高幡不動尊と安養寺

 前回、土方歳三について高幡不動尊、石田寺について書きましたが、もう一つ同じ真言宗のお寺「安養寺」にも行っています。

今回は、高幡不動尊と安養寺についてです。高幡不動尊は、京王線高幡不動駅(新宿から30分位のところ)から駅前の参道を経て平安時代から続く古刹へと向かいます。

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駅前の参道

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高幡不動尊金剛寺 川崎街道沿いにあります。

 高幡不動尊は、成田山新勝寺などとともに関東三大不動の一つとされます。寺伝によれば平安時代初期に円仁(慈覚大師)が清和天皇の勅願により高幡山に開いたのが始まりとされます。正式名は、高幡山明王院金剛寺ですが、通称高幡不動尊や「高幡のお不動さん」と呼ばれています。

まず、仁王門から入ります。楼上の扁額は、山号の「高幡山」です。

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仁王門

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扁額「高幡山」
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阿吽の仁王像

 仁王門から直ぐに不動堂があります。ここには、もともと重要文化財不動明王坐像、両童子が安置されていたのですが大嵐で倒壊したため奥殿に移され、今は極彩色の等身大の身代わり本尊が新造されています。

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不動堂

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身代わり本尊

 その少し奥に奥殿があり、日本一の丈六不動三尊が安置されています。不動明王坐像と右に矜羯羅童子(こんがらどうじ)像、左に制吒迦童子(せいたかどうじ)像が立ちます。不動明王像の像高は約2,8mで両童子像も2m前後と大型です。

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奥殿

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不動三尊像

 そして奥殿を過ぎ、山門を抜け突き当たった所が「鳴り龍」がある大日堂です。高幡山の総本堂でもあり、土方歳三の位牌が安置されています。

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大日堂

 聖天堂、大師堂、虚空蔵院と伽藍を下って見ていきます。

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聖天堂

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大師堂

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修業大師像

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虚空蔵院


 大日堂と聖天堂の間に、にこにこ地蔵がおります。掃除しているようで何となく癒されます。

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にこにこ地蔵

 また四国八十八カ所を模した巡拝コースや四季のみち、あじさい道もあるようで四季に合わせて歩くのも一興です。

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案内板

 最後に不動堂の向かい側に立つ五重塔に戻ります。5年かけて竣工した五重塔ですが総高45m、平安初期の様式を模した美しい塔です。やはり寺院の伽藍には無くてはならないものです。

相輪の金色が青空に映えます。夜の五重塔のライトアップも大変きれいなようです。

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五重塔

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五重塔内部

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金色の相輪

 

そして、高幡不動尊から多摩川の支流、浅川の向かい側にある安養寺を訪れます。真言宗智山派田村山安養寺の石塚の入口から山門に入ります。

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真言宗智山派田村山 安養寺

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安養寺山門

 安養寺の創立は明らかではありませんが、中世の豪族、田村氏の居館跡と云われています。現本堂は再建されたもので、その建立は18世紀初頭と見られます。

 本堂は室町期の作で、田村氏の書院を元に旧万願寺御堂内陣の一部を寄棟造りとして建てたと云われています。この本堂には、平安から鎌倉にかけての見事な仏像が並んでいます。

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安養寺の本堂

 本尊の阿弥陀仏如来坐像は、安養寺の前身である万願寺の本尊であったものと思われ、平安時代後期の作で、端麗で細部の手法も見事です。

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阿弥陀仏如来坐像

 そして、何といってもこの本堂の仏像の見ものは、鎌倉時代大日如来立像です。坐像以外の大日如来をこれまで見たことがありません。

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大日如来立像

 空海が将来した曼荼羅によれば、その姿には2種類あり、そのひとつである胎蔵界大日如来は、釈尊菩提樹のもとで仏法を悟ったときの坐法(結跏趺坐)と手印であらわされます。「法界定印」で、両手を仰向けに重ね親指をつけます。

 もうひとつの金剛界大日如来は、同じ坐法で、胸の前に左手をこぶしに握って人差し指を立て、それを右手で握る「智拳印」であらわされます。

 この安養寺の大日如来は、智拳印なので金剛界大日如来となるのですが、なぜ立っているのか不思議なのです。

如来は、修行を完成し悟りを開き、真理に到達した釈尊の姿であり、さらに密教の場合、真理そのものを象徴する大日如来は、曼荼羅の中尊、不動の中心として位置付けられので、坐っている姿が自然であると思いますが。

