系化しました。それが今日でも受け継がれています。

戦後、はりきゆうの免許が国家資格となり、幾度かの法改正を経て、現在では3年以上養成機関で学ぶことが、「はり師」と「きゅう師」の国家試験受験要件となっています。

 最近では、公的な医学研究所・医科大学鍼灸大学や医療機関等で科学的な各種の実験、研究がされて少しづつ鍼灸医学の効果が証明されてきました。

いまや、鍼灸治療は、中国、韓国そして日本のみならず、欧米をはじめとする世界各国で盛んに行われています。最近の国際鍼灸学会は、世界中から50カ国以上参加するようです。

 まだまだ医療については科学的に解明されない未知の部分が多く、今後、現代の西洋医学東洋医学とを組合わせての「統合医療」が期待されるところです。

                              おわり