今回は、東京都国分寺市の「国指定史跡 武蔵国分僧寺跡」の散策です。聖武天皇の「国分寺建立の詔(みことのり)」により建てられた国分寺が、実はわたしが住む稲城市の近く、そしてかつて住んだことがある、正に国分寺市にあります。
天平13年(741)に聖武天皇は、度重なる飢饉や疫病の流行、内政の混乱に対して仏教による鎮護国家を願い諸国に国分寺建立の詔を発布しました。
武蔵国では、都と国府(現府中市内)を結ぶ古代官道「東山道武蔵路」沿いの東に僧寺、西に尼寺が計画的に配置されました。武蔵国分寺跡は、全国の国分寺跡と比べても規模が大きく、その歴史的重要性から大正11年に「国指定史跡」に指定されています。
今回は、この旧武蔵国分寺の伽藍跡や新田義貞の寄進によって再建された武蔵国分寺などの散策記です。
範囲が広大で武蔵国分寺の本堂、薬師堂などの位置関係が分かりづらいので地図を示します。国分寺市教育委員会発行の武蔵国分寺跡を改変した地図です。
対象は、赤丸の、上から薬師堂、八幡神社、国分寺などです。そして赤の下線は、講堂、金堂などの古代の伽藍の跡です。
「薬師堂」は、古代の金堂跡からこの現在の位置に移動しています。また、「国分寺」は、現在の「武蔵国分寺」の本堂です。
先ず訪れたのが、武蔵国分寺跡とは直接関係ありませんが、薬師堂の直ぐ西側にある八幡神社です。
八幡神社の創建年代等は不詳ですが、元和年間(1615~23)の書に記載があり、江戸期には国分寺村の鎮守社だったといいます。明治4年村社に列格、昭和26年には国分寺市本町八幡神社を分祀しています。
御利益:国家鎮護、殖産産業、家運隆昌、成功勝利
厄災除け、地域・家内安全
少し高台にあり、鳥居まで石段があり、更に社殿に行くのに石段を上がります。
鳥居の左脇に庚申塔が祀られてあります。
説明掲示板には、一面六臂の青面金剛象が刻まれ、下部に三匹の猿が彫られていますと書いてありますが、よく判別できません。祠はまだ新しいです。
そして、手水舎、社殿です。
社殿の左側に力石(ちからいし)があります。力石は、力試しに用いられる大きな石です。日本では鍛錬や娯楽として、江戸時代から明治時代まで力石を用いた力試しが行われました。また、神社・寺院に置かれた特定の石を持ち上げて重い、軽いと感じるかによって吉凶や願い事の成就を占うものという説もあります。28貫目、約100kgとあります。
掲示板に、本村八幡神社とあります。これが正式名称でしょうか。
そして、この直ぐ北が「国分寺公園」となっており、そこの西側に「土師竪穴(はじたてあな)住居跡」があります。
そして、大きめな石が並べられています。ここが、土師竪穴住居跡のようです。
昭和31年、日本考古学協会仏教遺跡調査特別委員会によって、武蔵国分寺跡の発掘調査が始まりました。そして、寺域内外に竪穴住居跡が四棟発見されたのです。寺域内より発見された二号竪穴住居跡が史跡指定されています。
土師器(はじき)とは、弥生土器の流れを汲み、陶質土器の須恵器とともに、古墳時代から奈良・平安時代まで生産された素焼きの土器です。
名称の「土師」は、当時一般的に使用されていた土師器を指しており、「土師器を使用していた時代の」という意味です。
また、その隣には、地元の戦死者の人たちのための大きな忠魂碑などが並んでいます。
八幡神社は、創建年代等は不詳ということですが、武蔵国国分寺に隣接していることから、国分寺との深い関係をうかがわせます。近くにある土師竪穴住居跡、薬師堂などと合わせて地域の歴史の重みの感じられる神社でした。
そして、鳥居を下って通りを東側の方面に行き仁王門から薬師堂へ向かいます。
位置関係の確認 のため、武蔵国分寺の本堂に掲示されていた「武蔵国分寺案内図」を示します。当初創建された古代の旧武蔵国分寺の金堂など大伽藍の跡は、この案内図の南側にあります。
石段を上がると国分寺の仁王門です。
これよりますと、
「この門は、宝暦年間(1751〜1763)に建立された入母屋造の八脚門で、間口が9.0m、奥行が3.6mあります。使用されている建築材は、『新編武蔵風土記稿』によると、建武二年(1335)に建立された旧薬師堂(僧寺の金堂跡付近)に使用されていたものを再利用したと伝えられています。この門の左右には、阿吽の仁王像が安置されています。」
一寸暗くて仁王像が安置されていたとは、気が付きませんでした。
仁王門を後にして薬師堂への石段を進みます。
すると「国指定史跡 武蔵国分寺跡」の説明掲示板が見えてきます。
指定年は大正11年で、説明掲示板によりますと、
「天平13年(741)の聖武天皇の詔により創建された武蔵国分寺は、発掘調査により寺地と、僧寺寺域、尼寺寺域が明らかになり、諸国国分寺中有数の規模であることが判りました。僧寺では諸国国分寺中最大規模の金堂をはじめ講堂・七重塔・鐘楼・東僧坊・中門などが調査されています。
武蔵国の文化興隆の中心施設であった国分寺の終末は不明ですが、元弘三年(1333)の分倍河原の合戦で焼失したと伝えられています。」とのことです。
さらに石段を上がります。石段の左側には歌碑が現れます。「むらさきの 葛の花ちる石段を 武蔵国分寺へ われ登りゆく 宮柊二」と刻まれています。
歌中の「武蔵国分寺」とは、本堂ではなく薬師堂を指していると思われます。
石段の参道を進みますと薬師堂が見えきます。
薬師堂
左側に説明掲示板があります。
薬師堂は、医王山縁起によると、建武2年(1335)新田義貞の寄進により、武蔵国分寺史跡の金堂跡付近に建立されたと伝えられています。
現在の薬師堂は、宝暦年間(1751~1764)に今の場所に移され、建て替えられたものです。
単層寄棟造の建物で、昔は萱葺屋根でしたが、昭和60年に銅板葺の屋根になりました。正面厨子内には 国指定重要文化財の「木造薬師如来坐像」が安置されており、10月ごろ年に一度の開帳日があります。また堂内正面 の額にある「金光明四天王護国之寺」の書は、深見玄岱(薩摩藩及び江戸幕府登用の儒書家)の筆によるものと伝えられています。
堂内は10月ごろ一度以外、拝観出来ませんが、武蔵國分寺のホームページで木造薬師如来坐像が掲載されていますので、載せさせて頂きます。
木造薬師如来坐像は、平安時代末期あるいは鎌倉時代初期の製作と考えられ、作者は不明です。
寄木造の漆箔仕上げで、像高は約191.5cm。蓮華座に坐し、印相は右手が施無畏印、左手に薬壺を持っています。台座および光背は後代の補作と思われます。
薬師如来は、日光・月光の両菩薩を脇侍とし、眷属として十二神将を従えています。
薬師堂の正面、周囲です。
また境内には、鐘楼、供養塔があります。
薬師堂の西側にも門があり、左右に「國分寺」、「武蔵國」と刻まれていました。
次は、武蔵国分寺の本堂に向かいますが、長くなりましたので次回とさせて戴きます。
参考:武蔵国分寺ホームページ
国分寺市ホームページ
境内説明掲示
おわり