 

 最後に御朱印です。高幡不動不動明王で、不動明王の上の文字は不動明王を表わす梵字のようです。左に武州高幡山、右に奉拝 弘法大師御作と書かれています。安養寺は本尊阿弥陀如来です。

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高幡不動御朱印

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安養寺の御朱印

 

 東京都にもこのような貴重な珍しい仏像などがある寺院がまだまだあると思われます。他の興味深い寺院も探して参拝したいと思います。

                           おわり

土方歳三の生き方

 先日、東京都日野市の高幡不動尊金剛寺、石田寺と寺巡りをして来ましたが、何れも土方歳三に関係するお寺です。

土方歳三と云えば、幕末期に新選組副長として、局長近藤勇の右腕として組織を支え、戊辰戦争で各地を転戦し、最後の戦場になった箱館五稜郭にて戦死したという凄まじい生き方をした人です。

もう少し詳しい土方歳三についての歴史を調べてみる気になります。

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土方歳三箱館戦争時の肖像写真


 新選組の時の土方歳三の像と近藤勇土方歳三顕彰碑は、高幡不動尊金剛寺の山門の直ぐ左の場所にあります。

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高幡不動にある土方歳三

 

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隣に並ぶ近藤勇土方歳三 顕彰碑


 土方歳三は、天保6年(1835年) 武州多摩郡日野宿石田村(現東京都日野市石田)の豪農の生まれで青年時代は、家業の農業、薬製造を手伝いながら、近藤周助について剣術の天然理心流を学び、近藤勇沖田総司らと知り合います。

 文久3年(1863年)、近藤勇らと共に上洛し、浪士組に参加します。浪士組は、将軍徳川家茂上洛にあたり警備の目的で集められた浪士集団です。

その後、新選組を結成し近藤が局長、土方が副長となり京都の治安維持に努め、池田屋に潜伏していた長州藩土佐藩などの尊王攘夷派志士を襲撃した池田屋事件などが起こっています。

 慶応3年1867年に15代将軍・慶喜が将軍を辞して、大政奉還、王政復古の号が下り、翌年、鳥羽伏見の戦いが勃発し、新選組を指揮して戦いますが敗退します。

その後、勝沼、宇都宮、会津と転戦し仙台で榎本武揚の率いる幕府艦隊と合流しました。そして、北海道に渡り箱館政府設立に参加し、土方は陸軍奉行並に選任されます。

明治2年(1869年)官軍の攻撃が始まり、土方は弁天砲台に孤立した味方を助ける途中に流弾に倒れ無念の死を遂げました。

 土方歳三の生涯は、ざっとこのようなに戦いの連続でしたが、潔さを感じる一生でした。

近藤勇は慶応4年1868年5月に板橋刑場で斬首されています。

 

 土方歳三は、のちの洋装の写真や舶来の懐中時計を持っていた事などから、良いものはすぐに取り入れるなど合理主義者であったと思われます。

また、戊辰戦争において、宇都宮城を陥落させますが、このときに率いていた銃で武装した銃兵を土方は見事に指揮しています。

その後、会津から東北各地を転戦するうちに勝利を重ねるなど、西洋軍学にも理解を示して実践し、成果を上げています。

 このように自ら実践して新しいものを取り入れていくという柔軟な頭脳も持っていたのではないでしょうか。

 土方の一生のうち、最も関わりをもった人物として、近藤勇とともに榎本武揚が挙げられます。この榎本武揚もまた波乱万丈な生き方をしております。

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榎本武揚

 榎本武揚は、天保7年( 1836年)に江戸で生まれ、昌平坂学問所長崎海軍伝習所で学んだほかジョン万次郎の私塾で英語を学ぶなどします。

そして、幕府の開陽丸発注に伴い1862年にオランダへ留学し、砲術や造船術などを学んでいます。

 帰国後、幕府海軍の指揮官となり、戊辰戦争では旧幕府軍を率いて蝦夷地を占領、「蝦夷共和国」の総裁となります。箱館戦争で敗北し降伏、東京の牢獄に2年半投獄されました。

