前回まで武蔵国分寺の薬師堂、本堂などを見て参りましたが、今回は資料館と国分寺跡です。
「おたかの道湧水園」は、江戸時代に国分寺村の名主を務めた本多家の屋敷地でした。現在は、保存修理工事が行われ、長屋門と倉が残っており、「武蔵国分寺跡資料館」もおたかの道湧水園の中にあります。案内板がありました。
江戸時代後期に建てられた長屋門、明治時代後期に造られた倉は、市重要有形文化財に認定されています。
長屋門は、国分寺村の名主を歴任した本多家の屋敷地南側に、表門と先代名主の隠居所を兼ねて江戸時代後期に建築されました。
後には、村医・書家として活躍した分家の本多雖軒(すいけん)がここを居宅兼診療所として使用したことが伝わり、農家の長屋門には珍しく、居室と物置とを合わせた建物であることが特徴です。
長屋門から入り資料館に向かいます。
この長屋門を入り直ぐ右手に縮尺10分の1の推定復元模型の七重塔が見えます。
聖武天皇の勅令により、各地に国分寺と共に七重塔の建設が進められたのですが、武蔵国分寺もその一つです。しかもここは後の発掘調査で2塔建てられています。
七重塔は、東大寺の東塔、西塔など各地に建設されましたが残念ながら現存されていません。
それによりますと、聖武天皇の詔には、国分寺に七重塔一基を置くことが規定され、塔の内部には聖武天皇勅願の『金字金光明最勝王経』の法舎利が納められていました。
七重塔は、高さはおよそ60mと推定され、鎮護国家を目的とした国分寺のシンボルであったようです。
そして、資料館です。
資料館は、武蔵国分寺跡の発掘調査の成果や旧石器時代から江戸時代までの国分寺市の主な文化財を展示しています。
わたしの気付いた主な展示資料です。
先ず、都指定文化財の銅造観世音菩薩立像です。
像の面相はやや面長で、素朴で童顔な優しい顔立ちの中に古式の笑みをたたえています。立像姿の作風は、奈良法隆寺の夢殿観音像などと似ていることから、白鳳時代後期(7世紀末~8世紀初頭)に制作されたものと思われています。素材は、国内で初期に採掘された銅を利用された可能性が高いです。
そして、緑釉花文皿(りょくゆうかもんさら)です。
緑釉花文皿は、平安時代(10世紀中頃)に愛知県瀬戸市付近で生産され、武蔵国分寺へもたらせたと推定されています。
全体に淡いうぐいす色の釉がかけられた、中央に大日如来の種子が梵字で表され、線刻画をめぐらしています。この皿は武蔵国分寺での仏教儀礼に使用された仏法具と考えられています。
唐草四獣文銅蓋も貴重です。
もとは、鋺(かなまり)や壺などの蓋と考えられますが、線刻文様があります。文様の類似した製品は、正倉院所蔵の佐波理蓋第二号のみで、8世紀後半に制作されたものと考えられ、朝鮮半島で製作された可能性も指摘されています。
また、板碑は、中世の供養塔の一種です。鎌倉時代から室町時代に盛んに造られ、死後の極楽往生を祈願したり、死者の霊を慰めるために造立されました。
左:阿弥陀三尊来迎図画像板碑 正中3(1326)年
右:天蓋・花瓶付阿弥陀三尊種子板碑 応安7(1374)年
他に、市重要有形文化財に指定された貴重な文化財が多数あります。
奈良時代の須恵器
また、徳川将軍家寺領安堵朱印状(近世)などの古文書、武蔵国分寺跡から出土した瓦等々興味深い資料が展示されています。
そして、資料館の裏手に湧水源があります。掲示板がありました。
その帰り、資料館の傍にまたニャンコがいます。でもこちらを見る目が少し厳しい。怪しいヤツと思われたかも。
資料館を後にして、楼門から南の方向の国分寺跡に向かいます。範囲が広大なので、新ためて国分寺教育委員会発行の武蔵国分寺跡を改変した地図を掲げます。
赤丸が既に見て来たところですが、赤下線の旧国分寺跡を辿ろうと思います。最初に、南門から中門そして中枢部の金堂、講堂それから七重塔跡です。
また資料室の展示の国分寺跡の推定模型も再掲します。
最初に最南端の南門です。ここは、特に南門跡も説明掲示もありませんでした。ただ南門の位置らしきところに武蔵国分寺跡の看板だけありました。絵には、真ん中に参道が南門まで延びています。
