前回は聖武天皇の「国分寺建立の詔」に関連する武蔵国分寺の薬師堂などを見て来ましたが、今回は本堂です。
武蔵国分寺は、正式には「医王山最勝院国分寺」で真言宗豊山派の寺院です。
山号:医王山
院号:最勝院
寺号:国分寺
寺伝(医王山国分寺縁起)によりますと「分倍河原の戦い」で焼失した武蔵国分寺は、新田義貞の寄進により薬師堂が再建されたと伝わっています。
江戸時代に入ると徳川幕府は、由緒ある寺社に領地を与えて保護しました。国分寺の薬師堂も三代将軍家光から慶安元年(1648)に寄進を受け、朱印状を下付されました。
以後、十四代家茂までの朱印状が残っています。享保10年(1725)に本堂が再建されたと考えられ、現在の本堂は昭和60年に改築されたものです。
扨て、前回も示しましたが位置関係が分かり易いので、武蔵国分寺の本堂に掲示されていた「武蔵国分寺案内図」を再掲します。
薬師堂を先に拝観しましたが、本堂の境内と入口が違うので、まるで他の寺院のようです。
本堂は、国分寺楼門(図中の山門)の前にあり、傍に説明の掲示板がありました。
国分寺楼門は、昭和51年に市重要有形文化財(建造物)に指定されています。建物は間口三間(約6.2m)奥行二間(約3.7m)の楼門造り、板金葺で、江戸時代の建築様式をよくとどめています。
この門は、米津出羽守田盛(通称内蔵助)の元菩提寺として建立された米津寺(べいしんじ:東久留米市)の楼門を明治28年に移築したものです。国分寺境内の諸建築物とともに、国分寺の変遷を知るうえで重要な建物です。
楼門は、なかなか風格のある重厚な雰囲気の造りで歴史を感じさせます。二階には何があるのでしょうか。
楼門から向かいの武蔵国分寺の本堂の方へ向かいます。
寺石標の後ろに「弘法大師1150年御遠忌」本堂改築記念と刻まれています。
そして、寺石標の傍に「万葉植物園」の説明掲示板があります。実は、「万葉植物園」は本堂境内の中にあります。
掲示板の内容です。
万葉植物園は、昭和39年に市指定天然記念物に指定されています。
元国分寺住職、星野亮勝氏が昭和25年から13年経て採集したものです。この寺が栄えていたころに編纂された「万葉集」より、当時の歌人達が好んで歌の題材とした植物を集め、国分寺創建のころの生活や、文化、思想を知ることが出来ます。広さは約8,000㎡で、現在160種の植物が集められています。
本堂に向かいます。正面の彫刻も見事な本堂です。
本堂には非公開の阿弥陀如来が安置されているようです。武蔵國分寺のホームページに載っていますが、見事なので掲載させて頂きます。
また、雨樋から落ちる水を貯める器が「天水桶」ですが、寺紋の五七桐が入った天水桶(てんすいおけ)も立派です。
そして西側の本堂の縁側に何か生きものが寝ています。ニャンと猫みたいです。
気配を感じ、こちらを一瞥しましたが、怪しいヤツではないと思ったのか、また何事も無かったかのように眠ります。この歴史ある本堂の守り猫にも風格が感じられます。
寺院には、よく猫をみかけますが、静かで落ち着いた雰囲気が好きなようです。
本堂の東側に棟続きで寺務所があります。御朱印を戴こうと思って行ったのですが、残念ながら「しばらくの間御朱印はおやすみします。」の立て看板がありました。
この本堂の境内全体が、万葉植物園でした。境内に看板があり、先月から「国分寺万葉植物園」から「国分寺万葉庭園」と改称したみたいです。
「国分寺 万葉庭園」に改称
境内の庭にあるので庭園が似合っていると思います。
境内全体至る所に、万葉集に関係する植物の看板が立ち並んでいます。冬なので、花などはありませんが、適した時期ならば壮観だと思います。
元住職の方は、13年かけてよく集めたものです。また、これまでこれを管理、維持していくのは大変だと思いました。
そして、資料館、古代の国分寺跡に向かいますが、楼門の近くに地蔵堂がありました。地域のお守りでしょうか。
資料館に行きますが、その途中に「お鷹の道散歩道」を通ります。
お鷹の道の説明です。
江戸時代、尾張徳川家の御鷹場に指定され村人の生活に大きな影響を与えていました。
国分寺崖線下の湧き水を集めて野川にそそぐ清流沿いの小道は「お鷹の道」と呼ばれ、昭和47、8年に国分寺市が遊歩道として整備しました。
名水百選「ほたるのすむ川」の看板も立っています。
この辺りを「お鷹の道湧水園」と云うみたいですが、その近くに資料館があります。
その向かいの「史跡の駅 おたカフェ」です。ネーミングも面白いカフェで、手書きの看板もあります。
ここで資料館の入園チケットを買って、コーヒー飲んでひと休憩です。
このブログも休憩で次回、資料館、大伽藍の国分寺跡の詳報に続きます。
参考:武蔵国分寺ホームページ
国分寺市ホームページ
境内説明掲示板
おわり