戊辰戦争を戦った 土方歳三とは、仙台において合流して、土方と榎本は蝦夷地に渡り、戊辰戦争最後の戦いである箱館戦争において共闘することになったのです。

 

 投獄された榎本武揚は、敵将・黒田清隆により助命され、釈放後、明治政府に仕えることになります。

北海道開拓使、駐露特命全権公使を努めたあと、内閣制度開始後に、逓信大臣、外務大臣などを歴任し子爵となっています。

 

 話しは土方歳三に戻りますが、高幡不動尊金剛寺の近くに石田寺(せきでんじ)という同じ真言宗の寺院がありますが、土方歳三墓所がある小さなお寺です。

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石田寺山門

 お寺まで行くところの道すがら「土方」の表札を掲げる家が多くありますが、石田寺にあるお墓も殆どが土方姓のお墓でした。

 
 石田寺のカヤの大木は、枝ぶりも見事で樹齢400年以上と推定されています。

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石田寺のカヤの大木

 そして、このカヤの大木の直ぐ近くに、土方の碑と墓所があります。

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土方歳三義豊の碑 義豊は諱(いみな)

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土方歳三義豊の碑の横にある墓所を示す碑

 

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土方歳三義豊の墓

 新選組の主だった人は、局長近藤勇土方歳三ともに享年35歳、初代局長芹沢鴨、暗殺32歳、総長山南敬助、脱走により切腹32歳、沖田総司、病死24歳と、全て若くしてこの世を去っています。時代の波に翻弄されたとも云えます。

 土方歳三の木刀の柄頭に、「義」の文字が彫られていますが、まさに土方歳三は、義のために生きた、義のために一生を捧げた生き方をした魅力ある人物であったと思われます。

                           おわり 

初夏を喜ぶ生きものたち

 コロナの第4波が来ようとしています。特に大阪、兵庫など関西地区は爆発的な感染者急増です。奈良も例外ではなく相当厳しい日が続いているようです。

6月実施の博物館実習は、奈良大から今月末に連絡が来る予定ですが、どうなるのでしょうか。今回の実習は、5日連続なので非常に難しい感じです。

  東京も英国由来の変異株が増大しているようで、大阪並みに急増しそうです。このようなコロナに振り回される毎日ですが、季節は暑い夏に向かって確実に移っています。

 

 初夏の兆しが見える中、庭の生きものたちは精一杯喜んでいるようです。

冬を越したメダカは、全て水の入れ替えて、新しいホテイアオイアナカリスを水槽に入れました。すっきりとして泳いでおり、もう産卵もしています。

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白メダカ

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黒メダカ

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楊貴妃

 ニホントカゲも冬眠から目を覚まし、親子共々日当たりの良い日にチョロチョロと出てきます。昔からの先住民なのか、もう何十年もここの庭に住みついて毎年春になると顔を現します。小さいトカゲもいるので春に孵ったのかも知れません。

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ニホントカゲ シッポが切れています。保護色でなかなか分かりません。

 キアゲハがもう飛んできています。孵ったばかりでしょうか、クリスマスローズに止まってじっとしています。

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キアゲハ

 また、クマバチがブルーベリーの花の蜜を吸いにせわしなくホバーリングしながら、あちこちの花を渡り歩いています。

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クマンバチ(俗称)の飛行

 今盛りの花は、赤白の久留米ツツジです。久留米ツツジは普通のツツジより花びらが小さいのですが、今年は元気いっぱい赤白競っています。

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赤白の久留米ツツジ

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赤白のせめぎ合い

 サクランボの木の花やジャスミンの花も咲いています。今年は咲くのが早いです。

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サクランボの花

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ジャスミンの花

カエデの木ですが、元は1本の木で、緑の葉と、エンジの色の葉がでてきます。毎年です。

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緑とエンジの色の葉のカエデ


名前は、分かりませんが毎年いつのまにか咲いています。

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ミントですが、これからどんどん一面に増えていきます。 

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ミント

 そして、柴犬チロリです。相変わらず元気に暮らしています。

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眠そうなチロリ

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餌を何度やっても「もっと頂戴」と云うチロリ

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舌を出して反省するようなチロリ

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怒ったら野生に還るチロリ 

いろいろな表情を見せてくれますが可愛いチロリです。

 