南門から北へ向かい中門跡です。
中門は、金堂・講堂・鐘楼・経蔵といった寺院の主要建物を囲む塀の南面中央に設けられた門です。地面の丸は、柱があった位置です。
そして伽藍の中心である金堂跡です。説明掲示板があります。
説明文です。金堂は本尊仏を安置する仏殿で、塔とともに寺院を構成する重要な建物です。武蔵国分寺の金堂は四周に廂(ひさし)を伴う礎石建ての建物で、桁行7間×梁行4間の規模を有し、基壇上に本来36個据えられていた礎石は、現在19個が残っています。
武蔵国分寺の金堂は、諸国国分寺で最大級であったということです。
次いで、金堂の北の講堂跡です。
講堂は、経典の講義が行われた建物です。桁行き5間(約29m)×梁行き4間(約17m)の礎石建物として創建され、後に金堂と同規模の桁行き7間(約36m)×梁行き4間(約17m)に増設して再建されたことが明らかになっています。
金堂、講堂の東側にあるのが鐘楼跡です。
鐘楼は、時を告げる梵鐘を吊った建物です。古代寺院では、鐘楼と経蔵(経典を納める建物)は同じ規模で、中軸線を挟んだ東西対称の位置に建てられるのが通例でした。
武蔵国分寺跡では、東西どちらを鐘楼跡と考えるのか、過去の研究で諸説ありましたが、昭和40年の発掘調査時から東側の建物跡を鐘楼跡と推定しています。
また、東側に史蹟武蔵国分寺址の石標が建っています。
そして最後に、武蔵国分寺址の北東端にある七重塔跡に向かいます。
資料館前の模型七重塔のところで述べましたが、ここにも七重塔の説明掲示板があります。
見学者は、これが頼りですが、推定復元図入りのイラストで分かり易く本当に有難いです。
それによりますと、飢饉や疫病の流行、内政の混乱を仏教の力で治めるため、聖武天皇は天平13年(741)に「国分寺建立の詔」を発布しました。詔には国ごとに七重塔を1基造り、金字光明最勝王経を安置するように示されており、「造塔の寺は国の華である」という記述から、七重塔は伽藍の中でも特に重要視されていたことがわかります。
武蔵国分寺の塔は正史の記録にも現れ、9世紀後半に編纂された「続日本後紀元」の承和12年(845)3月23日条には、男衾郡(現埼玉県比企郡)の前大領の壬生吉志福正が「承和2年(835)に神火で消失した後未だ再建していないので、聖朝のために塔を造りたいと願い出て許可された」とあります。
武蔵国分寺ではこれまでの調査で、2基の塔跡(塔1・塔2)が発見されています。諸国国分寺で塔が2基発見されるのは、とても異例のことです。
この説明掲示板に「塔1平面図・断面図と現在位置図(左が北)」があります。塔心礎が中心に描かれています。
が刻まれている供養塔があります。
また「塔2の調査」という説明掲示板があります。
塔1より西に約55mの場所では、周辺に比べてやや高く、北側に礎石が散在していることから、平成15〜19年度にレーダー探査と発掘調査を行い、塔1とほぼ同規模の掘込地業や基壇を確認しました。
掘り込みの深さが2.3mを超える関東ローム層主体の版築は、塔1よりもさらに精緻に築かれ、版築土からは9世紀中頃の土器が出土しています。
残っている基壇上面からの深さは3.0mを超え、基壇や掘込地業の平面形が正方形であること、調査区より「造塔」という模骨文字の瓦の出土から、この建物跡を塔2としました、ということでした。
2022年最後の寺院、神社の巡行は、武蔵国分寺でした。不覚にも近くに住んでいながら、国分寺市の国分寺が、このように奈良時代の歴史を色濃く残しているとは思いませんでした。古代の寺院跡と中世、近世の再構築、そして博物館と見所満載でした。まだまだ近辺にも、わたしの知らない古代の歴史があることを感じたことでした。
今年は、コロナもウクライナも終息とは程遠い感じで先が見えません。何とか来年こそ、平和で安穏な日々が続くことを願っています。それでは少し早いですが、皆様良いお年を!
参考:武蔵国分寺ホームページ
国分寺市ホームページ
現地の説明掲示板
おわり