府中市「分倍河原の戦い」と「古墳」

 先日、府中市で一献傾ける機会があったので、その前に近辺を散策しました。

府中市は、東京都のほぼ中央に位置する人口は約26万人の都市です。市名は律令時代に武蔵国国府が置かれたことに由来しますが、国府のある場所が府中と呼ばれ、その名称が受け継がれています。

 分倍河原(ぶばいがわら)は、府中市の中心部にあり、かつて鎌倉幕府滅亡へと向かう歴史の転換点の一つの古戦場があります。その「分倍河原の戦い」は、北条泰時率いる鎌倉幕府勢と新田義貞率いる反幕府勢との間で行われた合戦です。

分倍河原駅の駅前ロータリーに、新田義貞の像があります。

新田義貞

太刀を振りかざし、味方を鼓舞するかのような躍動感あふれる騎馬像です。

 そして、分倍河原古戦場の方に向かいます。分倍河原古戦場碑の看板があります。

分倍河原古戦場碑の看板

緑道、遊歩道案内図

北条と新田の分倍古戦場

歴史と文化の散歩道 いろいろ看板があります。

分倍河原古戦場碑

 

 

近辺の緑道、遊歩道の様子

 そこは公園みたいな市民の憩いの場のようです。古戦場の場所は、名前のとおり河原のような所を想像していましたが、多摩川からは1㎞以上離れています。もっとも当時は、この辺一帯が河原の様なのかもしれません。なにせ新田軍2万人、幕府軍15万人もいたのですから相当な広さが必要です。

 新田軍2万人は、奇襲を仕掛け、分倍河原へ一気に押し寄せ大勝利し、北条泰家以下は壊滅して敗走したのでした。

新田義貞の勝利は、その後の戦局に大きな影響を与え、倒幕運動最後の合戦、鎌倉での東勝寺合戦により1333年、遂に鎌倉幕府は滅亡します。

 次に古墳時代に戻って古墳の話です。この府中市分倍河原に古墳が数多くあります。古代から有力な豪族がこの辺一帯に住んで治めていたと思われます。

 以前、武蔵府中熊野神社古墳のブログを書きましたが、そこも分倍河原の近くです。熊野神社古墳は、上円下方墳という国内でも珍しい古墳でしたが、今回は、高倉塚古墳と御嶽塚古墳の二つの円墳です。

高倉塚古墳は、分倍河原駅から数分の所にあります。

高倉塚古墳

 府中崖線の斜面上に広がるこの周辺には、これまで確認されている古墳が25基あり、これらは「高倉古墳群」と呼ばれています。このうち墳丘が残っているものは4基あり、この高倉塚古墳は古墳群の中心に位置しています。

 古来より「高倉塚」と呼ばれ象徴的な存在だったことから中世以降には信仰の対象として保存されてきました。これまでの発掘調査で、墳丘構築工法が判明し、墳丘下層から6世紀前半とされる土師器坏が出土するなどの学術成果があり、高倉古墳群を研究するうえで貴重な資料となっています。

(看板の説明から)

 

 分倍河原の隣の町でJR南武線西府駅の直ぐ前にあるのが、御嶽塚(みたけづか)古墳です。

御嶽塚古墳と看板

以下看板の説明です。

 御嶽塚古墳は、直径約25mの墳丘とその周囲に幅約7mの溝がめぐる円墳でした。その後、中世になると屋敷を堀で囲む約200m四方の区画の中心に位置することとなり、さらに、江戸時代には信仰の対象として祀られることになったと考えられます。

 現在、塚上に祀られている石祠には「御嶽大権現 安政五午年 十一月吉日 小野宮願主 内藤伊助」の銘があります。御嶽信仰は、山岳信仰のひとつで、中世以降さかんになり江戸時代に各地に広まりました。

 西府文化センター周辺では、御嶽塚の他にも、古墳時代後期の6~7世紀はじめ頃に築かれた13基の古墳が確認されています。

墳丘に記された円筒埴輪や石室に収められた圭頭大刀、金銅製の耳飾りなどが出土しています。これらの古墳は、この塚の名に因んで「御嶽塚古墳群」と呼ばれています。その範囲は、東側の新鎌倉街道から西側の国立市境付近にまでおよんでいます。

御嶽塚古墳

御嶽塚古墳 塚上に祀られている石祠

 

以上の府中市分倍河原近辺を散策し、その後に友人と一献傾けた一日でした。隣の市の府中市はまだまだ行っていない古墳、神社仏閣が豊富にありますので行ってみたいと思います。

 尚、他にお寺も参拝しておりますが、長くなりますので次回とさせていただきます。

参考資料:現地案内図及び説明板

                            おわり