これからどんどん暑くなりますが、本格的な夏を待つ生きものたちの様子でした。

                        おわり

見事な安養院の紅頗梨色(ぐはりじき)阿弥陀仏

 今回も寺院巡りで素晴らしい仏像に出会いました。板橋区にあります安養院の紅頗梨色(ぐはりじき)阿弥陀仏です。東京にも数多く素晴らしい仏像があるものです。

 

 安養院の山号は、武王山、宗派は真言宗豊山派で、豊島八十八ヶ所霊場の1番札所でもあります。

武王山最明寺・安養院の創建は、鎌倉時代1256年鎌倉幕府五代執権北条時頼公によります。出家され諸国行脚のおり、この地に立ち寄り持仏の摩利支天尊をお祀りになったのが起源とされています。

時頼公の嫡男は、二度の元寇を処理し円覚寺を創建した時宗です。

その後兵乱により灰燼に帰しましたが、1688年(元禄元年)に祐淳大比丘が再興し、阿弥陀如来を本尊として祀り現在の安養院を形づくりました。

 安養院は、思ったより大きな綺麗な佇まいの寺院です。まず山門から入ります。扁額は山号の「武王山」です。

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安養院の山門

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扁額「武王山」独特の字体です。

 山門から入って、直ぐ正面に本殿がありますが、その左側に弘法大師の修行像があります。そして、その周りに四国霊場八十八カ所の石踏があり、そこを巡ります。

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弘法大師の修行像

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四国八十八カ所霊場石踏

 近くに樹齢500年と云われる榧(かや)の木もあり、豊かなみどりが広がる寺院です。

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樹齢500年の榧の木と十三重石塔、金輪

 地蔵さんもあちこちにあり、カラフルで綺麗な頭巾、涎掛けをしています。

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お地蔵さん


 その奥に多宝塔・常圓堂があります。多宝塔の本尊は五智如来、常圓堂は阿弥陀如来です。

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多宝塔・常圓堂

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圓堂の本尊 阿弥陀如来立像

 そして本堂です。本堂の扁額も同じ字体、基調で安養院と記されています。

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安養院の本堂

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本堂の扁額 「安養院」


 閉まっておりましたので、住職にお願いして内部を見せて戴きました。

本堂に入ると、そこは空海の華美な世界が広がっています。本堂内陣は、本尊の紅頗梨色(ぐはりじき)阿弥陀如来坐像を中心に、煌びやかな天蓋に飾られ、周りは曼荼羅や仏像、そして五鈷杵を持った弘法大師像などが並びます。

また、密教系の五鈷杵(ごこしょ)」などの法具がならべられています。

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本堂内陣 中央に紅頗梨色阿弥陀如来坐像

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金剛界曼荼羅

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胎蔵曼荼羅

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空海

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五鈷杵などの法具

 本尊の紅頗梨色(ぐはりじき)阿弥陀如来坐像です。

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蓮に囲まれた本尊

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孔雀に座っている本尊 紅頗梨色阿弥陀如来坐像

 宝冠をいただき、阿弥陀定印を結び孔雀坐に座る姿で、光背として、孔雀の羽が広がります。肉身部は、濃いあずき色をしているのですが、赤色に彩色されていたと思われ、宝冠などの飾りに透彫が見られます。

 住職によりますと制作年代など不明で、江戸時代の火災の時に持ち出したと記載された古文書があり、それより以前であることは間違いないということです。江戸時代初期頃かそれ以前の作かと思います。また、天台宗系の仏像にも似たような孔雀に座る像が見受けられるという様なことを話されていました。

 

 孔雀に座る姿を描いた仏画で、仁和寺を代表する仏画孔雀明王像」があります。関係があるのでしょうか。

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国宝「孔雀明王像」(仁和寺

 

 この紅頗梨色(ぐはりじき)阿弥陀仏を拝見しただけでも、ここに来た甲斐がありました。本当に素晴らしい仏像と空海ワールドに満足し、余韻にひたることが出来ました。

最後に御朱印を戴いて、寺院をあとにしました。ありがとうございます。

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御朱印 本尊 阿弥陀如来

                               おわり

奈良大学博物館学芸員資格本年度の予定

 1月に受験した博物館経営論、博物館概論、生涯学習概論の3科目の試験は、無事合格、主要4科目をクリアしましたので博物館実習(二)へ進みます。

 

 4月からの予定ですが、奈良大学から連絡が来ました。しかし、まだ明確な日程は示されませんでした。最近のコロナが勢いを増しているため決めかねているようです。

 一応、博物館実習(二)は、6月中旬から6月下旬の合計5日間、場所は、①大東市歴史民俗資料館②奈良大学通信教育部棟ということでいずれも未定だそうです。

結局、4月30日送付予定の詳細資料を見て下さいということです。

 無理もないですね、最近の近畿圏の感染者数は急激に増加しており、今後、緊急事態宣言が出るかもしれません。

 また、5月の奈良大学におけるガイダンス、講演の予定は無くなり、「学芸員に関する講演」動画をYouTubeで見て感想レポートを提出して下さいとのこと。残念、5月に奈良に行けると思ったのですが。

今年もコロナ禍でどうなるか分かりません。こういう状態は、ワクチンを全ての人が接種し終えて、落ち着くまで3年位かかるのではないでしょうか、耐えるしかないですね。

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奈良大学にて 阿修羅像 復元 山崎隆之先生作

 

 それから、残念ですが、万葉学者の上野誠教授が定年で奈良大学を退任され、母校の国学院大で教授に就任されるとの報道がありました。

わたしは、2年前のスクーリングで上野教授の「神話伝承論」を受講出来たのが幸運でした。上野ゼミが一体となって見事な講義を思い出します。

 上野先生は、「日本一幸運な万葉学者」と奈良で過ごした29年を振り返り、「東京で奈良の風を吹かせたい」と今後への意気込みを語っているそうで、益々のご活躍をお祈りいたします。

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2年前のスクーリングのときの上野教授

                                おわり

横浜歴史博物館の常設展と弥生時代の遺跡

 特別展の「横浜の仏像」も見応えがありましたが、常設展も展示室は開放感たっぷりで広く、原始から現代までの5つのテーマをうまく構成しています。それぞれ人々の暮らし、経済、文化、風俗など展示品も多く見事なものです。

 博物館の見学は、上野の国立博物館が中心で、あとは地元の博物館位しか見てなかったので、この横浜歴史博物館の常設展には少なからず驚き、やはり色々見なければと思いました。

 この常設展は、展示全体が円形状になっているようで、その中を、原始・古代・中世・近世・近現代の5つのテーマに区切って構成され、円形の曲面を利用して見易くなっています。

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広い展示室

 原始は、原始Ⅰ・原始Ⅱと分かれそれぞれ縄文時代弥生時代の展示となっています。説明がパネル、実物など多様し分かり易く、丁寧です。子供にも分かるようにと意識していると感じます。

 例えば原始Ⅰの縄文時代のコーナーです。豊かな森と海に生きた時代として土器、墓などムラのことを数多く展示しています。そのうちの一部です。

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縄文時代の全体展示

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土器にみる他地域との交流 縄文時代から交流があったのですね。

縄文時代から黒曜石などの石材、土器などの国内の交流があったのが分かります。

 そして原始Ⅱの弥生時代の展示についてですが、近くの遺跡、大塚・歳勝土(さいかちど)遺跡の出土品も展示されています。

その遺跡をジオラマで再現しています。

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大塚・歳勝土遺跡の発掘のジオラマ

 大塚・歳勝土遺跡は、この横浜歴史博物館の直ぐ近くにあります。発掘した後に竪穴式住居などを再現しています。関東の集落がどうなっていたのか、全体像が初めて明らかとなった貴重なものでした。

 今から約2千年前の弥生時代中期の、大塚遺跡のムラの住居エリアと、歳勝土遺跡の墓が一体となって完全な形で発見された遺跡です。

地下に遺跡が眠っており、その真上に当時のムラや墓を復元しています。

約3万平米に85軒の住居があり、弥生時代に50年ぐらい続いたようです。環濠集落であり、やはり稲作、水を巡る争いがあったようで50年とは短かったですね。

実際に見てきました。

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大塚遺跡全体景観

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住居と住居跡の復元

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竪穴住居の復元 茅葺(推定)

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竪穴住居の内部 外から見るより広い印象。炭化した米が発見されています。

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高床倉庫の復元 銅鐸に描かれています。

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柱には「ネズミ返し」が取り付けられていたようです。

 大塚遺跡から80mくらい離れたところに歳勝土遺跡がありますが、25基の方形周溝墓が確認されています。方形周溝墓とは、廻りを4本の溝でかこみ、低く土を盛った墓で、ムラの中の限られた人たちが葬られました。土器棺墓も見つかっています。

土器棺は博物館で展示されております。

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土器棺の展示

 縄文時代にはムラの中に墓があり、地面に穴を掘り遺体を埋葬する土壙墓(どこうぼ)が中心でしたが、弥生時代になると集落の近隣に共同墓地を営み土器棺、甕棺、木棺など埋葬用の棺の使用が中心となっていきます。

 

 話しは、弥生時代の展示に戻ります。

ムラの中の暮らしを絵の大パネル、ムラの状況を再現しでいます。

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ムラの暮らし

 弥生時代の人と物の流れも分かり易く展示し、唐古・鍵遺跡、吉野ケ里遺跡など国内の主な遺跡も紹介しています。

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弥生時代の人と物の流れ
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唐古・鍵遺跡の説明  吉野ケ里遺跡

 また、地元の鶴見区の上台遺跡にて発掘された人面付土器も展示されています。

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人面付土器 弥生式土器にも面白い土器がありますね。

 展示は、原始から古代の古墳時代、奈良、平安時代、中世、近世そして近現代へと移っていきます。

古代から省略し、近現代の明治時代以降に移ります。

 明治時代後半の日本一賑やかな町として関外にある伊勢佐木町の展示がありました。

貿易港横浜が明治時代に誕生して、開港場には内と外を分ける関門がもうけられました。内側が関内、外側は関外で、関外にある伊勢佐木町は日本一の繁華街と云われました。今でも変わりませんね。

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関外 伊勢佐木町

そして、勧工場の横濱館の展示もありました。

勧工場とは、様々な品物を扱う商店が一つの建物の中に集まり、陳列販売を行ったところで、今でいうデパートというところです。昔も今も考えることは一緒ですね。

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勧工場 横濱館 

 

 弥生時代から明治時代に一気に飛びましたが、この辺で終わりとさせて戴きます。

この博物館は、映像コーナーやスタディサロンなど色々工夫を凝らしてやっています。まだ残っている博物館のレポートのために、ここにまた見に来そうです。

                            おわり

 

横浜の仏像 しられざるみほとけたち

 先日、新聞紙上に「横浜の仏像」という展示会が横浜歴史博物館であることを知りました。横浜の仏像ってあまり聞いたことがありません。

横浜歴史博物館も初めて聞くのですが、1月下旬から公開しており今月21日までということや最近東京に見たい仏像がやって来ないので、行くことにしました。

 平日なので見に行く人もいないのではと思ったのですが、意外に賑わっておりました。念のためオンラインチケットを購入しておいたのですが、これが功を奏しました。結構並んでいて、待たずに入れ良かったのです。仏像に興味のある方が多いのかと感じます。

 飛鳥時代から南北朝時代までの横浜の仏像の変化を、体系的に見ることができるという特別展でした。東国にも飛鳥の仏像が来ていたのかと驚きました。

まず入口の前に、横浜市泉区・向導寺の阿弥陀如来坐像(平安時代11世紀)がおりました。傷みが激しい仏像で、関東大震災で大破したようですが、定朝様を思わせる、記念碑的な作品として展示されております。

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阿弥陀如来坐像 横浜市指定有形文化財第1号で、傷みが激しく痛々しいお姿。

 展覧会場に入って、まず飛鳥時代の仏像で如来坐像(伝阿弥陀如来像)です。詳しい伝来は不明ですが、飛鳥時代の仏像があることが不思議です。像高25cm足らずの可愛らしい金銅仏です。念持仏でしょうか。

元々は、西寺尾八幡神社のご神体として祀られていましたが、明治初年の神仏分離令鶴見区・松陰寺に移されたようです。

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飛鳥時代(7~8世紀)如来坐像(伝阿弥陀如来像)口元が微笑んでいます。

 次に、奈良時代の菩薩坐像で、東国では珍しい脱活乾漆造りの半跏像です。奈良の都で造られたものが横浜の金沢区・龍華寺に伝来しました。 

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菩薩坐像 金沢区・龍華寺 奈良時代8世紀 脱活乾漆造り 兵庫・金蔵寺阿弥陀如来像の脇侍の可能性ありとのこと。

 

 平安時代の作品で、薬師如来立像です。平安後期の仏像は優美で繊細なイメージがあるのですが、地方では素朴な親しみある仏像が作られた、横浜もそのようだったのでしょうか。

螺髪が省略されていて、顔が大きく少しアンバランスです。円空仏のような素朴さ。

 

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薬師如来立像 栄区 證菩提寺 平安時代11世紀 みちのくから伝わったのかも知れません。

 同じく平安時代の菩薩立像(伝千手観音菩薩像)で、青葉区真福寺の本尊です。普通千手観音は42臂ですが、8臂(うち2本は後補)となっており、手が肘から分かれているような異例なお姿となっています。

ふっくらとした丸顏で、東国における千手観音像の古例の一つでしょうか。また頭上には9面ついていますが、これも後補のようです。

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菩薩立像(伝千手観音菩薩像)青葉区 真福寺 平安時代12世紀

 

 栄区・證菩提寺阿弥陀如来坐像です。平安時代1175年頃の作品で、三尊像ですが、中尊のみが展示されています。顔の表情は落ち着いており小粒の螺髪が印象的です。

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阿弥陀如来坐像(阿弥陀三尊像中尊)栄区・證菩提寺

 

 次に、運慶仏の鎌倉時代の作品です。

青葉区真福寺の釈迦如来立像です。京都清涼寺の釈迦如来像は、インド、中国、日本と伝来した「三国伝来の釈迦像」と云われていますが、この清涼寺の釈迦如来像を模刻した清涼寺式の釈迦像です。

 清涼寺式釈迦如来像は、全国で100体近く造像されたようで、頭髪を渦巻状にまとめ、通肩(両肩を覆う)にまとった大衣の衣文線を同心円状に表すなど、当時の中国や日本の仏像とは異なった特色を示しています。

また、この像は切れ長い眉や眼、への字にかたく結んだ唇など特徴ある個性的な表情です。ポスターに飾られています。

 

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釈迦如来立像 青葉区真福寺 鎌倉時代13世紀

 

 次に、同じく鎌倉時代金沢区・慶珊寺の十一面観音菩薩坐像です。 

十一面観音像は、像高43cmの小さな像です。左足は踏み下げていますが、半跏像と違い右足先は左足の上でなく前に外し、くつろいだ体勢で、遊戯(ゆげ)坐像と呼ばれます。この姿勢は中国の宋時代の特徴で、静岡県北条寺の観音菩薩像にも見られます。

鎌倉彫刻らしく玉眼できりりとした顔立ちで、衣の流れは躍動的でさえあります。

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金沢区・慶珊寺の十一面観音菩薩坐像

 

 最後に南北朝時代地蔵菩薩坐像です。この仏像は、静岡県河津町・林際寺からやって参りました。

そのきっかけは、3年前の伊豆の上原美術館の調査により、像内の墨書銘文が発見され、そこには制作年、作者朝栄、かつて横浜金沢の能仁寺(廃寺)のご本尊であったことなどが記されていたのです。従って今回、横浜に里帰りを果たす形となりました。

もともと右手に錫杖、左の掌に宝珠を持っています。

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静岡県河津町・林際寺 地蔵菩薩坐像 朝栄作 南北時代1383年


 他にも数々の特徴ある仏像が展示されておりました。 横浜の仏像が、このように多種多様にあるとは思ってもいませんでした。

この特別展のサブタイトルが「しられざるみほとけたち」とあったのは、正にピッタリで納得しました。惜しむらくは、特別展の会場がやや狭い感じでゆっくり鑑賞出来なかったのは残念です。明日でこの特別展は終了のようです。

 

 尚、この横浜歴史博物館は、常設展において横浜の太古から現代までの歴史を、驚くほどの広さとジオラマなどの展示物で展示しております。また近くに弥生時代の遺跡が発掘され、住居などを復元した大塚・歳勝土遺跡公園があります。この情報は後日とさせて戴きます。

 

追記

 前回、浄真寺の九品仏のことを書きましたが、昨日の新聞紙上で京都の浄瑠璃寺九品仏の修理完了のニュースがありました。「紡ぐプロジェクト」の文化財修理事業で、阿弥陀如来坐像の中尊の修理が完了したとのことです。あとの8体は2022年度に完了するようです。印相などどうなっているか見たいものです。

                               おわり